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めかくし  作者: 初心者マーク(革波マク)
音楽会場編
44/53

44

信じられない事実こそ、

自分の運命を変える大事なサインなのさ。




『めかくし』44




私は軋轢が出てくる時をずっと待っていた。もしもいきなり取り返しのつかないことをしたとすれば、私の座っている後列の観客席では止めようとしても間に合わないだろう。


『郷愁狂臭』をまるでお守りかのように握っていた。


スポットライトがソファを照らしてから、しばらく時間が経つ。周りはざわめきこそしないのだが、軋轢がなかなか出てこないことに焦れている雰囲気を肌で感じた。私も出てきてしまうのなら早く出てきてほしいなぁっと思っていた。



そんなときだ、スポットライトがスーツの男が立つ方向の逆を照らした。そこから遂にあのパンダが現れた。赤いマントに真っ黒のグローブ、そして茶色のムートン。刺宮の英雄は彼らに視線を向けずに、ソファへ歩いて行った。



刺宮の人間では崇拝の対象である軋轢の登場に、歓喜の声があがる。そして頭上では、三人係で持ち上げられた家紋の入った旗が広がっていた。しかし、私は妙な違和感を覚える。軋轢はもっと堂々とゆっくりとした歩き方だったはずだ。



そして、なんだこの腐ったような臭いは。それは、あの時に臭いが意識の範疇にあまりなかったのでパッと思い出せなかったが、沙也夏さんと別れたときに敵として立ちふさがった『肉塊』の臭いと近かった。それに加えて埃っぽい臭いと、嗅ぎなれてしまった血の匂いが混ざって、鼻がもげてしまいそうだった。刺宮の人間はこの異臭に気づいていないようだ。私はジャージの襟の中に顔を埋めて臭いをあまり嗅がないようにしていた。


そして軋轢の姿をよく見ると白い部分は、どこかで転んだのかムートン並の茶色で汚れていて、ところどころに赤い斑点ができていた。加えて背中の赤いマントはびっしょりと濡れたようになっていて、背中にぺったりと張り付いている。


歩いているうちに、その赤いマントと背中の隙間から、何かが滑り落ちた。


スーツの男がいち早く、それが何か気づき男は後ろに退いて幕を掴んだ。そうでもしなければ立っていられないほど、その男の足がガタガタと震えていた。


それは赤いブヨブヨとした『肉塊』だった。それはどこの部位なのかはわからなかったが、身体の一部ということは認めてよさそうだ。それほどに生々しく小さいながらも、私の瞳に存在感を知らしめた。ぬいぐるみから溢れ出た綿わたはそれだけ、ここにいる観客に、神も同然である軋轢の異変をつきつけ狂気を与えていた。


そんなことはお構いなしに、軋轢はよたよたと歩いて行って、立派なソファに腰掛けていた。そして短い足を組む。風格が出るはずのその座り方も、ボロボロのその姿では戦争に負け、国を捨てる王族のようにしか見えなかった。



「――――皆さん、こんばんは」


マイクを使わないパンダから発されたその肉声に、悲鳴や絶望にまみれた雑音ノイズはかき消されていく。周りの音を殺して、そのパンダの声は音楽ホール全体に響いていた。しかしそのパンダの声を聞いて全ての人間が例外なく呆気にとられた。


それは私も同じである。いや、恐らく私が一番面食らったのではないだろうか。



「庵兄ぃ……?」


軋轢の身体から実の兄の声が聞こえてくる意味が、私にはまったく理解できなかった。しかし、柔らかい声質やイントネーションで、誰よりも近くにいた私は兄の声だと確信せざるを得なかった。


「パンダ様は無敵で無敗なのだ……まさかそんなはずはない……」


私の隣に座っている青年はボソボソと呻くように呟いていた。刺宮の人間も軋轢の声ではないことくらい承知の上だろう。だが罵倒も疑惑の声も全くあがらなかった。それほどまでにパンダのその姿を崇めているのだろうか。


「私は貴方達のような、誰かに委ねて正義にでもなったような奴らが、大嫌いです」


パンダは抑揚のない声で独り言のように呟く。まさか庵兄ではないと否定しようとするが、一人称が『私』であることや、主義主張が庵兄のよく話していた内容とリンクしていることを考えると、目の前のパンダが庵兄ぃであるとしか思えなかった。



でも庵兄はこんなことをする人じゃなかった。私が知っている庵兄はワガママを聞いてくれて、優しいけれど、私が無茶なことをするとちゃんと叱ってくれるお兄ちゃんだ。それでもあまり人前で自分を出すことができなくて、中学校でいじめられてしまい引きこもりになってしまったような脆さを持っている人でもある。


私はそんな庵兄をなんだかんだで今の今まで信じていた。信じていたというより自分に言い聞かせていただけなのかもしれない。七宮を『兵器』として利用しようとしてることや、七宮家に来て実力行使で私を連れ戻そうとした時も、それでもまだ間接的にしか異常さを感じていなかった。


「だから皆様、崇拝者である家長の命令です」


だが、ステージに上がっていたパンダの皮を被った私の兄は、左手の黒い拳を観客に向ける。そして力いっぱい親指を立てて――――そのまま腕をねじり180度ひっくり返した。



「死ね」



その宣告は、音楽ホールに恐ろしいほど響いていた。この空間にはただならぬ重たい静寂が広がっている。その中でパンダの脇にいたスーツ男が銃を取り出した。そしてパンダを睨むように見つめてから、泡を口の端にくっつけながら、叫んだ。


「刺宮万歳っ! 軋轢様お待ちくださいね……!!」


私はそれを聞いた瞬間、庵兄が撃たれると思い観客席から立ち上がろうとする。しかし立ち上がりきる前にそのスーツ男はこめかみに銃口を当てためらうことなく、引き金を引いた。その光景はあまりにも一瞬で、また静寂を呼び戻す。だがそれは今度は長く続かなかった。今度は後ろで断末魔が聞こえる。私は反射的に、その方向へ首を曲げる。


そこでは抱きしめ合っているカップルがいる、と最初は見間違えた。しばらくすると男のほうがズルリと崩れ落ちる。女の手にはナイフが握られていた。そして鳥が鳴くような高い声を上げて首にナイフを突き立てていた。それからまた一人、また一人と様々な道具を使って自ら命を絶ち始めたのだ。



そのタナトスの衝動は、まるで死神がここに舞い降りたかのような錯覚を起こした。



それは疫病かのように連鎖をして、狂気は狂気を呼んでいた。私は「自分も死ななければいけないのか?」と頭の中で疑問が湧き上がって、必死で耳を塞ぎ、息を止め縮こまっていた。五感の全てを遮断しようと身体を抱きしめていた。


しかし雑音や、篭った部屋のぬるりとした湿度、殺し殺される惨状などを意識から排除しようとしている中でも、とある匂いが私の閉ざそうとしている五感を無理矢理押し広げる。



それは、懐かしい『椿』の匂いだった。



「唯、こっちにおいで」


そして庵兄の声が耳元で聞こえるのだ。私はびくっと背中を震わせ、うずくまる身体を起こし周囲を見渡す。そこには庵兄はいなくて、あるのは眠ったように死んでいる、涎の変わりに血をたらした青年の死体しかなかった。次に目の前のステージに目を向ける。


パンダは足組みをしたまま観客席を見下ろしていた。何も見ていないような飾りの黒い瞳は、一体何を写しているのかわからない。だが、確かに私のほうへ首を傾けていた。私は庵兄ぃが恐ろしくて仕方がなかった。本能的な恐怖とはこういうものだろうか。


沙也夏さんからたまに感じる本能的な恐怖とはまた違う。捕食される動物的な心理からなる恐怖ではない。どこか人間の禁忌タブーに手を伸ばしてしまうような霊的な心理からなる恐怖だった。それでも庵兄ぃの声は止まなかった。「こっちにおいで」と脳内で何回もリピートされる。


私の腰はゆっくりと持ち上がっていく。まるで操られているかのように、私は狂騒の中をかいくぐりステージへ歩を進めていった。






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