第一信 雨の日の傘
突然のお手紙をお許しください。
あなたは、僕のことを覚えていないかもしれません。
もし覚えていなかったとしても、それは当然のことだと思います。
特別に親しかったわけではありませんから。
同じ講義を受けていたことがある。
同じ時間に、同じ場所にいたことがある。
たまに言葉を交わしたことがある。
そのくらいの関係だったと思います。
それでも、どうしても一度だけ、あなたに向けて書いておきたいことがありました。
届けるためというより、残しておくために近いのかもしれません。
言えなかったことを、言えなかったままにしておきたくなかったのです。
あなたにとっては、きっと何でもない一日でした。
けれど僕には、まだ残っています。
あの日は、昼から雨が降りました。
強い雨ではありません。
傘を差すかどうか迷うほどではないけれど、差さずに歩けば、駅に着く頃には肩も髪も冷たくなってしまうような雨でした。
講義が終わる頃には、少し弱まっていたと思います。
僕は傘を持っていなくて、校舎の出口でしばらく立っていました。
駅まで走るには少し遠くて、雨が止むのを待つには少し心細い。
そういう、どうにもならないほどではないけれど、誰かに見られると少し情けないような時間でした。
そのとき、あなたが声をかけてくれました。
駅までなら一緒に入れますよ、と。
本当に、ごく当たり前のように。
あなたは覚えていないと思います。
けれど僕は、あの日の傘の色を覚えています。
雨粒が布の上で小さく跳ねる音も、駅までの道がいつもより少し短く感じたことも、あなたが傘を少しだけこちらに傾けて歩いていたことも、まだ覚えています。
そのせいで、あなたの肩が少し濡れていました。
僕はそれに気づいていました。
けれど、言えませんでした。
傘、そちらに寄せてください。
濡れていますよ。
それくらいの言葉を言えばよかったのだと思います。
でも僕は、その言葉をうまく選べませんでした。
自分が傘に入れてもらっている側なのに、あなたの濡れた肩を指摘することが、なぜかとても難しく思えたのです。
駅に着いたとき、僕はたぶん、小さく頭を下げただけだったと思います。
ありがとうございます、と言ったのかもしれません。
けれど、ちゃんと届く声ではなかった気がします。
雨音に紛れてしまうくらいの、
自分でも聞き取れないくらいの、
そんな声だったような気がするのです。
あなたが微笑んで、手を振ってくれたけれど、声が届いたかどうか、わからなかった。
それが、ずっと心に残っていました。
僕が覚えているのは、傘に入れてもらったことだけではありません。
濡れないようにしてもらったことより、
濡れている僕に、あなたが気づいてくれたことの方が、
ずっと長く残りました。
その優しさは、あなたにとって大げさなものではなかったのかもしれません。
誰かに見せるためのものでもなく、言葉にして褒められるつもりもなかった。
ただ、出口で立っていた人に気づいて、傘の半分を差し出した。
それだけのことだったのだと思います。
でも、僕はその「それだけ」を、ずいぶん長く覚えていました。
不思議ですね。
大きな約束を交わしたわけでもありません。
特別な言葉をもらったわけでもありません。
あなたは僕に、何かを与えようとしたわけでもなかったはずです。
それなのに、あの日の雨だけは、今でもときどき思い出します。
雨の匂い。
濡れた靴音。
傘の内側に落ちる、少し暗い影。
駅の改札が見えてきたとき、もう少しだけ雨が続けばいいのに、と一瞬だけ思ってしまったこと。
その一瞬のことを、僕は今でも少し恥ずかしく思います。
あなたにとっては、ただ駅まで歩いただけの時間だったと思います。
だから、この手紙を読んで困らせてしまったなら、申し訳ありません。
お返事は、どうかお気になさらないでください。
ただ、あの日のことを、僕がまだ覚えていること。
そして、あのとき言えなかった言葉を、今さらでも、あなたに向けて残しておきたかったのです。
ありがとうございました。
あの日から、雨の日が少しだけ嫌いではなくなりました




