20・道が開ける時
一九七三年三月――ルミは高校の卒業式を迎えた。
最後のホームルームを終えて教室を出た卒業生たちは、沿道を埋め尽くした在校生たちが撒き散らす大量の紙吹雪が舞う中、校門に向かってぞろぞろと歩き出した。在校生たちから黄色い歓声が上がっていたが、ルミが姿を見せた途端にあちこちからクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「ねえねえ、D子先輩が来たよ」
「ダメよあんたたち、D子さんに聞こえたら、映画みたいに関西弁で恫喝されるわよ」
「あーこわい。でも面白いよね。あのエンドロール、何度見ても笑っちゃうもん」
ルミは卒業証書と花束を手に笑顔を見せていたものの、内心は激しい怒りに震えていた。
昨年末に映画「旅の歌」が公開され、ルミが不良少女役として映画出演を果たしたことが校内であっという間に話題になった。しかし、それは驚嘆や賞賛ではなく、嘲笑の対象としてであった。
特にエンドロールで「不良少女D 小野田ルミ」と表示されたことが生徒たちに受けたようで、それ以来ルミは他の生徒達から「Dちゃん」とか「D子」と呼ばれてからかわれるようになった。
多くの生徒達が記念撮影に興じる校門では、先生達がまるで警備員のように腕組みしながらぐるぐると辺りを見回っていた。時折パトカーが学校周辺を巡回しているのも見えた。学生運動は下火になりつつあったが、暴動が起こるのを警戒する動きは未だに解けていなかった。ルミは、見回りをしている先生たちの陰に隠れるかのように、そそくさと校門をくぐっていった。
「おーい、ルミ。もう帰っちゃうの?」
背後から、照代の声がした。
「だって……みんな私を笑い物にするのが耐えられなくて」
「そうよね。オーディションに受かって映画に出るのって凄いことなのに、誰一人そのことには気づかないで、エンドロールの事ばっかり話題になって、私も聞いていて頭に来ちゃうもん」
照代だけがルミの唯一の理解者だった。演劇一筋で、将来俳優を目指そうとしているだけのことはあり、見ている所が他の生徒達とは違っていた。高校卒業後は多くの俳優を生んだ日本大学芸術学部への進学を決めており、アングラ劇団「蜥蜴」の舞台にもチョイ役ながら出演するらしく、女優への道を着々と進んでいくようだ。
「ところでさ、ルミ……あまり大きな声では訊けないけど、大学受験、どうだったの?」
「てんでダメだった。夏休みをまるまる遊んだツケが回って来てね。親に怒られて秋から慌てて勉強したけど、間に合わなくて。滑り止めの私立大学の試験もダメだったよ」
「じゃあ、浪人?」
「うん」
「そうか……とりあえず、どこの学校でもいいからまずは合格して、学生をしながら小さな劇団でも良いから入らせてもらうといいよ。ルミが良かったら、『蜥蜴』の龍さんに話しておくけど?」
「アハハハハ、気持ちはありがたく受け取っておくよ」
「いつか同じ舞台に立てるといいね」
「そうだね」
二人が駅に到着すると、ルミがいつも乗っている二両編成の電車が既にホームに到着していた。
照代は手を振ってルミが乗る電車を見送ってくれた。思い返すと、照代は将来に夢を描けず鬱々としていたルミの道を開き、背中を押してくれた存在だった。照代があの時「蜥蜴」の舞台を見せてくれなければ、今の自分のやりたいことも、明との出会いも無かった。
二両編成の電車は冬枯れの黒褐色に染まった山々を縫うように進み、いつものように自宅近くの無人駅に到着した。駅舎を出ると、父親である信介がいつものように軽トラックで乗りつけて待っていてくれた。
「ようルミ、卒業おめでとう」
「こちらこそ、今日まで送り迎えしてくれてありがとう。あ、でも市内の予備校に通うから、最低もう一年はお世話になるのかな」
信介はどこか浮かない表情で、ポケットから取り出した煙草に火を点しながら口を開いた。
「……せっかくの目出度い卒業の日に悪いけどさ、どうしてもお前に会いたいという男が突然家に来たんだ」
「へえ、誰なの。則夫さん?」
「まあ、則夫君ならば大歓迎なんだけどな……お前は知ってるかもしれんが、映画監督の上田という男だ」
信介は煙草をふかしながら、怪訝そうな顔で上田の名前を口にした。
「監督が私の家に? 私なんて、チョイ役の一人でしかないのに」
「お前に、また映画に出てもらいたいんだそうだ」
「私に? どうして?」
「理由は知らん。俺は一貫して反対してるんだが、相手もなかなか引き下がらなくてね」
「……」
ルミは助手席に座ると、しゅんとした表情で卒業証書と花束を握りしめていた。
信介はそれ以上言葉を発さず、憮然とした表情で煙草を口にくわえながらハンドルを握っていた。車の吸い殻入れには、物凄い数の煙草の吸い殻が溜まり、白い煙が車内に立ち込めていた。信介は普段から煙草を吸うものの、こんなに大量に吸うのは見たことが無かった。
浪人が決まった矢先に再び映画に出演することに苛ついているのだろうか、それとも、何か別な理由なんだろうか——?
やがて軽トラックは、自宅の前にたどり着いた。玄関のすぐそばには、映画制作会社の名前の入ったワゴン車が停まっていた。
居間に入ると、中央に置いてある炬燵の前で監督の上田とその部下らしき若い男が隣り合わせに座っていた。台の上には、上田の名刺が置かれたままになっていた。
「監督……お久しぶりです!」
「ああ、小野田さんか。ごめんよ、急に押しかけて」
上田は、撮影時と同様にひょうひょうとした感じでルミの元に近づいた。
「君とご両親に折り入って頼みがあって、わざわざここまで来たんだ。今年の冬に公開する我々の新作映画に、ぜひ君に出てもらいたいんだ」
上田の隣に座っていた若いスタッフは、映画のあらすじが書かれた書類をルミに手渡した。
映画のタイトルは「暖簾」という名前で、閉店を間近に控えた下町の小料理屋を舞台に様々な人間模様が繰り広げられる物語である。ルミの役は田舎から家出してきた少女で、小料理屋に居候するものの反抗的な性格で店主といざこざが絶えないという設定になっていた。
「今度はチョイ役じゃない、セリフの数も前作の倍以上だ。主役の赤城明とのセリフの掛け合いもある。それにこの作品は大手の配給会社から出すから、君の名前は一気に広がることになると思う。『旅の歌』の製作スタッフは、君の演技力をとても高く評価していたよ。あんな役で終わらせていいのかって、撮影終了後に議論にまでなったんだよ」
すると、信介が突如両手をテーブルに叩き付けた。
「だから何だと言うんですか? あんた達、この子の幸せを本当に考えてるんですか? 俳優業なんて浮き沈みの激しい世界に、この子を行かせるわけにはいかない」
「それは重々分かっています。でも、それはルミさんの可能性を潰すだけのような気もしますがね」
上田と信介は、炬燵を挟んで唾を飛ばしながら延々と議論を続けていた。
二人の議論は交わることが無かったが、交わされる言葉はルミの心の中にある葛藤そのものだった。映画には出たい、でも、親が自分に進学してほしい気持ちも分かるし、これ以上浪人もできない――。
ルミは思わず耳をふさいだ。しかし、二人は次第にヒートアップし、いくら耳を強く塞いでも激しく言い合う声が入ってきた。我慢の限界に達したルミは、思わず声を張り上げた。
「やめてください、二人とも!」
二人は同時に「はあ?」と唸り声を上げ、顔をしかめてルミの方を睨んだ。
「監督……お話はとてもありがたいし、嬉しいです。でも私、大学受験に失敗して浪人することになりました。今後女優の道に進むかどうかは、ちゃんと大学に受かってから考えたいと思います。本当にごめんなさい」
ルミは深々と頭を下げると、床に置いた卒業証書と花束を持ち、背中を丸めながらぼとぼと居間から離れていった。自室のドアを閉めると、卒業証書と花束を畳に思い切り投げつけた。
窓の外に目を遣ると、肩を落とした上田を同行した若い男が慰めながらワゴン車に乗せている姿があった。上田としては、何としてもルミに出演してもらいたくてこんな田舎まで足を運んだのに、肩透かしを食らったに違いない。
ルミはワゴン車が遠ざかっていくのを窓越しに見送ると、髪を両手でくしゃくしゃにかき乱し、机に顔を突っ伏した。
上田に話した通り、これ以上浪人出来ない立場にあるのは事実だが、俳優の道への足掛かりになる作品だし、いつか明に再会するための第一歩でもあった。それをみすみす逃すのが、悔しくて仕方がなかった。
ドンドン、ドンドン
空が茜色に染まり、陽が陰り始めた頃、誰かが部屋のドアを何度も強く叩く音が聞こえた。
「ルミ、お父さんがあんたのこと呼んでるよ。早く行ってあげな」
母親の節子の声がした。
ルミは一体何事かと、けだるそうな表情で居間へと戻っていった。
そこには、真っ赤な顔で猪口を手にした信介の姿があった。信介の傍には、空になった日本酒の瓶が転がり、信介は顔を赤らめながらお銚子に入った日本酒を猪口に注ぎ込んでは一気に飲み干していた。
「おう、ルミか。お前にちょっと話があるんだ」
「私?」
「そうだ、そこに座れ」
ルミは信介の目の前で、スカートから膝小僧をのぞかせながら正座した。
信介の体中からは、強烈な酒の匂いがした。
信介は猪口の酒を一気に流し込むと、呂律が廻らないまま言葉を話しはじめた。
「あの上田って男、お前の返事を聞いてがっかりして帰っちまったけどさ。お前、本当にあの男の提案を受け入れるつもりはないんだな?」
「本当は受けたい。けど、もうこれ以上浪人はしたくないし……」
「はあ? 馬鹿かお前は!」
信介はしゃっくりをしながら、猪口を卓袱台に叩きつけた。
「馬鹿ってどういう意味よ?」
「行って来いってことだよ」
「……え? 本気で言ってるの?」
「俺がウソなんか言うわけないだろ? 行って来いって言ってるんだ! こんな凄い話、どうして受けるのをためらってるんだ?」
信介は血走った目でルミを睨むと、上田が置いていった映画の資料をルミに手渡した。
「俺、お前の出た映画を見たけど、我が娘ながらなかなかやるじゃねえかと思ってたんだよ。去年の夏休み、しぶしぶながらお前を京都に行かせて正解だったと思ってた。ただ、お前にはちゃんと大学を出て安定した人生を歩んで欲しいという気持ちもあってな……俺も悩んだんだよ」
「お父さん……」
「でもな、やっと結論が出た。どうせやるなら、とことんやってみろ! ただ、サラリーマンと違って明日はどう転ぶか分からん世界だ。その責任はすべて自分で負え。それが条件だ。分かったか!」
「うん」
ルミは目頭を押さえながら、大きく頷いた。信介はルミに顔を見せることなくひたすら飲み続けていたが、やがてお銚子を手にしたまま炬燵の上に突っ伏してしまった。
「あーあ、こんなに飲んじゃったのね」
節子は日本酒の空き瓶を手にしながら苦笑いをしていた。
「お父さん、あんたが部屋に戻った後、映画の資料を読みながら歯ぎしりしていたのよ。『俺は何て馬鹿なことをしたんだ!』ってね。でも、浮き沈みの激しい世界であんたに苦労をさせたくもないし、最後まで悩んでいたみたい。自分の中で結論を出すまでこーんなに飲んじゃって、身体に悪いったらありゃしないわよ」
信介は大きないびきをかきながら、倒れた銚子や猪口の脇で眠り続けていた。
ルミは溢れ出る涙を拭きながら、信介の耳元でそっと囁いた。
「お父さん、ありがとう。私、絶対に自分の夢を叶えてくるから」
信介からは返事が無く、ひたすらいびきをかいて眠り続けていた。
その顔はさっきまでの切羽詰まった様子と違い、安堵しているように見えた。
ルミは、炬燵の上に置かれたままの上田の名刺を手にすると、居間に置いてある電話のダイヤルを回した。
「あの、小野田ルミです……はい、先ほどの映画の出演依頼、お受けしたいとおもいます。え? 大学受験? いいえ、私はこれから女優として生きていこうと思いますので」
ルミは受話器を置くと、胸に手を当ててホッと一息ついた。
目の前の重い扉が開き、夢だった俳優への道が開け、その先には初めて心から好きになった明が待っている――ルミの胸はこれまで味わったことがないほど高鳴っていた。




