2・縁側にて
ルミは学校の最寄駅から、電車に乗って家路についた。
単線を走る二両しかないワンマン電車は、住宅地を抜け、やがて深緑に染まる渓谷沿いを速度を落としながら駆け抜けていった。やがてルミの視界に、掘立小屋のような小さな駅舎が入ってきた。ここ最寄り駅であるが、ルミの自宅はここからさらに車で二十分ほど進んだ山奥の集落にあった。
ルミは電車を降り、大きなあくびをしながら駅舎をくぐりぬけた。周囲に民家が数軒しかない寂れた駅前では、一台の白い軽トラックが待ち伏せしていた。ルミはためらうことなく軽トラックの助手席のドアを開けた。
「ただいま、お父さん」
「おかえり、ルミ。どうだ、今日はちゃんと間に合っただろ? いつも来るのが遅いって怒られるから、少しだけ早く家を出てきたんだ」
運転席では、父親の信介が煙草を吸いながら得意げな表情を見せた。
「ありがとう。でも、一学期は今日までよ。次にお願いするのは一カ月後になるから、その時も忘れずにね」
「アハハハ、大丈夫だって。こう見えても東京の銀行員時代は、顧客との約束を守る営業マンとして絶対的な信頼を得ていたんだから」
「いつのことよ? もう大昔でしょ? 田舎に来てからは本当にルーズになったよね」
「だって、この辺りの人は約束通りの時間に来たことなんかねえもん。俺も地元の人達とお付き合いするうちに、だんだん周りに染まっていったわけでさ。ガハハハ」
「悪い所は真似しなくていいよ。今日は暑いから早くお風呂に入りたいの、早く出発してちょうだい」
「はいはい、じゃあ、出発進行!」
信介はエンジンをかけると、激しい音を出してエンジンが唸り、軽トラックは駅前の道路を一気に駆け抜けていった。
カーラジオからは「話題のホットミュージック」と題した番組が流れ、人気歌手の新曲が次々と登場した。すっかり人気が凋落したグループサウンズの楽曲の後に、ルミには耳馴染みのある歌声が聞こえてきた。
「あれ? 今の歌声って、よしだたくろうだよね?」
「そうだ。ルミが大好きなたくろうの新曲だよ」
「へえ……たくろうにしては随分しんみりした歌ね」
郷愁のあるブルースハープの音色と、情緒溢れる懐かしい感じの歌詞。アナウンサーは、この歌の曲名を「旅の宿」と紹介していた。
車はつづれ折りの坂を駆け抜け、深い森の中を通り抜ける細い道を慎重にスピードを落としながら通過すると、やがて視界が開け、目の前一面に水田が広がっていた。
ルミの家は水田の周囲に点在する小さな集落の中にあった。集落といえどわずか五、六軒しかなく、はるか昔からこの土地で農業を営んできた人達が暮らしていた。
ルミは元々、東京都内にある信介の会社の社宅で生まれ育った。しかし、ルミが中学生の時に信介の母――つまりはルミの祖父の信五郎が持病により農業を続けられなくなり、信介は跡継ぎとしてこの田舎町に呼び戻された。
それに伴い、ルミを含めた家族全員もこの町に引っ越してきた。
引越してきた当時、ルミは家電製品も全く無い原始的な生活を送ることに不便と不満を感じ、隙あらば家出して東京に逃げ帰ろうとした。ある時は野菜や米の載った軽トラックの荷台に飛び乗り、またある時は道路工事のダンプカーに載せてもらったこともあった。しかし、そのたびに信介は警察や近所の消防団などあらゆる手段を尽くしてルミを捕まえ、連れ戻してきた。
今はもうこの田舎町での生活に大分慣れて、家出をしようとまでは思わなくなったものの、少しでもチャンスがあればすぐにでもこの町を出ていこうという気持ちだけは、ずっと心の奥底で抱いていた。
家にたどり着くと、ルミは風呂に直行し、体中の汗をきれいさっぱり洗い流した。
風呂から上がったルミは、濡れた髪をタオルで丁寧に拭き取り、アメコミ風のイラスト入りのTシャツとデニムのホットパンツに着替えた。ルミは縁側に出ると、ホットパンツから大きく露出した白い太腿を床に投げ出し、涼風で火照った体を冷まそうとした。縁側では優しくそよぐ風が吹き渡り、目の前の田んぼでは青々とした苗が波のように左右に揺れていた。
ルミが脚を伸ばして涼んでいると、縁側の向こう側からバイクの唸る音が聞こえてきた。しばらくすると、一台のスポーツバイクが徐々にスピードを落としながら庭先に入ってきた。バイクに乗っているのは高校生位の少年で、ヘルメットを深々と被って背中にギターを背負い、その様は特撮ヒーローのキカイダーに登場するジローのようであった。
「ルミさん、おばんでーす」
少年はヘルメットを外すと、ニキビ面をくしゃくしゃにしながらさわやかな笑顔を見せていた。。
「何だ、則夫君か。どうしたのよ、こんな遅い時間に。もう日が暮れるから、ご両親も心配するでしょ?」
バイクの主は、中野則夫だった。則夫はルミと同じ集落で暮らし、親同士でも消防団活動で親交があった。ルミの一つ年下であり、則夫の親はルミをいずれ則夫の嫁に……と企んでいると小耳にはさんだことがあった。しかし、ルミにとって則夫は、何を考えているのかよく分からない、いまいち付き合いにくい男でしかなかった。
「おっ、ルミさんのお御足、相変わらずキレイですなあ」
「ちょっと、ジロジロ見ないでよ。それより何しに来たの? 疲れてるんだから、手短にお願いね」
「今日もルミさんの大好きなたくろうの曲を演奏しにきたんですよ。一生懸命練習してきて、やっと弾きこなせるようになったから、いの一番にルミさんに聴かせたいと思って」
則夫はギターの弦を一気にかき鳴らすと、よしだたくろうの「結婚しようよ」を唄い始めた。楽曲のイメージ通り明るく楽しく唄っているのはいいが、ギターのコードは殆ど間違っており、則夫もギターに釣られて所々音階を間違って唄っていた。
ルミは可笑しくて大声で笑いたかったが、必死に唄っている則夫に失礼だと思い、腹に力を込めてぐっとこらえていた。
「どうでしょう? 茶々を入れずにずっと黙って聴いてたということは、僕の演奏が上手かったからですよね?」
「うん、とりあえずは良かったよ。でも私、たくろうは好きだけど『結婚しようよ』って曲はあんまり好きじゃなくて」
「どうして? こんなに明るくて楽しい曲なのに?」
「だって、結婚でしょ? 私、ぜーんぜん興味ないもん。そもそも、何で結婚しなくちゃいけないの?」
「何を言ってるのですか? 男も女も結婚して一人前と認められるんですよ? 僕とルミさんも、いつの日か……」
「結婚から一体何が得られるの? 私には、人生をムダに浪費しているとしか思えないのよね。うちのお母さんを見ていても凄く感じるんだもん。こんなしょうもないお父さんの世話をするために、一度しかない人生を無駄にして……私にはとても出来ないよ。どうしても好きな人と一緒になりたければ、結婚じゃなく同棲すればいいんじゃないの?」
「同棲しろだなんて……ルミさん、そんなふしだらことを大人たちに言ったら、何を言われるか分かってるのですか?」
「とにかく、そういう訳で『結婚しようよ』は好きじゃないの。そうそう、たくろうは最近、『旅の宿』って曲出したでしょ?」
「たび……の、やど?」
「あれ? 則夫さん、ひょっとして知らないの? 私にたくろうの歌を弾いて聴かせたいんじゃなくて?」
「いや、その……多分聴いたことはあるかもしれないけど。アハハハ……」
則夫は深々と頭を下げると、頭を掻きむしりながらギターを背負い、バイクに跨ってそそくさと帰っていった。
ルミは呆れ顔で、エンジンを唸らせながら田舎道を走り抜けていく則夫の後姿を見送っていた。
気が付くとすっかり日が暮れ、心地よい夜風が軒先に吊るした風鈴がかすかな金属音を立てて揺れていた。この夏休みを自宅で過ごせば、蒸し暑い平地にいるよりは心地よく凌げるかもしれない。しかし、ルミの心は全く満たされていなかった。
学校の勉強も、家族や地域のしがらみからも自由になれる、知らない土地に行ってみたい……ルミは縁側の上に寝転がり、真上に広がる無数の星が瞬く夜空を眺めながら、見知らぬ世界への想いを馳せていた。




