十六話 一匹狼 対 元邪神
『同僚の助けは少なくとも数日後になる、この窮地は我々だけで対処しなければいけません』
ハナから有象無象のことなど当てにしていない。意に介すことなく、上へと只管光へと手を伸ばす。
「この身一つ、俺は絶対に折れない。どの道やつを殺さない限り、自由にはなれない。急いで、同居人と合流するぞ」
『私が忠告しても、アナタは意に介さず向かうのでしょうね』
「幻滅したか?」
『支持はしない、でも好ましくは思います』
と苦虫を噛み潰したような声音で紡ぐ幽霊を、嘲笑うように喉を鳴らした。
「世辞はいい。有象無象が何と言おうが、俺は己の道を突き進むだけだ」
最上段へと顎を乗せると、外の光が眼球を突く。続いて凄まじい熱気が駆け抜けた。
『走り切ることが、吉と出るか凶と出るか』
庇った瞼の奥でさえ、焼き付くような熱気が渦を巻いていた。波打つような熱を知覚しながら、憮然と砕けた膝を引き摺る。体重と重なった肉と肉の間からは勢い良く血潮が噴き出す。
「高が肉体的苦痛だ、この俺が屈するものか」
唇に絡む粘着質な唾液か血液か定かではない、不快感は戒めとし、甘んじて飲み干した。焼き付く景色の中には、強烈な死臭を纏う瓦礫の山が所狭しと広がっていた。
「この集落を見て確信した、俺に負ける要素はないな」
管理者の小屋が密集して簡易的な集落を形成していた痕跡と並行して、欲を貪る凡人の醜態が瞼の裏に浮き彫りになる。
「ボスとやらを含めても、俺の脅威になるような人間はいない。芸術家と殺し合った今なら尚更そう思える。」
『烏合の衆でも、数は十二分に脅威になり得る。勝てないと発言したのは、決してアナタを軽んじたワケではありませんよ』
「どうとでも言えばいい。肉体の良し悪しは問題ではない。そんなもんは俺の枷にはならない」
『正義なら、なるのにね』
神経を逆撫でするような、皮肉めいた言葉に最悪だった気分は更に急降下した。
「知ったような口を利くな」
例え同居人の亡骸が転がっていたとしても、乱雑に打ち捨てられた惨殺死体と区別を付けるのは困難を極めるだろう。時間の経過によって、転がる肉片は男女の区別すら危うい。
『淘汰された者のことを憂いているなんて少し意外でした。所詮は切り捨てるべき矮小な駒でしかないのだから、気に病むことはないと思いますよ』
「牙とは、相応に備わっているものではない。力及ばず、不条理に屈するシチュエーションは余りにありふれている。人間の真価は答えのない問題をどう対処するのかで決まる。俺とは違う地獄の住民の行く末には興味もある。例え無意味に息絶えたとしても、結果は必ずしも重要ではないんだ」
適応し、牙を研ぐ者のことを饐えた視野しか持ち合わせがない外野に否定する資格はない。貴様が何者でもないのなら、名を名乗るな。陳腐な肩書き一つで満足し、酔いしれている蛆虫に、背負えるものなど一つとして存在しないだろう。
『名誉の為に命を擲てと?一般市民には難しいでしょうねぇ』
伝う鉄と人摘みの熱情を噛み締めて、零した。
「名誉、ね」
『不服ですか?』
「命乞うのは、ただ楽な方へ、運命を享受している証拠だ。名誉は意外と軽い、天秤は簡単に傾くと思うよ」
『敗北に首を絞められているのね』
「何の話?」
『もっと、私に心を開いて。アナタに絡み付く茨の細部に至るまで、私なら、その繊細な刃を解いてあげるられる』
「あー、そうか。吐いたクソは忘れてくれ、心配かけたな」
地獄で培ったヘドロで荒んだ心の隙間を補い、憎悪の炎を灯したことで応えた。
「俺は、もう大丈夫だ」
絶え間なく理解者を欲する女々しい内心をぶっ殺す為に、己の腸を掻っ捌く妄想を追加で浮かべた。
『命を削り追い付いたとしても、重要なのはその次でしょ』
「俺に休んでいる暇はない」
前へ、只管前へ。幽霊の影を追い越して、同居人の後を追う。擡げる最低最悪の妄想が焦燥感の火種だった。同居人の生首を抱えて、登場する芸術家を脳裏に思い浮かべては、泥船へ縋り付こうとする未熟者を内部で糾弾し続ける。
「底辺に居座るべき欠陥品はその限りではないが、地獄とは啓蒙を授ける。前は兎も角、今も悪意の巣窟に居座るのは違うと思った」
『買いかぶり過ぎだ』
首を捻って、凝り固まった筋肉を解す。何か効果的な言葉を模索するが、結局は喉で閊えて意味を失ってしまう。
『我々に次は控えていない。矮小な者に目をかけている余裕などない筈だ』
俺以外の人間は総じて似て非なる贋作である。例え万人が地獄へ転落しようが、俺の関心を引くことはない。なら地獄に身を置きながら他者を尊重出来る角の生えた女へ向ける一定上のこの熱を何と説明する。
「知らない、分からない」
『同情?親近感や?使命感?それとも、』
妙に俺の情の行く末に食い下がる様子に、既視感を覚えつつも適当に思い付いた言葉を吐いた。
「忍耐力?」
『看過出来ない、それこそ綺麗事ではないか。』
「俺は殺し合いがしたいだけだ」
『誤魔化さないで』
「何が?嘘は言っていない」
糾弾するような声音に、軽薄な嘲笑が漏れた。殺し合いへの渇望に偽りはないのだから、これはリアリティに欠ける謂れのない中傷に他ならない。
『そこは疑っていません、私の意図を分かっている上での返答ならとても悪質だわ』
幽霊の内部で燻っている原因には思い当たる節があったが、そこを態々掬って紐解くような感性なら、俺には持ち合わせがない。
「知るか、こんなしょうもない押し問答に拘っている暇はないんだよなァ」
相手にすることなく突き放すと、幽霊の饒舌だった勢いは急速に失われ、遂には沈黙するに至った。腹の底を窺いつつも、不自然な感情の出処を見透かす。
「何が最善か、この状態で逃げ果せると本気で思っているのか?何も俺は善意で、身を寄せようとは考えていない。一人一秒と仮定して、弾は四発。最悪同居人には死んでもらう」
『どう唆すつもり?』
「復讐に囚われ、命に頓着していない。求めずとも、自発的になるさ」
『勝てますか?』
半信半疑と言えばいいのか、妙に含みを持った言い方に腹の底で不快感を孕んだ。
「分かっている。次は容赦なくトドメを刺す」
『私とアナタは今や、命を共有しています。片方の危機は影にも波紋を落とします。醜悪な首を掲げる芸術家は相応しくない。苦楽を共有する良き理解者になるには、私では役不足ですか?』
不気味に連なった善意の対応に手を拱いて、目を逸らした。
「別に、」
未だに幽霊は従えと上下関係を求めるようなこともなく、あくまで要望を述べるにとどまり、破格の自由を俺に委ねていた。扱い難い複雑な性質に、備えておくべき解決策の着地地点を見失ってしまう。利益の為に懐柔したいのであれば、無条件に出迎える善意は偏に不自然であり、不必要な労力であると言わざるを得ない。
『ねぇ、何が気に食わないのでしょうか?重視するべき相手を間違えていてはチャンスを見逃してしまいますよ』
絡んだ血潮を舐めて、口を開く。
「一ついいか」
『どうぞ』
「置いて来た俺の肉体はどうなった」
『秘密裏に安全な仮拠点へ移しました。名実共に身の保証は聖教会の管理下に置かれ、何者であろうと触れることは叶いません。常に上級神官が常駐しており、厳重に警護にあたっています。』
「要は飼い主が変わっただけか」
自信満々に連ねる幽霊へと不信感由来の不満を叩き付けた。何かに属す行為が安心へと繋がるのは脆弱な者だけだ。俺のように個で完結している者にとって、態々劣る集団に属すメリットは考え付かない。
『いけ好かない金の亡者が、血眼になって捜索している姿が目に浮かびますねぇ。どう?無礼な者が頭を抱える様は、』
「なんで未だに、味方のフリをしているんだろうねぇ?」
『運命を共にしています、これに優る誠意は他にない』
その誠意とやらが、俺の目には脅迫に映っていた。新しい飼い主への信頼が前提にある幽霊と違って、俺の中では金の亡者も狂信者共も同じ穴の狢でしかない。
「馴れ合う必要がどこにある、脅して従わせればいい。首を落とせば、この俺も殺せる。俺の首を握っている状況に免じて、多少の不条理にも目を瞑ってやる」
『心外だわ、目的を達成した暁には自由を与えると約束したではありませんか』
「今が最後でも、別に俺は構わない」
『ふふっ、またそれですか。少し狡いですよ。もう。えぇ、約束するわ、必ず、期待通りの自由を与えよう。』
不気味な善意が脳内を巡る。不透明な感情の出処に、幽霊の不可解な言動を紐解く鍵がある。一旦血を伴う対応策は頭の片隅にでも仕舞い込み、迫る火の粉へと神経を集中させる。
「十分休んだ、ここからは走るぞ」
火を放たれた集落から脱出を果たして早々に、そう言って俺は身を起こした。噴き出す膝に構うことなく、森林地帯の木々の合間を縫って同居人の影を追う。必然的に限界を訴える足下が絡まり体勢を崩すが。聳える木々には叩き付けられる前に自ら頭突きを入れることで、前傾姿勢を維持し続けた。
「報復が目的なら、鏖殺は妥当か。それとも芸術家の判断で、一掃することを選んでいるのか。」
一番都合がいいのは、一定の裁量を持ち、組織が芸術家に判断を一任している場合だ。
「どう考えても、ここは大した拠点ではない」
幽霊も野盗のことは畑を耕して小銭を稼ぐ三下だと言っていた。芸術家のような実力者を囲う組織が本腰を入れて、三下の殲滅を画策するとは思えない。その日の気分で、思い出したように利益を掠め取る羽虫を片手間に払う方が自然だ。
「芸術家の気分次第なら、意外と口でも戦えるか」
『すみません、口で解決出来るのなら、現実はこうも拗れていない』
何気なく幽霊が放った皮肉めいた苦言に、沈み込んだ胸を歓喜が膨らませた。
「へへっ、確かに。アンタがナメた視野を用いる蛞蝓じゃなくてホントよかった」
『微力ながら、力になれましたか?』
「心が軽くなったよ、ありがとう」
前方から発生した突風に煽られ、髪の束が揺らめく。迫る質量に、疑問を挟むことなく後方へと飛んだ。日陰を作っていた木々を薙ぎ倒されたかと思えば、目前には巨大な顎が迫って来ていた。
「危ないっ!」
捕食者の影で麻袋を抱え込むように身を寄せる血塗れた女が、困惑と希望を綯い交ぜにしながらも喉を絞り上げた。首を傾けて、同居人と同じ境遇の者だと朧気に理解する。
『血肉に誘われて来た魔物のようですね。いい機会だ、芸術家と再び相見えるのだ。説得も兼ねて、生身の力だけで戦って貰えますか?』
「オーケー」
大木の裏手へと回って、緩衝材を挟む。脅威的な鉤爪の並んだ前足が鼻先を掠めた。俺の代わりに噛み付かれた大木は、僅かな時間で木片へと変貌を遂げている。顔面蒼白で捕食者に怯える赤毛の女は、愚かにも傍観者へと徹してしまっていた。策を講じる術を放棄した羊の行く末は、不条理ではなく必然的である。
「角の生えた女を知らないか?」
捕食者は依然として範囲内で噛み付く隙を伺っている。問いより命を優先する赤毛の女は血相を変えて叫ぶ。
「そんなことより、早く!」
「この俺に言っているのか?」
絶望を浮かべる瞳が驚愕に揺れた。
「誰が食物連鎖の頂きに立つに相応しいか教えてやる」
と絶え間なく生命力を失い続けている肉体で宣言した。目敏く闖入者が手負いの獣であることを確認した捕食者は、歓喜の遠吠えを響かせる。
「その傷でどうやって、」
問いの真意を測りかねて、赤毛の女は苦悶げに唇を結んでいた。
「牙ならここに残っている。」
唇から覗く白の羅列から、蛮勇だとでも言いたげに赤毛の女は瞼を伏せた。俺と無抵抗の餌を見比べて、狼は前者へと殺意を叩き付ける。開戦の合図に、殺意を研ぎ澄ませて迎え撃つ。
「頼りないか」
小手先の技術は矮小な者には必要ない。強靭な脚力を有する狼は、絶対の自信を誇示するように駆け出した。追い立てられるように餌の発する高音が木霊する。
「戦いってヤツは不条理の権化だ、常に敵を殺す術を模索し続けなければ、必然的に希望は衰えてゆく」
飛来した前脚を掻い潜って、あえて敵の最大の武器である顎に接近する。血走る狼の眼球が、目前に迫った生身の肉体に興奮しているのが手に取るように分かった。滴る唾液が迸り、視界一帯を鋭利な刃が埋め尽くす。
「後退はない、常に死神の鎌に身を晒せ!」
踵と爪先で地面を削りながら、顎の下へと潜り込むように駆け出した勢いを殺す。肉体を生贄に捧げるかのような負荷に、歯を食い縛って耐える。強大な力の奔流が質量を伴い、鼻先を掠めてゆく。
「食い殺す!」
身を潜ませた顎下から、狼の喉仏へと勢い良く滑り込んだ。毛を毟り、皮膚に到達した犬歯は更に奥深くを目指す。咄嗟に跳ねて前足を上げるが、四足歩行の構造上の欠陥により大した抵抗にはならない。
「嘘っ、大丈夫ですか!?」
絶対に離さない、敵の喉仏を噛み千切るその時まで。
『ホント……滅茶苦茶しますね』
前脚を器用に畳んだ狼は狂ったように喉元を叩き付け、磨り潰すようにのたうつ。断続的に続く衝撃にぶっ飛ぶ意識とは裏腹に、噛み締めた俺の顎は衰えることなく喉を食い破っている。脈々と血肉を啜られ、限界を迎えた狼が一瞬だけ抵抗を弱めた。その隙を見逃すことなく脈打つ繊維ごと喉仏を一気に噛み千切ってやった。
「このクソがぁぁぁあ」
淀んだ眼球で喉元を引き摺る敗者へ蹴りを入れて、間合いから離脱する。折れた膝が絡まり、地面を何往復も転がった。
「どうよ!この俺を、肉と侮った畜生を逆に食ってやったぜぇー」
捕食者の血肉を誇示するように噛み殺しながら、餌である傍観者へと血走った眼球を向ける。
「酷い怪我だ、これを使ってください」
根源的な恐怖に捉えられた傍観者は身を竦める思いで、恭しく小綺麗な瓶を献上する。言葉通りの善意なのか、俺を殺すことでこいつに何の利益があるのかと、考えを巡らせて早々に意味はないのだと悟った。
「やっぱり戦いはいい!無駄な思考が、蕩けて消える。」
シチュエーション的に、この施しは必要最低限であると結論付けて、無駄な考えが擡げる前に瓶を掠め取るように咥えた。負傷状態では芸術家を殺すどころか足止めすら危うい。胸の内で他者を信じる、馬鹿馬鹿しい博打から目を背けて、含んだ容器を一気に噛み潰した。




