その後何があったのか
さて、あれから色んなことが起きたり起きなかったりした。その辺りのことを思い出していこう。
ハンナとの入れ替わり生活は、残念ながら終わりを告げた。裏庭の壁に開いた大穴は、その日の内に塞がれてしまった。そりゃあそうだ。防犯上大変よろしくない。これのお陰で僕はハンナと出会えていたけど、これのせいでハンナを怖い目にも遭わせてしまった。仕方のないことだ。
ハンナとは、手紙のやり取りをしている。表だって郵便を使うとお金もかかるし、なによりもお母様に見つかってしまう。手紙はシフォーに頼んで運んでもらった。ものすごく面倒臭そうな顔をしながらも、シフォーはちゃんとハンナとの間で手紙の受け渡しをしてくれた。手紙によると、『至高の蹄鉄』亭のみんなも相変わらずだということだ。そうか、良かった。
オリビエはすぐに元気になって現場に復帰した。ハンナを守ることができなくて申し訳なかったと何度も謝ってきたが、結果的にハンナは無事だったんだ。オリビエが気にすることなんて何もない。そんなことより、年なんだから無理をするなと言っておいた。オリビエがいなくなってしまったら、僕の毎日はまた一つつまらなくなってしまう。
そうそう、シフォーはこの前、僕の教育係を辞めると言い出した。ある程度のお金が貯まったので、セレステの街を出て行ってしまうのだそうだ。これには本当に困った。だって、シフォーがいなくなってしまったら、僕とハンナの手紙のやり取りを、一体誰に頼めって言うんだ。
「まあまあ、大丈夫だって。それより、ちゃんと部屋の掃除をやっておけよ?」
それはどういう意味だよ? あいつは相変わらず、何を考えているのか良く判らない。
その部屋の掃除だが、結局僕の習慣と化してしまっていた。昔だったら、やることがない日は一日ベッドの上でゴロゴロしていたのに。今では、気が付いたら片付けをしているという始末だ。ハンナの影響なのは明白。ベッドのシーツを、一日に何回も、意味もなく整えてしまう。ふわり、きゅっ、しゃーっ、ぴしっ。うん、良くできた。これならハンナも認めてくれるだろう。
それから、『お母様の野菜の日』はまだ続いている。頻度としては週に一度、一日一食にまで縮小された。僕が野菜を嫌いだと明言したからか、メニューも少々大人し目のものになってきた。ハンナが食べていた頃は、それはもう凄かったらしい。うん、別に知りたいとも思わない。僕は野菜が嫌いだ。そればっかりは変わらないから。
しばらくすると、僕の日常は懐かしい退屈さを取り戻していた。フェブレ公爵家の御曹司、フランシス。箱入り息子だ。広いお屋敷の、自分の部屋の中で、習い事をしたり、勉強をしたり。それがない時は、ただぼんやりとして過ごしている。
お母様も相変わらず。僕とは一ヶ月に一度顔を合わせればいいくらいだった。僕に反抗されたことがよっぽどショックだったのか、この前お話しした時は、若干引き気味だった。別に、お母様のことを嫌ったりはしてませんよ。僕が嫌いなのは野菜だけです。
ああ、あとそれから。
・・・言うまでもないことかもしれないけど、僕はまだ、ハンナのことが忘れられない。
シフォーに仲介してもらったハンナとのやり取りの書簡は、僕の宝物だ。机の引き出しに、全部大事にしまってある。ハンナの字はお世辞にも綺麗だとは言えないが、きちんと気持ちがこもっている感じがする。この一文字一文字をハンナが書いたのだと思うと、とても愛しくなってくる。
これももう、できなくなってしまうのか。
同じ街の中、走って行けばすぐの場所にいるのに、もどかしい限りだ。僕がもう少し大きくなったら、屋敷を自由に出入りできるようになるのだろうか? もしそうなったのなら、最初に向かう場所は『至高の蹄鉄』亭に決まっている。
僕の中には、ハンナがいる。大好きなハンナ。こうやって自分の部屋に閉じこもっていると、ハンナのことばかり考えてしまう。
僕はダメ人間だ。もうそれでいい。
ハンナの笑顔が、まぶたの裏にどうしても浮かんでしまう。
いないと判っているのに、『お母様の野菜の日』には、僕は温室に足を運ぶ。今にも、トマトやらキュウリやらを頬張ったハンナが姿を現して、笑いかけてくれるような気がして。
僕は、苦しくなって涙を流す。ハンナ。大好きだよ、ハンナ。
さて、あれから色んなことが起きたり起きなかったりした。その辺りのことを思い出してみましょうか。
フランシスとの入れ替わり生活は、予想通り、残念ながら終わりを告げた。フェブレ公爵邸の裏山、抜け道のところに、あれから一度だけ足を運んでみた。壁の大穴は見事に塞がれてしまっていた。うん、これではどうしようもない。ごめんね、フランシス。もう会いにはいけないよ。
その代わり、シフォーさんが手紙を仲介してくれることになった。これはありがたい。フランシスからの手紙で、オリビエさんが無事に復帰したことを知った。それは良かった。こちらからは、『至高の蹄鉄』亭のみんなのことを書いて報告した。サンドラも、ナディーンも、メラニーさんも、親方も。みんな、相変わらずですよって。
フランシスのことを書こうとして、それはやめておいた。だって、書いても仕方がないから。わがままを言っても、フランシスを困らせてしまうだけ。手紙のやり取りができるのだから、今はそれで満足しておこう。
そうそう、一つ、びっくりするようなことが起きた。『至高の蹄鉄』亭に、フェブレ公爵邸から大量のお野菜が届けられたのだ。それも、毎週。なんでもフェブレ公爵夫人からの贈り物だとか。瑞々《みずみず》しくて立派な野菜の山に、メラニーさんも親方も唖然としていた。このことは、フランシスへの手紙に書こうかどうか悩んで、結局書かないでおいた。だって、このお礼は、できることなら私から直接、フランシスのお母様にお伝えしたかったから。
この野菜のお陰で、『至高の蹄鉄』亭の評判はまた一つ良くなった。料理の幅が増えたということだ。親方も腕の振るい甲斐があると大喜び。私? 当然大喜び。サンドラは呆れていたけどね。
フランシスの手紙を読んでいると、どうやら毎日退屈しているみたいだった。私の方は、忙しくて仕方がないっていうのに。朝から晩まで、『至高の蹄鉄』亭に休みはない。お客様も増えて、商売繁盛。お仕事があって楽しい限りだ。
そんなある日、シフォーさんがセレステの街を発つことになった。予定していた額までお金が貯まったので、いよいよ旅立つことにしたのだとか。寂しくはなるけど、シフォーさんにはやるべきことがある。宿屋は、終の棲家ではないからね。またお越しくださいって、笑顔でお送りしてさしあげないと。
「ハンナちゃん、ちょっと良いかな?」
帝国へと向かう朝、シフォーさんは私に一通の封筒を渡してきた。開けてみると、何やら細かい文字でごちゃごちゃと書いた紙が入っていた。これは、なんだろう。契約書?
「後はまあ、自分で決めてくれ」
フランシスとの手紙のやり取りとか、シフォーさんには最後までお世話になりっぱなしだった。何度もお礼を言ったけど、まだ感謝がし足りないくらい。いつかまた、セレステの街、『至高の蹄鉄』亭を訪れてほしい。その時には、上物のワインを準備しておきますから。忘れないで顔を出してくださいね。
そして今、私はわざわざフェブレ公爵邸に忍び込まなくても、美味しい野菜料理を食べることができるようになってしまった。毎週、フェブレ公爵夫人からは食べきれないくらいの野菜が送られてくる。親方の料理の腕も、フェブレ公爵家のシェフに勝るとも劣らない。何もしなくても、私の野菜欲は満たされてしまう。
・・・つまりは、そういうことだ。
シフォーさんの置き土産を、私はしばらくそのままにしておいた。どうするべきなのか、落ち着いて考えてみたかった。
「考えるなんて、ハンナらしくないよ」
サンドラもナディーンも、口を揃えてそう言ってきた。なんて失礼な。まあ確かに、そういうのは似合わないか。
判りました。じゃあ、さっさと決めちゃいますよ。
私はメラニーさんと親方のところへ相談に向かった。二人とも快く認めてくれた。申し訳ありません、ご迷惑をおかけいたします。
そうだね、せっかくシフォーさんが残してくれたんだし。
何より、あの時、フランシスは私を助けにきてくれた。私のために走ってくれた。
だったら、今度は私の番だ。
朝から憂鬱だ。何しろ今日は『お母様の野菜の日』、夕食のことを考えると、それだけで気が滅入ってくる。
シフォーはとうとう僕の教育係を辞めてしまった。あんな奴でもいなくなると寂しいものだ。ハンナとの手紙のやり取りについても、またやり方から色々と考え直さないといけない。
ベッドの上に、ごろん、と横になる。さて、どうしようか。さしあたって、今日の予定は何も入ってはいない。このまま二度寝してしまおうか。やる気なんて何もないし。
胸元のリボンをきゅっと結ぶ。これ、可愛すぎないですかね? 肌触りも良い。ちょっと落ち着かないな。くるって回ると、スカートがふわっ、てふくらむ。おおう、すごい。『至高の蹄鉄』亭でもこういうのにしてみようか。また違った人気が出てきそうだ。
えーっと、別にこれで文句はないんですけど、常にこの格好、ってわけではないんですよね? あ、着替えもある。了解しました。土仕事をする時はそちらの作業着で。了解です。
じゃあ、早速ですけど、ご挨拶してきますね。はい、大丈夫です。場所は判ります。
コンコン。
誰かがドアをノックした。うるさいなぁ。洗濯物なら後にしてくれ。まだ寝巻のままなんだ。
大体この時間、僕はいつも寝てるって言ってあるだろう。オリビエも気が利かないな。ああ、そういえば新人がどうのこうのって、この前聞かされたような気もする。全く興味がないから、完全に忘れていた。
それなら最初が肝心だ。びしっと言い聞かせてやらなきゃ。おいお前、フェブレ公爵家のフランシス坊ちゃんはな、早起きと野菜が何よりも大嫌いなんだ、って。
やれやれ。
ひょっとして二度寝とかしているのかな。もう、しっかりしてよ?
今日は『お母様の野菜の日』でしょう? ちょっと前だったらすごく早起きして、待ち合わせまでしていたのに。やっぱりたるんでるな。シフォーさんの言っていた通りだ。
ここはびしっと言い聞かせてやらなきゃ。こら、朝なんだからもう起きなさい。それから、野菜もきちんと食べなさい。
ドアの向こうに立つ姿を見て、僕は言葉を失った。
ああそうか、っていう気持ちと。
ええなんで、っていう気持ち。
色んな気持ちが頭の中をぐるぐると駆け巡って。
僕は、ただその場で静かに涙を流した。
ドアの向こうに立つ姿を見て、私は言葉を失った。
ここに来て良かった、って素直にそう思えた。
会ったら後悔するかなとも考えていたけど、そんなことは全然なかった。
ちゃんと会いたかった。会って、確かめたかった。
私は、心からの笑顔を浮かべて、静かに一礼した。
週に一日だけ、ハンナはフェブレ公爵邸で召使いの仕事をすることになった。シフォーからの紹介だ。お母様がそれを認めて、『お母様の野菜の日』に、ハンナはやってくる。
主な仕事は、温室の野菜の世話。お母様の趣味の大事な理解者ということで、丁重に扱われることになっているらしい。まあ、それは確かにそうなのかもしれないけど。ハンナの場合だと、つまみ食いを監視する係も別に必要になるんじゃないのかな。ちょっと目を離すと、がぶり、と遠慮なく拝借してしまう気がする。
それからもう一つ。フランシス坊ちゃんの食育係。『お母様の野菜の日』に、ちゃんと野菜料理を食べさせること。好き嫌いは良くないからね。野菜が好きな私が傍にいて、フランシス坊ちゃんに野菜の美味しさ、素晴らしさを伝えるのです。
他の誰の言うことをきかなくても、私の言うことならきくでしょうって。うーん、それはどうかなぁ。フランシスって、結構頑固なところがあるからなぁ。
まあ、一度パプリカを齧らせてはいるからな。頑張ってみます、とは言ってある。その時、初めてフランシスのお母様の笑顔を見た。良かった。ここに来て、私は色々なことを確かめることができた。
ねぇ、ハンナ?
なんですか、フランシス坊ちゃん?
その服、貸してくれないかな?
はぁ、やっぱりお金持ちって、そういう退廃的な趣味を持つものなんですかね。
違うよ。そうじゃなくて、その、久し振りに『至高の蹄鉄』亭に顔を出してみたいんだよ。
それ、バレたら私クビになっちゃうんですけど?
ダメかな?
しょうがない坊ちゃんですね。じゃあ、また始まるんですか?
そうだね、また始まるんだ。
野菜が大嫌いな僕と。
野菜が大好きな私の。
――めくるめく、野菜生活。




