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第9話 九条さんの警告

 夕闇が九条アパートを包み込む頃、黎明家の食卓には、陽葵が腕によりをかけた【デミグラスソースのハンバーグ】が並んでいた。

 肉汁の焼ける香ばしい匂いと、付け合わせの彩り豊かな野菜。それは、昼間の泥にまみれた訓練場や、夜の血生臭い廃工場とは対極にある、駆にとって唯一無二の「聖域」だった。


「お兄ちゃん、今日は奮発していいお肉を買っちゃいました! ほら、食べて食べて」

「……ああ。いただきます」


 陽葵の弾むような声を聞きながら、駆は箸を動かす。

 美味い。間違いなく、彼女の料理は絶品だ。

 だが、駆の脳裏には、先ほどから奇妙な「空隙」が広がっていた。


(……ハンバーグ。……陽葵がこれを作ってくれるのは、確か、何かのお祝いだったはずだ。……何を祝っているんだっけな)


 思い出せない。

 数日前、陽葵が嬉しそうに語っていた「小さな幸せ」の記憶が、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えている。駆は平静を装いながら、ただ黙々と、味のしなくなった肉を咀嚼した。


 食後、陽葵が食器を洗う音を背に、駆は「少し夜風に当たってくる」と言い残して外へ出た。

 階段を降り、アパートの管理室の前を通ると、中から穏やかな明かりが漏れていた。


「駆くん、ちょっといいかな。温かいお茶が入ったんだ」


 呼び止めたのは、このアパートの大家であり、二人を我が子のように見守ってきた九条さんだった。

 いつも柔和な笑みを絶やさない彼だが、今夜のその瞳には、どこか隠しきれない憂いがあった。


 ***


 管理室の奥、小さなテーブルを挟んで、駆は九条さんと向かい合った。

 九条さんは丁寧な手つきで湯呑みにお茶を注ぎ、それを駆の前へそっと置く。


「……駆くん。最近、少し顔色が悪いね。ちゃんと眠れているかい?」


「……ええ。大丈夫です、九条さん。少し演習が立て込んでるだけですから」


 駆の嘘を、九条さんは否定しなかった。ただ、悲しそうに目を細めて、駆の「目」をじっと見つめる。


「陽葵ちゃんがね、さっき嬉しそうに話してくれたよ。ピアノのコンクールで入賞したって。……君、そのお祝いでハンバーグを食べたんじゃないのかい?」


 駆の指先が、目に見えて震え出した。

 ピアノコンクール。そうだ。昨日、彼女は学校から帰ってくるなり、俺に抱きついて喜んでいた。その眩しい光景が、今はもう、霧の向こう側のように薄暗い。


「駆くん。……その力、影の王を解放するたびに、君の心は少しずつ削られていく。……私が君のその力を最初に知った時、約束したはずだね。自分を壊してはいけない、と」


 九条さんの声は、どこまでも優しく、包み込むようだった。だからこそ、その言葉は刃物よりも鋭く駆の胸を抉る。


「……陽葵の周りに、不穏な気配があったんです。彼女の日常を汚すゴミは、俺が掃除しなきゃいけない。……そのためなら、俺はどうなってもいいんです」


「……それは違うよ、駆くん」


 九条さんは立ち上がり、駆の肩に温かな手を置いた。

「陽葵ちゃんが望んでいるのは、『君のいない平和な世界』じゃない。……『君と一緒に笑える明日』なんだ。君が君でなくなってしまったら、彼女がどれほど悲しむか……君ならわかるだろう?」


 九条さんは棚から、静かに銀色の古いブレスレットを取り出した。

「これは、君の魔力を一時的に安定させ、魂の摩耗を抑えるお守りだ。……しばらくは、夜の散歩は控えなさい。これ以上の変身は、君の『人間』としての部分を、完全にかじり取ってしまう」


「……でも、九条さん。あいつらはまた来ます。陽葵を『苗床』なんて呼ぶ連中から、俺が目を離すわけには――」


「駆くん」

 九条さんは、初めて少しだけ厳しい口調で遮った。

「……次に何かを忘れた時。もし、それが陽葵ちゃんの名前だったなら……その時が、君の『終わり』だ。……私に、あの子の泣く姿を見させないでおくれ」


 アパートの廊下に出ると、夜風はひどく冷たかった。

 駆は自分の右手を握りしめる。

 

(陽葵。……陽葵……)

 その名前を、何度も心の中で繰り返す。

 まるで、消えゆく炎を絶やさないように、必死で風を遮るように。


 自室に戻ると、陽葵がリビングのソファでうたた寝をしていた。

 テーブルの上には、食べ終えた皿と、彼女が描いたであろう「お兄ちゃん、コンクール合格したよ!」という手書きのメモが置かれていた。


 駆はそのメモを手に取り、文字をなぞる。

 涙は出なかった。

 ただ、心の奥底で、影の王が「ククク」と、勝利を確信したような笑い声を上げていた。

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