第8話 影の英雄
聖痕学園のラウンジは、朝から異様な熱気に包まれていた。
戒厳体制が敷かれているはずの学園内で、生徒たちが声を潜めて語り合っているのは、昨夜起きた信じがたい「事件」の噂だった。
「聞いたか? 南区の廃工場、跡形もなく消えてたらしいぜ」
「ああ、警察や魔導局が踏み込んだ時には、血痕一つ残ってなかったって。あそこにいたはずの犯罪組織……『福音の枝』の連中が、全員まとめて蒸発したんだ」
「目撃者がいるんだよ。闇の中から現れた、巨大な翼を持つ【黒い獣】が、一瞬で奴らを食らい尽くしたって……」
噂は尾ひれをつけて広がり、いつしかその存在は、学園を襲った怪物とは別の、悪を狩る【影の英雄】として語られ始めていた。
そんな喧騒から遠く離れた中庭の隅。駆は一人、ベンチに座って泥の落ちきらない教科書を開いていた。昨夜の激闘の余韻か、指先が微かに震えている。
(……英雄、か。皮肉なものだ)
駆の瞳は、活字を追っているようでいて、その実、何も映していない。
彼が昨夜葬ったのは、人間としての理性を捨てた怪物たちだ。だが、それを行った駆自身もまた、人道から外れた力を行使した事実に変わりはない。
人々が「英雄」と呼び、縋ろうとしているその正体が、クラスで「無能」と蔑まれている劣等生だと知れば、彼らはどんな顔をするだろうか。
「──おい、黎明。何をしおらしい顔をしている」
不意に投げかけられた傲慢な声。顔を上げると、そこには取り巻きを引き連れた神代焔が立っていた。昨夜の敗北から一夜明け、彼の表情には隠しきれない焦燥と、周囲の噂に対する苛立ちが張り付いている。
「……別に。予習をしていただけです」
「フン、無能がいくら机にかじりついたところで、魔力適性が上がるわけでもあるまいに」
焔は駆の足元に唾を吐き捨て背を向けると、周囲に聞こえるような大声で続けた。
「いいか、黒い獣だか英雄だか知らんが、許可なく力を振るう不届き者は、学園を騒がせた怪物と同類だ。我らエリートが、いずれその化け物の正体を暴き、この手で裁いてやる」
焔の言葉に、取り巻きたちが同調して嘲笑を浴びせる。
駆はただ、静かに目を伏せた。焔が「裁く」と豪語している相手が、今まさに目の前で泥に汚れた靴を見つめている男だとも知らずに。
【裁く、か。……できるものなら、やってみるがいい】
駆の心の奥底で、影の王が低く笑ったような気がした。
*
放課後。
駆は陽葵との約束である「夕食の買い物」を済ませるため、賑わう商店街を歩いていた。
街の至る所にある大型モニターでは、キャスターが昨夜の事案を「正体不明の勢力による組織壊滅」として報じている。人々は不安げな表情を見せつつも、どこかでその「黒い獣」が自分たちを守ってくれるのではないかという淡い期待を口にしていた。
「あ、お兄ちゃん! おかえりなさい!」
スーパーの入り口で待っていた陽葵が、駆の姿を見つけるなり駆け寄ってきた。
清楚な白いワンピースをなびかせ、屈託のない笑顔を向ける彼女。その眩しさに、駆の胸が締め付けられる。
「……ああ。待たせたな、陽葵」
「ううん、全然! それよりお兄ちゃん、聞いた? 街に『黒い騎士様』が出たんだって! 悪い人たちをこらしめてくれる、とっても強い味方なんだって噂だよ」
陽葵は目を輝かせて、聞いたばかりの噂を駆に教える。
彼女にとって、その存在は絵本に出てくる王子様のような、純粋な希望の象徴なのだろう。
「……そうか。でも、あまり夜遅くに出歩いちゃだめだよ。その『獣』が、味方とは限らないんだから」
「もう、お兄ちゃんは心配性なんだから。……でも、もし本当にお兄ちゃんが危ない時は、その騎士様が助けてくれるといいな」
陽葵が何気なく放った言葉が、駆の心に深く刺さる。
(助けてくれる……か。……俺を助けられる奴なんて、もうこの世にはいないんだよ、陽葵)
夕飯の買い出しを終え、二人は並んで坂道を登る。
夕焼けが二人の影を長く引き延ばしていた。
駆の影は、陽葵の影に寄り添うように揺れている。だが、その影の輪郭は時折、歪な獣の形へと変貌しようとしては、駆の意志によって強引に抑え込まれていた。
家に着き、陽葵がキッチンで鼻歌混じりに夕食の準備を始める。
駆はリビングの椅子に深く腰掛け、そっと自分の右手に目を落とした。
欠落。
また、何かが消えている。
(昨日の……演習の後のことだ。陽葵が俺の傷を見て、泣きながら薬を塗ってくれたはずだ。その時、彼女が俺に約束させた『何か』が……どうしても思い出せない)
大切なはずの言葉。
自分を「人間」に繋ぎ止めてくれるはずの、彼女との誓い。
それが、影の力を振るう代償として、音もなく虚無へと消えていく。
【ククク……何を嘆く必要がある?】
脳内で、影の王が囁く。
【記憶などという頼りない記録に縋るから苦しいのだ。強くなれ、小僧。貴様がすべてを忘れ、完全なる「王」となった時、その娘を永遠に守る檻を、この影で創り上げてやればいい】
「黙れ……。俺は、忘れたくないんだ……」
駆は掠れた声で独りごちた。
しかし、その抵抗も空しく、街の闇は確実に深まっていく。
福音の枝の壊滅は、あくまで始まりに過ぎなかった。
深夜、駆は再び陽葵の寝顔を確認し、窓から闇へと身を投じた。
今夜もまた、街のどこかで獣魔が産声を上げ、いつ再び陽葵を狙うかわからない。
「……掃除だ」
駆の背中から漆黒の翼が展開される。
月光を背に受けて飛翔するその姿は、まさしく人々が噂する【影の英雄】そのものだった。
だが、その瞳に宿るのは、救世の志などではない。
ただ一つ、自分を忘却へと追い込む呪いと戦いながら、たった一人の妹(肉親)の「明日」を守るという、狂気にも似た執念だけだった。
翌朝。
学園の掲示板には、新たな「英雄」の目撃証言がいくつも書き込まれていた。
神代焔はその書き込みを苦々しく見つめ、背後で控える教官たちに冷たく命じた。
「……徹底的に洗え。昨夜の怪我人、行方不明者、そして魔力反応。必ずその正体を見つけ出し、特待生である俺が……その化け物を処刑してやる」
焔の嫉妬と憎悪が、静かに、しかし確実に駆の日常を追い詰め始めていた。




