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第7話 見えない守護者

 放課後の聖痕学園。戒厳体制下の重苦しい空気の中、駆は誰とも目を合わせず校門を後にした。

 泥にまみれた昼間の屈辱。脇腹に走る鈍い痛み。それらは今、駆の意識の表層から急速に剥がれ落ち、代わりに鋭利な【殺意】の感知能力が研ぎ澄まされていた。


(……ノイズが、消えない)


 通学路の雑踏。買い物袋を下げ、穏やかな歩調で家路につく陽葵。

 彼女の数歩後ろ、路地の死角や屋上の影。そこには、魔導工学のレーダーには決して映らない、粘りつくような「捕食者の視線」が複数、陽葵の細い背中をなぞっていた。


(俺の……陽葵に。その汚れた視線を向けるな)


 駆の瞳から光が消え、底知れない虚無が宿る。彼は声をかけることなく、あえて距離を置いたまま、影のようにその後を追った。


 *** 


 夜、21時。

 九条アパートの自室。隣の部屋から陽葵の穏やかな寝息が聞こえてくるのを確認し、駆は音もなく窓から外へと滑り出した。

 向かったのは、アパートから数キロ離れた廃工場地帯。錆びついた鉄骨の森の中に、昼間、陽葵を狙っていた「鼠」たちが集結しているのを、駆の影が既に捉えていた。


「……いたか。掃除の時間だ」


 駆の声が、冷たいコンクリートの空間に低く響く。

 闇の中から姿を現したのは、黒い法衣に身を包んだ異様な集団――カルト組織『福音の枝』の実行部隊だった。


「何者だ、貴様」

 リーダー格の男が、醜悪な笑みを浮かべて駆を睨みつける。

「ここは我らの聖域。あの『苗床』の回収を邪魔するというなら、その首、主に捧げてやろう」


「……苗床だと?」

 駆の周囲で、影が物理的な質量を持ってうねり始める。

(……待て。殺す必要はないはずだ。無力化して、記憶を消せば──)

 駆の理性が、内側からブレーキをかける。人として、まだ引き返せる場所へ踏み止まろうとする、必死の抵抗。


【──甘いな。小僧】


 脳髄に、地底から響くような重低音が轟いた。

 内なる深淵、影の王が冷笑と共に一喝する。


【理屈を並べて何を守る? 奪われてから悔いるのが人間の性か。不浄な芽は、土ごと握り潰すのが「王」の流儀だ】 


「……っ、黙れ! 俺が、決める……!」

 駆は頭を抱え、葛藤に喘ぐ。

 だが、男たちの放った生体魔導兵器――獣魔の因子を植え付けられた、かつて【人間】だった無惨な肉塊が、駆へと牙を剥いた。


「ハハハ! 喰らえ! この憎しみこそが、我ら福音の枝、ひいては我らが主を支える上位の意思が望む、世界のあるべき姿だ!」


 リーダーが叫ぶ。その背後には、福音の枝ですら末端に過ぎないと感じさせる、巨大でどす黒い「組織の影」が見え隠れしていた。

 

【代われ、小僧。貴様の守りたいものは、そんな柔な覚悟で守れるほど安くない】


 主導権が、強制的に切り替わる。

 駆の瞳が深紅に染まり、背中から禍々しい漆黒の翼が溢れ出した。


「……ア、アァァ……ッ!!」


 咆哮一閃。

 駆が手を振るうと、空間そのものが影によって塗り潰された。

 放たれた魔弾も、迫りくる肉塊も、すべては事象の再定義によって無へと還元される。


「ぎ、ぎゃあああッ!?」


 リーダーの男が絶叫する。

 駆の影の槍が、男の四肢をコンクリートに縫い付けた。それはもはや戦闘ではない。上位存在による、一方的な消去だ。


「言え……お前たちの背後にいるのは誰だ」


 駆の声は、既に人のそれではなくなっていた。

「なぜ陽葵を……人間と獣の憎しみを、煽る必要がある」


「……フ、フフ……知るがいい……。我らが主は、憎しみの果てに生まれる究極の存在を待っている……。その器として、あの娘は……最高、の……」


 言い終える前に、男の肉体は影の霧に呑み込まれ、骨の欠片すら残さず消失した。

 駆の中の【王】は、躊躇いなど微塵も見せなかった。


 *


 十分後。

 廃工場には、争った形跡すら残っていなかった。

 駆が振るった影の力は、肉体も、血痕も、そして彼らがこの世に存在したという痕跡そのものを虚無へと食らい尽くしたからだ。


 駆は廃工場の屋根に立ち、夜風に吹かれていた。

 主導権が戻り、駆は自分の手のひらを見つめる。返り血はない。だが、取り返しのつかない罪の重さが、鉛のように右手にこびりついていた。


「……俺は、人を、殺したのか……」


【案ずるな。あれは既に人ではなかった。それに――】


 影の王の声が、残忍な響きを帯びる。


【貴様の「大切な思い出」と引き換えに、あの娘の命を繋いだのだ。安い買い物だろう?】


 ──ッ。

 駆は必死に、記憶を辿る。

 昼間の焔による屈辱。それは覚えている。

 夕方の帰り道。それも覚えている。

 

 だが。

 夕食の時、陽葵が俺のオムライスにケチャップで描いてくれた【文字】が、どうしても思い出せない。

 彼女がどんな想いで、その文字を書いたのか。

 温かな食卓の、最も輝かしい記憶の断片が、真っ白に削り取られていた。


(……陽葵。ごめんな、陽葵)


 駆は自嘲気味に笑い、血のように赤い月を見上げた。

 たとえ自分という存在が空っぽの殻になっても、あの清楚な笑顔が守れるなら、それでいい。

 たとえ、その笑顔を大切に想っていた自分自身さえ忘れてしまったとしても。


 駆は再び闇へと溶け込み、陽葵の待つ平穏な家へと帰路についた。


 翌朝、学園の上層部には、福音の枝の支部が一つ、一晩で消滅したという極秘情報が入り、戦慄が走ることになる。

 獣魔を裏で操る巨大な組織の影が、いよいよ駆の日常を蝕み始めていた。

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