第6話 エリートの嘲笑
聖痕学園の午前演習。昨日、正体不明の『怪物』によって半壊した第一演習場の代わりに、今日は屋外の泥濘が広がる臨時訓練場が使用されていた。
降り続いた夜雨のせいで、足元はひどくぬかるんでいる。そこへ追い打ちをかけるように、熱を帯びた罵声が飛んだ。
「──おい、いつまで寝ている。立て、無能」
冷徹な声と共に、駆の背中に鋭い衝撃が走った。
泥の中に這いつくばる駆を見下ろしているのは、学園のエリート、神代焔だ。昨夜の戦いで負った屈辱的な敗北を隠すように、彼の右腕には痛々しい包帯が巻かれている。その苛立ちと焦燥が、格下の駆への執拗な攻撃となって現れていた。
「……すみません。足が滑ったもので」
駆は感情を殺した声で答え、ゆっくりと泥にまみれた膝をつく。
周囲からは、焔に阿ねる取り巻きたちの下品な笑い声が響いた。
「おいおい、黎明。お前、昨日の騒ぎで腰抜かしたままなんじゃないか? 震えてるぜ?」
「エリートの神代様が稽古をつけてくださってるんだ。もっとありがたく泥を舐めろよ」
焔が指先を向けると、高密度の火炎術式が駆の至近距離で炸裂した。
熱風が皮膚を焼き、跳ね上がった泥が駆の頬を汚す。爆風の衝撃で再び地面に叩きつけられるが、駆は避けない。あえて「反応すらできない劣等生」を完璧に演じ、泥を舐めながら、その奥で焔の魔力の流れを冷静に分析していた。
(……浅いな。昨夜の恐怖が、術式の精度を狂わせている。火力の維持すらままならないか)
駆の瞳の奥に、一瞬だけ冷ややかな光が宿る。
今の俺なら、この姿のままでも指先一つでこのエリートの「存在確率」を消去できる。昨夜見せた【影の王】の力を使えば、この程度の火炎など、虚無へと呑み込むのは容易い。この傲慢な顔を泥に沈め、そのプライドを木っ端微塵に砕くのは、今の駆にとって「作業」に等しいことだった。
しかし、駆は唇を噛み、鉄の味が混じった泥を飲み込んだ。
今ここで力を示せば、陽葵との「平穏な朝食」は二度と戻ってこないかもしれない。あの清楚な笑顔を、血生臭い戦いの中に引きずり込むわけにはいかないのだ。
「……っ、が……ッ!」
焔のブーツが、駆の腹部を容赦なく捉える。
わざと無防備に吹っ飛ばされ、深みに溜まった泥水に沈む。冷たい泥が制服の中に忍び込み、体温を奪っていく。
「フン、所詮はゴミか。戦う価値もない」
焔は唾を吐き捨てるように言い放ち、取り巻きたちを促した。
「おい、お前ら。この無能を放っておけ。時間の無駄だ。昨日の『本物』を探す方が先決だ」
焔たちは、満足げな嘲笑を残して立ち去っていく。
一人、泥濘の中に残された駆。
周囲に誰もいなくなったことを確認すると、彼はゆっくりと、しかし確実に力強い動作で立ち上がった。
汚れを払うこともなく、去りゆく焔の背中を、ただ静かに見つめる。
(……笑っていられるのも、今のうちだ。お前たちが探している『本物』は、すぐ目の前にいるとも知らずに)
脳を抉るような鋭い耳鳴りが、再び駆の意識を揺さぶる。
記憶という名の鎖が軋み、内なる【オレ】が、今にもその傲慢なエリートを喰らい尽くそうと喉を鳴らしていた。
駆は、泥に汚れた拳を強く握りしめる。
その拳には、誰にも感知できないほど極小の、しかし絶対的な破壊を孕んだ「影」が、どす黒く渦巻いていた。




