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第5話 仮面の登校

 翌朝、聖痕学園の正門は、かつてない緊張感に包まれていた。

 昨日の演習場襲撃事件。エリートである神代焔さえ退けた「正体不明の怪物」の噂は、生徒たちの間に形のない恐怖を伝染させていた。


「……おはようございます」


 そんな喧騒をすり抜けるように、駆はいつも通りの「無能な劣等生」の仮面を被って登校した。

 制服の返り血も、肉体の傷跡も、すべて影の魔力で強引に消失デリートさせてある。


(……やはり、思い出せない)


 下駄箱で靴を履き替えながら、駆は脳内の欠落を確認する。昨日、陽葵が自分に宛てた言葉。大切な何かが、記憶の引き出しから丸ごと抜き取られたような空虚感。

 だが、駆の表情は鏡のように静止したままだ。最強の怪物は、今、この学園で最も無害な少年のフリをして、日常に溶け込んでいた。


 *** 


 夕暮れ。

 九条アパートの階段を上がっていた駆は、自分の部屋に近づくにつれ、鼻を突く異様な匂いに足を止めた。


(……焦げ臭い。……火事か!?)


 心臓が跳ね上がる。玄関のドアノブを掴むと、中からはけたたましい火災報知器の電子音が漏れ聞こえていた。


「陽葵ッ!!」


 鍵を開け、荒々しく飛び込む。室内には白い煙が充満し、視界を遮っている。

 駆は迷わずキッチンへと走った。


「陽葵! どこだ、返事をしろ!」


「お、お兄ちゃん……!?」


 煙の向こう側、レンジの前で陽葵が必死に何かをしていた。

 見れば、彼女はコップに入れた水を、レンジの中でドロドロに溶け、今にも発火しそうなプラスチック容器へと必死にかけていた。理科の知識が欠落している彼女にとって、レンジの中で起きた異変は「火事と同じ」に見えたのだろう。


「危ない、離れてろ!」


 駆は即座にコンセントを引き抜き、換気扇を最大出力で回して窓を全開にした。

 煙が外へ吸い出されていく中、駆は隣で肩を震わせている陽葵の肩を掴み、力いっぱい抱き寄せた。


「……っ、無事か!? 怪我はないか……!」


「ぅ、うん……。お兄ちゃん……ごめんなさい、私……」 


 腕の中に伝わる、陽葵の細い身体の震え。清楚な彼女の白い頬は煤で汚れ、その瞳には恐怖の涙が浮かんでいる。

 ふわりと、煙の匂いに混じって彼女の髪から石鹸の香りが漂い、駆の胸に形容しがたい感情が込み上げる。至近距離で重なり合う鼓動。昨日「獣」として戦った駆の荒んだ心に、妹の柔らかな体温が、痛烈なまでの「生」を実感させた。


(……この温もりが、いつか消える?)


 もし、俺が怪物だと知ったら。彼女はこうして俺の胸の中で、泣きじゃくってくれるだろうか。

 この平穏は、俺が「兄」という役割を完璧に演じ続けているからこそ許されている、硝子の城だ。


「……いいんだ。お前が無事なら、それで」


 駆は、心臓の鼓動ドキドキが彼女に伝わらないよう、そっと身体を離した。


 *


 数十分後。

 部屋の空気が入れ替わり、陽葵は気を取り直して改めて夕食を完成させた。

 テーブルに並んだのは、とても理数音痴の少女が作ったとは思えない、本格的な「牛肉の赤ワイン煮込み」。そして、サイドにはハーブの香りが豊かな「ポテトのガレット」が添えられている。


「……お待たせしました。その、さっきのは……レンジのボタンがいっぱいあって、オーブンの設定と間違えちゃって……」

 陽葵が恥ずかしそうに手を合わせる。

 駆は一口、赤ワイン煮込みを口に運んだ。


「……美味い。絶品だ。……本当に、お前は料理の才能だけはあるな」


「む……。『だけ』ってどういう意味ですか〜お兄ちゃん?」


 陽葵が頬をわずかに膨らませ、上目遣いでジト目を向けてくる。

 清楚な彼女が時折見せる、この子供っぽい抗議。


「い、いや、そういう意味じゃなくて……。ほら、ピアノも上手いし、国語の成績もいいだろ? でも、さっきのレンジの件とか、昨日の数学の宿題の壊滅的な計算ミスとかを考えると……だな」


「あー! 今、心の中で『計算が小学生以下』ってバカにしましたね!? 陽葵は、お兄ちゃんに元気になってほしくて頑張ったのに……もう、知りません!」


 ぷいっ、と顔を背ける陽葵。

 駆はしまった、と内心で冷や汗をかいた。敵の術式は見切れても、妹の機嫌の分岐点を見誤るのは日常茶飯事だ。


「……悪かった。言い方が悪かった。ほら、このガレットも最高に美味い。……だから、そんなに怒るな」


「……本当? 本当に美味しい?」


「ああ。……世界一だ」


 駆が必死にフォローすると、陽葵は「……なら、許してあげます」と、花が綻ぶような笑顔を見せた。

 その眩しさに、駆は思わず目を逸らす。


(……ああ、危ない)


 ドキドキしているのは、きっとさっきのパニックの余韻だ。そう自分に言い聞かせる。

 記憶は消えていく。この他愛ない言い争いも、彼女の柔らかな笑顔も、いつかは忘却の穴に呑み込まれるのかもしれない。

 けれど、この報われる日常を維持するためなら、俺は何度でも神に背き、影を振るうだろう。


 駆は、温かなスープを喉に流し込み、心の中で静かに誓った。


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