第4話 血塗られた鏡
学園の演習場から数キロ離れた、人気のない廃ビルの一角。
夜の闇に紛れるようにして、その【怪物】は崩れ落ちた。
「……はぁ、……っ、が……あッ!」
駆の全身から、黒い泥のような魔力が蒸気となって立ち昇る。
骨が歪な音を立てて収縮し、漆黒の翼が霧散していく。影の王から、一人の少年に戻るための【脱皮】は、肉体を内側から焼き切るような激痛を伴った。
やがて、コンクリートの床に横たわったのは、ボロボロになった制服を着た駆だった。
だが、その手足や顔には、先ほど蹂躙した獣魔の【黒い返り血】がべっとりと付着している。
(……思い、出せない)
駆は震える手で、自分の顔を拭った。
脳裏にこびりついた「空白」が、鋭いナイフのように胸を抉る。
今朝、陽葵が俺に笑いかけたはずの光景。その「声」だけが、どうしても再生されない。
(力を振るうたびに、俺は俺を失っていく。……いつか、陽葵の名前さえ忘れてしまうのか?)
暗闇の中で、駆は血に汚れた自分を抱きしめるように丸まった。
自分が化け物であるという呪い。守るために振るった力が、自分を人でなくしていく恐怖。
だが、その自責を断ち切ったのは、遠くから聞こえる微かな足音だった。
「──お兄ちゃん! お兄ちゃん、どこ!?」
陽葵の声だ。
駆は弾かれたように顔を上げた。
まだ近くにいたのか。あの凄惨な光景を見て、恐怖で逃げ出したのではなかったのか。
駆は咄嗟に、近くにあった割れた鏡の破片を手に取った。
映し出された自分の顔は、返り血で汚れ、瞳の奥にはまだ禍々しい紅い光が残っている。
「……来ちゃ、ダメだ……陽葵」
俺は、お前が愛している「優しい兄」じゃない。
お前の両親を奪った、忌まわしい獣そのものなんだ。
しかし、陽葵は止まらなかった。
廃ビルの隙間から差し込む月光を浴びて、彼女が駆の姿を見つけ出す。
「お兄ちゃん……っ!」
「来るな! 俺に触れるな……汚れるぞ」
駆は顔を背け、突き放すように言った。
だが、陽葵は躊躇うことなく駆の元へ駆け寄り、その血まみれの身体を力一杯抱きしめた。
「……良かった。生きてて、本当に良かった……」
陽葵の体温が、凍てついた駆の心臓に直接流れ込んでくる。
彼女の服が、自分の返り血で汚れていくのも構わず、陽葵は駆の背中に手を回し、強く、強く抱きしめ続けた。
「……怖くなかったのか? あんな、化け物が……」
「怖かったよ。……でも、あの中に、お兄ちゃんがいた気がしたから。私を守ってくれたのが、お兄ちゃんだって分かったから」
陽葵の細い腕が震えている。恐怖がないわけではない。
それでも彼女は、自分を救ってくれた「事実」を選んだのだ。
駆の目から、熱いものが溢れた。
記憶は消えた。今朝の会話も、大切にしていた思い出の欠片も。
けれど、今この腕の中に伝わる温もりだけは、偽りようのない現実だ。
「……ごめんな、陽葵。……ありがとう」
駆は、血で汚れた右手を、そっと陽葵の背中に添えた。
今はまだ、この温もりに甘えていたい。
たとえ明日、また何かを失うことになっても──。
夜の静寂の中、二人の鼓動だけが重なり合っていた。




