第3話 黒き影の咆哮
その夜、駆は眠れなかった。
高架下で放った影の感触が、右手にねっとりとこびりついている。
陽葵が向けた、あの怯えを含んだ瞳。彼女を守るために振るった力は、同時に二人の間にある「平穏」という名の境界線を侵食し始めていた。
(……来るな、と言うのに)
脳を直接爪で引っ掻くような、鋭い耳鳴り。
駆は自室の暗闇の中で、自身の左胸を強く握りしめた。ドクン、ドクンと、不規則な脈動が全身の血管を「泥」のような重い魔力で満たしていく。
直後、学園一帯に鳴り響いたのは、緊急事態を告げる魔導警報だった。
「──っ!?」
窓の外を見れば、学園の演習場付近から巨大な黒い柱のような魔力の奔流が立ち昇っている。
Bランク……いや、それ以上の特級個体。
あそこには、まだ居残り訓練をしている生徒たちが、そして──。
「陽葵!」
陽葵は今日、学園の図書室に忘れ物を取ってくると言っていた。
駆は窓を蹴破るようにして、夜の街へと飛び出した。
***
聖痕学園の演習場は、地獄と化していた。
そこにいたのは、神代焔を筆頭とするエリートたち。だが、彼らが誇る華やかな火炎や雷光の術式は、目の前の「絶望」を前に霧散していた。
「……バカな、演算が……追いつかないだと……ッ!」
焔が血を吐きながら膝をつく。
彼らの前に立つのは、知性を持つ獣魔。人の形を模しながら、その全身は黒い結晶体で覆われている。
その怪物の足元で、陽葵が逃げ場を失い、蹲っていた。
怪物が、鎌のような腕を振り上げる。
「やめろぉぉぉッ!!」
駆の叫びが夜風を裂いた。
間に合わない。距離がある。
その瞬間、駆は自分の中にある【最後の理性の鎖】を引きちぎった。
【──オレを、出せ。……いいだろう、すべてを喰らわせろ】
瞬間、駆の体が内側から爆発するように漆黒の魔力に包まれた。
骨が軋み、再構成される不快な音。
皮膚の下を影が奔り、背中からは漆黒の翼を思わせる禍々しい影の衣が溢れ出す。
それは、魔導工学の範疇を超えた【事象の再定義】。
そこにいたのは「無能の少年」ではなく、夜そのものを纏った存在──【影の王】。
「……ガ、アァァァァァァッ!!」
咆哮一閃。
衝撃波だけで、周囲のコンクリートが粉々に粉砕される。
駆の姿は一瞬で消えた。否、あまりの超高速移動に、光の演算すら追いつかなかったのだ。
知性を持つ獣魔の背後に、影の塊が具現化する。
「……!? 貴様、何者──」
「……演算? 術式? そんなものは必要ない。オレの領域では、お前の存在そのものが不合理だ」
駆の声は、地底から響くような重低音へと変わっていた。
影の王の周囲では、物理法則が死に絶える。
敵の放つ魔力の弾丸は、駆に触れる前に「虚数空間」へと呑み込まれ、逆に駆が踏み出す一歩ごとに、大地の「存在確率」が抹消されていく。
「……蹂躙しろ、影」
駆が指先を向けると、千の影の槍が地面から突き出し、獣魔を空中へと固定した。
逃げ場はない。慈悲もない。
それは戦闘ですらない。一方的な、存在の消去。
黒い霧が散り、敵が完全に消滅したとき、駆の周囲には静寂だけが残った。
だが、代償はすぐに訪れる。
(……っ、が……あ……!)
脳が焼け付くような、猛烈な熱。
自分という存在を繋ぎ止めている「記憶」という名の鎖が、一本、また一本と、凄まじい勢いで断ち切られていく。
──今朝、陽葵が何と言って俺を送り出した?
──玄関で交わした言葉。
──「いってらっしゃい」の後の、大切な一言が……思い出せない。
記憶の断絶。
それは、愛する者の心に触れるための「鍵」を、自らドブに捨てるような喪失感だった。
「お兄……ちゃん……じゃないよね?
まさかね」
瓦礫の陰から、陽葵が震える声で問いかける。
彼女が見ているのは、禍々しい影の翼を生やし、瞳を深紅に光らせた【怪物】の背中だ。
駆は振り向くことができなかった。
今、自分の顔がどんな醜悪な歪みを見せているか、自分でも分からなかったからだ。
「ああ、違う……逃げろ。……そして、オレのことは……忘れろ」
言葉が続かない。
駆は、人間としての意識が消え去る前に、夜の闇へと溶けるように姿を消した。
後に残されたのは、粉砕された演習場と、影の王として異形の姿になった駆の背中を呆然と見送る陽葵の涙だけだった。
※次話(第4話)からは毎日19:00に一話ずつ更新予定です。




