第2話 牙を剥く災厄
幸福とは、薄氷の上に築かれた城のようなものだ。
黎明駆はその事実を、十五年前のあの夜に嫌というほど思い知らされたはずだった。それなのに、陽葵の作る料理の味や、他愛のない笑い声に触れていると、自分もまた「人間」という名の平穏を許されたのだと錯覚しそうになる。
翌日の放課後。
駆は学園の図書室で、最新の魔導工学の論文を読み漁っていた。
表向きは「魔力のない落ちこぼれが足掻いている」というポーズだが、真の目的は別にある。自己の内に眠る【獣魔】の力を、現代の魔術理論によって「制御」する術を探るためだ。
「……やはり、既存の術式体系では、俺の干渉は許容されないか」
駆は溜息とともにタブレットを閉じた。
彼の内にある力は、魔力を変換して事象を書き換える「魔法」ではない。もっと根源的な、世界の理そのものを食い破る「捕食」に近い何かだ。
ふと、窓の外に目を向けると、空は不気味なほど鮮やかな朱色に染まっていた。
夕闇が迫る時間帯。
胸の奥で、警鐘のような鼓動が跳ねた。
「──陽葵」
嫌な予感がした。
駆は荷物を掴むと、周囲の不審な視線も構わずに図書室を飛び出した。
***
学園から家までの最短ルートにある、人通りの少ない高架下。
そこは、陽葵がいつも買い物帰りに通る道だった。
「ひっ……あ、あぁ……っ!」
陽葵は、買い物袋を地面に落としたまま、腰を抜かしていた。
彼女の目の前には、現実のものとは思えない「異形」が鎮座していた。
体長三メートルを超える、毛のない巨大な狼のような姿。しかし、その顔面には目も鼻もなく、代わりに巨大な【口】が裂けるように広がっている。全身から、ヘドロのような粘着質な魔力を放つ怪物。
──獣魔。識別ランク:C。
通常の駆除官であれば、数名のチームで当たるべき脅威だ。
獣魔は、涎を垂らしながら陽葵へと歩み寄る。その足音が、死の秒読みのように高架下に響いた。
「助け……お兄ちゃん……っ!」
陽葵が絶望の中で名を叫んだ、その瞬間。
「──そこを動くな、陽葵」
冷徹な声が、凍りついた空気を切り裂いた。
高架の影から、駆がゆっくりと姿を現す。
その顔に焦りはない。ただ、深淵を覗き込むような暗い瞳が、獲物を狙う獣のように据わっていた。
「お兄ちゃん!? 逃げて! 早く!」
陽葵の悲鳴を無視し、駆は一歩、また一歩と獣魔の間合いへと踏み込む。
獣魔は、自分よりも遥かに小さな獲物の不遜な態度に激昂し、地を蹴った。
時速百キロを超える突進。鋼鉄をも引き裂く爪が、駆の喉元へと迫る。
だが、駆は眉一つ動かさない。
彼の脳内では、学園で教わる「演算」とは比較にならない速度で、周囲の影が再構成されていた。
(術式展開、不要。……影の干渉、開始。対象の物理存在を──『否定』する)
駆がそっと右手を翳す。
次の瞬間、高架下のコンクリートから無数の漆黒の棘が、生き物のように噴出した。
グシャリ、という生々しい破壊音が響く。
「……ガ、ァ……ッ!?」
獣魔の巨体が、空中で静止した。
いや、静止させられたのだ。影から伸びた黒い棘が、獣魔の四肢と内臓を貫き、磔にしていた。
魔力を帯びた獣魔の体組織は、駆の影に触れた瞬間から、砂のように崩壊を始めている。
「……今の演算は、コンマ01秒。お前程度の密度では、俺の影を押し留めることはできない」
駆の独白は、誰にも届かない。
彼は無感情に指を弾いた。
影の棘が膨張し、獣魔の肉体を内側から粉砕する。
断末魔すら上げる間もなく、Cランク獣魔は漆黒の霧となって消滅した。
静寂が戻る。
駆は深く息を吐き、右手にまとわりつく黒い残滓を払った。
その時だ。
(……あ、れ)
視界が、一瞬だけ白く染まった。
脳を直接、冷たい刃で削り取られるような鋭い痛み。
自分の中で、何か大切なパズルのピースが、音を立てて崩れ落ちた感覚。
──昨日の、夕食。
──陽葵と何を話した?
──肉じゃがを食べて、それから……?
思い出せない。
ほんの十数時間前のことなのに、陽葵の笑顔の横で自分がどんな言葉を返したのか、その記憶だけが、ぽっかりと黒い穴に変わっていた。
「お兄ちゃん……?」
震える声に呼ばれ、駆は我に返った。
足元には、恐怖で顔を蒼白にさせた陽葵が、信じられないものを見る目で自分を見上げている。
「……大丈夫か、陽葵。怪我はないな」
駆は努めて冷静な「俺」の声を作り、彼女に手を差し伸べた。
陽葵は、その手を握るのを一瞬だけためらった。
今、兄が放った力。
それは学園で教わる清浄な魔術とは正反対の、吐き気がするほど禍々しい「何か」だったから。
「今のは、何……? お兄ちゃん、どうして……」
「……ただの、隠し持っていた魔導器の実験だよ。運が良かった」
駆は嘘をついた。
自分を守るためではない。
彼女が最も憎むべき【両親の仇】が、今、目の前で自分の手を引いているのだという残酷な真実から、彼女を守るために。
夕闇の中、駆は陽葵を支えながら歩き出す。
失われた記憶の穴が、背後で嘲笑うように広がっていた。




