ヴィル・ブルフォード手記 番外編③「しあわせすぎて、こわい」
朝。
女王執務室の前で、彼女は必ず一瞬立ち止まる。
わずかな余白の間に、黒い髪を指先で整え、こちらを見上げる――その笑みが、今朝はほんの少しだけ硬い。
肩の線もいつもより張っている。
胸騒ぎを抑えきれず、俺は大袈裟なくらい彼女の肩を抱き寄せ、額に口づけた。
いつもの“儀式”なのに、彼女が吐く息の温度が高い。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
たったそれだけの会話。だが去り際、指先が離れる寸前――彼女の指がかすかに震えていた。
いつもの朝のハグとキス。けれど今日のそれは、どこか違う手触りを残した。
日中。
軍司令部で帳簿と報告書の山に埋もれる。
剣を振るより、この紙の重さのほうが骨身に堪える。
仕事の合間ごとに、朝の彼女の顔が浮かんで仕方がない。
最近、あの柔らかな笑顔が減った。
笑っても、瞳の奥が揺れない。
疲れているのではないか。いや、それだけじゃない。
彼女の中の何かが、また疼き始めている気がする。
弱音を言わぬ人だからこそ、俺が見落とせば、誰が気づける?
夕刻。
王宮へ戻る。石畳を照らす松明が、ざわめく一日の終わりを告げる。
執務机に向かう彼女は、紙束に視線を落としたまま「おかえりなさい」と小さく告げた。
その声はかすれていて、灯の揺れより頼りない。
俺が近づくと、彼女は椅子を離れ、歩み寄り、胸元に額を押し当てた。
“ただいま”の抱擁――しかし腕の回し方が、いつもより深く、切実だ。
頬を寄せると、唇がかすかに触れた。
短いキス。けれど、苦い薬草の匂いが混ざり、彼女が無理に飲み下した疲労を告げていた。
いつもの夕べの挨拶。なのに、胸の奥に冷えた針が残る。
夜。
寝台に並ぶ頃には、窓の外で風が鳴っている。
彼女はためらいなく俺の胸に潜り込み、その細い手を衣越しに置く。
鎧でも盾でもなく、俺自身に触れて確かめる――そんな手つき。
「……疲れてないか」
問いは風と消えた。
しばし沈黙が落ち、彼女の声が綻びのように漏れる。
「……しあわせすぎて、こわい」
瞬きのあいだに、胸が締めつけられる。
世の恋人たちが甘く囁く台詞とは違う。
彼女にとって“怖い”は、失う予感の疼き、言葉にできぬ傷の痛覚。
それでも、今この瞬間を“幸せ”と呼んでしまうほど、彼女は追い詰められている。
「怖がるな」
囁きながら、彼女の髪を撫でる。
乱れた呼吸がゆっくり落ち着き、細い指が俺の衣を掴む。
言葉はいらない。
沈黙の中で、彼女が眠りに落ちるまで抱き続ける。
胸の重みが、この世で最も確かな重石だ。
もし明日が来なくとも。
いつものハグとキスが、今日のようにかすかに違うと感じ取れたこと。
そして、その違いごと抱き締められたこと。
ただそれだけで、生きた意味は十分だ。




