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ヴィル・ブルフォード手記㊺

ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百三十九  暁が訪れていた。


 山稜の縁から淡金の光が流れ込み、凍てついた草葉を雫で飾りながら息を吹き返す。背に感じるのは軍馬の律動、その上で俺に凭れた彼女の小さな呼吸だった。……旅の夜、焚き火に照らされてうたた寝していた“ミツル”の面影が、ふと胸裏を掠めた。


 だが盆地の風は甘くない。霜の匂いに混じるのは、焦げ鉄と魔素の濁った残り香だ。眼下に広がるハロエズ――往時は水と人で織られた都。大河と桜色の宮殿、夜ごとの灯と歌。俺も資料で幾度も見たその姿が、今はただの灰に沈んでいる。


 それでも、火は消えていなかった。峠から見た烽火は、生存者が坑道や聖堂に潜り、必死に掲げた命綱だった。折れ帆布の幕営の中には乳児を抱く母、片脚を失った老兵、槍を杖にした若者。……灯は絶えず、人は互いに寄り添い、焦土に朝星を刻んでいた。


 その場にステファンが駆け寄り、報告した。「地下坑道で確認できた生存者は一万一千。二十万のうち……」。声は軍律の調子を保ちながらも震えていた。首都二十万から一万――胸が鉛のように沈む数字だ。


 そのとき、人波を割って飛び込んできた影。アウレリオ枢機卿だった。鉄灰の外套は泥に濡れ、かつての威容は消え、ただ父の顔だけをしていた。


「……エミリィ! リアナ!」


 掠れた呼び声に応じたのは、灰をまとう夫人と小さな娘だった。堰を切ったように駆け出し、三つの影が焦土のただ中で重なった。母は夫の背に縋り、娘は小さな腕で二人を抱きとめる。英雄と呼ばれた男の肩が、嗚咽で震えていた。鎧越しに伝わるその鼓動が、俺の胸にも突き刺さる。


 炎の残り香がなお漂う中で――それでも命は、光は、芽吹く。俺はその抱擁を見ながら、これこそが戦場で掴み取るべき唯一の証明なのだと、強く思った。




ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百四十 焦土の祈り、聖女ではなく


 あの光景を、俺は忘れないだろう。


 瓦礫の灰に埋もれた三つの影が再会したとき、彼女の顔はやわらかく緩んだ。だが、その温もりを受け取った直後には、抱けなかった十九万の魂を背負い込み、肩を落としていた。彼女はいつだってそうだ。他人の痛みを自分に置き換えてしまう。考えるより先に身体が動き、まるで呪いのように、傷だらけになるのも厭わず抱え込む。


 その姿を人は「聖女」と呼ぶかもしれない。だが俺の目には違う。あれは「ごめんなさい」と呟きながら、それでも、それでもと繰り返すただの女の子の姿だ。過分な力と責任を押し付けられ、罪悪感に苛まれて、普通なら押し潰されてしまうはずのところを、それでも立ち上がる。


 焦土のただ中で、彼女は舟守教会の「十字の祈り」を結んだ。異国の女王が、兵も民もなく、ただ人として同じ高さに膝を折り、名も知らぬ魂へ向けて掌を合わせる。その姿は痛ましくもあったが、俺には誇らしくもあった。


 俺も額を大地へ垂れた。特別小隊の十三名も続いた。王も騎士も兵もなく、同じ高さで祈る異様で神聖な光景に、周囲の兵や避難民が息を呑んだ。だが俺には分かっていた。あれは聖女の祈りなんかじゃない。懺悔だ。救えなかった者たちへの「ごめんなさい」を抱きしめながら、それでも生き残った命のために祈らずにはいられない。


 彼女は、聖女になろうとしたことなど一度もない。むしろ、その反対だった。母の消失と父の死を眼前にして何もできず、そしていま十九万の命を救えなかった――そのすべての罪を自分ひとりのせいにしてしまう。普通の人間ならとっくに壊れている。けれど、彼女は何度だって立ち上がってしまう。「ごめんなさい」と繰り返しながら、それでも歩き出してしまう。痛みも呪いもそのまま抱えて。


 彼女を見た人々は「聖女」と呼ぶかもしれない。けれど彼女自身には、ひとかけらの高貴な気取りもない。あるのは、救えなかった誰かへの懺悔と、せめて残った命を守りたいという執念だけ。


 ――だからこそ、逆説的に、彼女は「本物の聖女」なのだ。聖女であろうとせず、むしろ聖女を否定するその姿こそが、誰よりも聖女に見えてしまう。


 血みどろの戦場を生き抜いてきた俺にはわかる。人は折れないから強いのではない。折れても傷だらけでも、諦めたりはしないからこそ強いのだ。彼女はまさにそれを体現する女なのだ。


 俺は彼女を聖女として仰ぐ気はない。ただの女として、俺の伴侶として、呪いも痛みも丸ごと抱えながら生きる彼女を、俺は隣で支えたい。彼女が何度「ごめんなさい」を重ねても、そのたびに俺が「それでもいい」と返し続ければいい。その答えを重ねていけば、きっとまた彼女は立ち上がれる。


 そして俺はただひとつ願う。


――この女を、必ず幸せにしてやりたい。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百四十一 灰の声、群衆のざわめき


 異様で神聖な光景に、周囲の民がざわめき立った。


「おい、あれはリーディス軍じゃないのか」


「まさか……あの黒髪の女が、女王?」


「いや、そんな身分の人がこんな焦土に来るはずがない」


 驚きと戸惑いが、風に運ばれた灰のように舞った。母子も老兵も若い兵士も、皆がただ息を呑み、祈りの影を見つめていた。炎でも剣でもなく、異国の王と従兵が泣き、祈り、赦しを乞う姿。その静かな輪郭は、吹きすさぶ焦土の風に刻まれていった。


 やがて、群衆の向こうからアンダース大佐が現れた。軍装の裾を翻し、右手の手袋を外して高く掲げる。声は鋼のように張り詰め、だが不思議と温度を帯びていた。


「ここにおわすお方こそ、リーディス王国が戴く麗しき主、女王メービス陛下であらせられる」


 空気が大きく揺れた。


「なんと……」


「あの方が……精霊の巫女……」


 なおも漏れ出る声を大佐は制し、さらに告げる。


「そして隣に立たれるは王配ヴォルフ殿下。白銀の翼と並び立つ最強の騎士にして、我らの命運を導く御方である」


 俺は黙して立った。だが視線は彼女を追っていた。メービスはそっと立ち上がり、灰にまみれた外套のまま深く頭を垂れた。王冠を戴く女王ではなく、ただの人として。


「虚無を鎮めに来たけれど、この惨禍を許してしまいました。救いきれなかった命と、皆さまの悲しみに、深くお詫び申し上げます」


 その言葉を聞いた俺の胸には、覚悟の鉛が沈んだ。非難が降り注ぐだろうと、俺は剣の柄に指をかけるような心持ちで構えた。だが――風を裂いたのは、別の声だった。


「そんなこと、おっしゃらないでください!」


 煤に汚れた農婦の声。焼けた家の残骸のようにぎこちなく指を組み、それでも瞳は揺るぎなく彼女を射抜いていた。


「女王陛下が来られなかったら、わたしたち……もう一度陽の下に立つことさえ叶わなかったんです!」


 その言葉に波紋のように賛同が広がる。老兵が拳を胸に当て、若者が声を張り上げる。


「そうだ、魔獣の巣を築かれたら、この地は二度と住めぬ荒野になっていた!」


「伝説の精霊の巫女が来てくれなければ、俺たちは皆、地下で朽ちるしかなかった!」


 焦土に漂う悲嘆が、少しずつ押し退けられていくのを肌で感じた。俺は横目で彼女を見た。胸に手を置き、わずかに瞳を潤ませながらも、姿勢は崩さない。民の声が彼女を包み込み、灰の冷気に温度を与えていく。


 その時だった。群衆の奥で、灰色の外套が重い鎖を引くように揺れた。アウレリオ枢機卿――父であり、将であり、舟守教会の高位聖職者でもあるその人が、瓦礫を踏みしめて姿を現した。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百四十二 枢機卿の宣言、ただの女として


 砂塵に濡れた銀の胸当てが朝の光をわずかに跳ね返し、アウレリオ枢機卿の瞳は炎とも水ともつかぬ深い色で彼女を映していた。兵も民も息を潜め、遠くで鳴く鳥の声すら止んだように感じた。すべての視線が、彼の口から零れる次の言葉を待っていた。


「――メービス陛下は、けっして“外から来た者”ではない」


 低く透るその声に、ざわめいていた群衆が一斉に静まった。枢機卿は瓦礫を踏み締め、さらに膝を折る。灰の外套が波のように広がり、夜明けの光がその肩を柔らかく撫でた。


「陛下は“舟”に共に乗る者だ。大海へ放たれ、嵐にさらされ、それでも舵を取り続ける仲間なのだ」


 彼の言葉は、灰を渡る風とともに群衆の胸へ溶けていった。俺は思わず息を呑んだ。女王の背が群衆の視線に支えられていくのが、肌でわかる。


「この方は確かに精霊より翼を授かりし御方。だが御使いではない。泣き、笑い、苦しみ、祈られる――我らと同じ高さに立つ人だ」


 揺るがぬ声だった。瓦礫の上に立つ彼女の黒髪を朝の光が撫で、頬に残る雫をきらめかせた。その姿に、俺はまた胸を突かれる。


 ――そうだ。あれは聖女ではない。ひとりの女だ。罪も責任も抱きしめ、それでも立ち上がる。


 枢機卿の言葉が終わると、群衆から誰ともなく膝を折る音が広がった。民の吐息が風に攫われ、白い霧となって空へ返されていく。俺は彼女の横顔を見つめた。眼差しに宿っているのは「力を持つ者の誇り」なんかじゃない。ただ「守りたい」という願いだけだ。聖女として讃えられるのではなく、わが身を削ってでも隣にある命を抱こうとする女の眼だ。


 俺はその姿を、誇らしく思った。そして同時に、胸の奥底で願った――この女を、けっして孤独にさせてはならない、と。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百四十三 胸甲を打つ音、ただの女の言葉


 俺は、息を呑んで彼女を見ていた。メービスは胸の前で手を組み、花弁のように開いた。灰に沈んだ焦土のただ中で、夜明けの光を孕んだその仕草は、冠を戴く女王というよりも、ただのひとりの女の姿だった。


「わたしは女王としてここに立っていますが、その前に、皆さんと同じ“ひとり”です」


 その声が響くたび、灰の匂いに満ちた空気が少しずつ解けていく。兵士の胸甲がわずかに震え、母親が子を抱き締め直す。俺は見た。彼女は立派な演説ではなく、ただの心臓の鼓動を差し出していた。


「守る者と守られる者に境はない。わたしの翼は皆さんの翼でもあり、皆さんの鼓動こそが、わたしを飛ばす風になる」


 よく言った、と胸が熱くなる。そうだ、それでいい。

 最後に、彼女は下腹へ手を添えた。


 「わたしはもうすぐ母となる身です。ひとりの母親として、生まれてくるこの子のために、希望ある未来が欲しかった。……だから、救える命を救いたかった。それだけなのです」


 その言葉に、焦土の空気が震えた。乾いた掌打ちの音――サニル兵が胸甲を叩く敬礼だ。それは一つ、また一つと連なり、大河の瀬音のように広がっていく。


 涙に濡れた瞳が上がり、老兵が拳を胸に当て、母が子の背を支え、若い騎士が震える肩を揺らす。人々の胸に、小さな炎が連鎖するように浮かび上がっていった。


 彼女は拳を胸甲へ添え、風より小さな声で囁いた。


 「……ありがとう」


 ただそれだけでよかった。理想や大義ではなく、一言の「ありがとう」が、この場を共に生きる証になった。


 焦土はまだ焦土のまま。だが、甲冑を打つ音は湖面の波紋のように広がり、夜明けの光が金の粉となって灰を照らした。もしこの先、再び闇が訪れたとしても、きっと思い出せる。胸甲を叩くこの音は、俺たちが「同じ舟」に乗った仲間である証。瓦礫の谷間で芽吹いたひと条の希望が、暁のように揺るぎなく燃え続けていた



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十四章 時間遡行編⑧ その二百四十四 聖女ではなく、灯を掲げて


Ⅰ 灯の鼓動――ひとりに向ける声

 暁光が焦土の隅々へ金の糸を垂らしはじめたころ、連合軍は旗を高く掲げることなく、ただ土を踏みしめて働いていた。梁をどかし、遺体に布を掛け、泣き伏す者の肩を起こす。鋼の擦れる音と革の匂い、炭化した木の甘い残り香――それらが確かに“蘇生”の心拍を刻んでいた。


 彼女は、生き残った民一人ひとりに膝を折って声をかけていった。幼子の手を引く母へ「あなたが立ってくれて、ありがとう」。包帯の滲む老兵へ「その槍が守った命を、わたしたちが引き継ぎます」。そして、空ろな眼で槍を杖にする若者の甲冑に付いた灰をひと刷け払い、掠れた声で告げる――


「今はただ、“生きている”ことを、どうか誇りに思って」


 その小さな言葉が、干上がった土に落ちる雨粒のように胸へ染みていく。煤で曇った瞳に、わずかな光が戻る瞬間を、俺は何度も見た。彼女は演説ではなく、鼓動を差し出している。胸の内側で“無力”という名の痛みが軋むのを抱えたまま、それでも前に出る――ただ、それだけの姿だった。


Ⅱ 枢機卿ふたたび――罪悪と希望の言葉

 灰をまとう外套が朝霧を裂くように近づいた。アウレリオ枢機卿だ。国境で対峙した夜の硬さはもうない。家族を抱き締めた直後の火が、彼の眼の底に小さく灯っている。


 彼は膝をつき、心臓の高さを女王へ預けた。


「顔を上げてください、枢機卿」


 彼女の囁きは掠れていたが、支えるには十分だった。枢機卿は立ち上がり、切迫した口調で報せる。「大統領閣下をはじめ、主だった閣僚は生存」と。胸の中で凍っていた氷塊が砕け、温い水が四肢を駆け抜けるのを、俺は彼女の横顔に見た。


 だが直後、彼の声は曇る。「混乱の中で負傷も……多くの命が失われました」。罪悪が肩に絡みつくとき、彼女は正面に立った。


「アウレリオ枢機卿、罪悪感を抱かれるのは理解できますが、今は顔を上げてください。……助けられた人がいるなら、それを希望にするべきです。生き延びた者にはその責任がある。前を向いて、亡くなられた人々の分まで“ちゃんと”生きなければ」


 その言葉は、彼だけに向けた慰撫ではない。――彼女自身への戒めでもある。俺は知っている。だからこそ、その口から「希望」という語が出たのを、俺は胸の奥で固く握り締めた。


 小さく首を振った枢機卿の声は、今度は芯を取り戻していた。「肝に銘じます」。三つの影は肩を並べ、崩れた議事堂の面影を背に仮設の指揮幕営へ向かった。


Ⅲ 瓦礫の道を――労いと言葉の支え

 臨時通路は長く、決して平坦ではなかった。折れ柱は朽ちた竜骨のように横たわり、亀裂だらけの石畳は足裏に悲鳴を上げる。扉板は荷車の車輪代わりにされ、焼け焦げたヴァイオリンや壊れた揺り籠が、無言で悲劇の大きさを語っていた。


 俺は歩幅を合わせ、甲冑の継ぎ目を軋ませながら、枢機卿へ小さく声を掛けた。


「地下坑道の探索、ご苦労だった。あんたは、よくやった。大したもんだ」


 その一念が希望を繋いだのだと、言外に添える。彼はわずかに肩を震わせ、すぐ姿勢を正した。


「ですが、民が……」


 彼女は立ち止まり、朝の金を睫毛に受けながら、同じ高さで言葉を落とした。


「完璧な者などいません。重要なのは、過ちの後にどう対処するか――あなたの判断は賢明でした」


 軽々しい慰めではない。彼女自身が幾度も身をもって味わい、なお乗り越えてきたからこその言葉だ。重みが違う。


 一語一語が焦げた空気に吸い込まれ、胸の奥で固くなっていたものが、ゆっくりと溶けていくのが見えた。三つの影の中に、小さな灯がはっきりと燃えはじめていた。


Ⅳ 大統領ラーデナ――謝意と対話

 幕営の中は外よりわずかに温かい。焚き火と薬草の匂い、布壁に吸われる囁き。長卓の中央に、ラーデナ・ヴァルミール大統領がいた。理知と厳格を併せ持つ面差し。疲労の影は深いが、背筋は糸のように真っ直ぐだ。


「メービス女王陛下。国家を代表し、深く御礼申し上げます」


 澄んだ声に微かなざわめきが溶ける。彼女は一歩進み、静かに首を振った。


「過分なお言葉です。……わたくしたちはただ、“生きていてほしい”と願い、動いただけです。その願いに応えてくださったのは、あなた方の強さと、決して消えなかった希望です」


 女王と大統領――二人の眼差しが結ばれる。綺麗事ではない、責任の重さを分かち合う者同士の沈黙が、侵しがたい平穏を織りはじめるのがわかった。


 大統領は焦げ跡の地図に視線を落とし、黒い裂け目を指先でなぞってから顔を上げた。


「……私は警告を受けながら、貴国の真意を疑い、国境を閉ざしました。国家元首としてあるまじき非礼。心よりお詫び申し上げます」


 声は揺れない。それでも言葉の端々に痛切さが滲む。俺は息を潜め、彼女の返答を待った。


「混乱のさなかに他国軍の介入を許可するのは、どの国家にとっても難しい決断です。……それでもあなたは避難を命じ、多くの命が救われました。人は完璧ではありません。為政者も同じです。大切なのは、過ちの後にどう対処するか――わたくしは、あなたの選択が賢明であったと信じています」


 大統領は胸に手を当て、長い睫毛を伏せてひと息吐いた。肩の硬さがほどけ、瞳の奥で光の屑が砕ける。静けさが灰のように落ち着き、言葉を超えた誓いが生まれる。――炎に焼かれた土地を越えて、リーディスとサニルが携える、新たな暁の盟約。


 俺はその場に立ちながら、胸の中でひとつの理解に頷いた。サニルの初期対応は、愚昧でも傲慢でもない。大戦後の地政学、情報の非対称、主権と軍規――幾重にも積み重なった「合理」が導いた帰結だ。だが理性と秩序は、「虚無」のような不条理の前では脆い。だからこそ、今この瞬間の“手を取り合う”という非合理な決断が、未来を繋ぐ。


 幕営の明かりが灰塵を金に縁取り、二人の間に侵しがたい平穏を広げていく。俺は彼女の横顔を見つめ、胸の奥で小さく握り拳を作った。――この女を、必ず支える。彼女が「聖女」ではなく「ただの女」として差し出した言葉を、俺は誰より誇りたい。

読者向け解説

第十四章 時間遡行編⑧ 焦土に立つ女王と騎士

 前半では、「聖女ではなく、ただの女」 というテーマが一貫して描かれています。


1. 焦土の現実と再会の光

 ヴィルの視点から描かれる最初の場面は、ハロエズ盆地の惨状。かつて大河と桜色の宮殿を誇った都市は灰に沈み、二十万のうち救えた命はわずか一万余りでした。その冷酷な数字の中で、唯一の救いとなる光景が示されます。


 アウレリオ枢機卿が、灰に塗れながら妻と娘を抱きしめる再会。英雄と呼ばれた男が涙を流す姿は、戦場の「証明」として、命の尊さを際立たせるものでした。


2. 「聖女」像の否定

 この惨禍のただ中でメービスが行ったのは、舟守教会の「十字の祈り」。異国の女王が兵や民と同じ高さで膝を折り、名も知らぬ魂へ祈る――。その姿は人々に「聖女」と映ります。しかしヴィルの目には違う。


「あれは聖女の祈りではなく、懺悔だ」


 救えなかった十九万の魂への「ごめんなさい」。それを抱え込みながら、それでも「生き残った命のために祈らずにはいられない」――彼女は聖女になろうとしたことなど一度もなく、むしろ否定してきた。愚かで、たくさんの人を巻き込んだ。今度のハロエズも元を辿れば原因は自分。そう自分を責めている。でも、だからこそ逆説的に、人々には「真の聖女」に見えてしまうのです。


3. 群衆のざわめきと正統性の獲得

 アンダース大佐は、民衆の混乱の中で宣言します。


「ここにおわすのはリーディスの女王メービス陛下、そして隣には王配ヴォルフ殿下」――。彼の言葉によって、ただの祈りが国家的な意味を持つものへ変わっていきます。


 さらにアウレリオ枢機卿が登場し、こう断言します。


「陛下は“外から来た者”ではない。我らと同じ舟に乗る仲間だ」


 ここでメービスは「聖女」ではなく「同じ舟を漕ぐ者」として群衆に迎え入れられ、異国での正統性を確立していきます。


4. 女王ではなく「ひとり」として

 メービスの言葉は三段階で下降していきます。


「わたしは女王としてここに立っていますが、その前に皆さんと同じ“ひとり”です」


「守る者と守られる者に境はない」


「わたしはもうすぐ母となる身です」


 政治的権威から始まり、共同行為者として降り、最後には私的な「母」として語る。これは上から押しつける演説ではなく、同じ高さに立ち、寄り添う言葉なのです。


 その言葉に応えるように、兵士や民は胸甲を叩き合い、「同じ舟に乗った仲間」としての誓いを共有します。


5. 国家の合理と非合理

 アウレリオ枢機卿、そして大統領ラーデナとの対話では、サニル共和国の初期対応が語られます。彼らが国境を閉ざしたのは愚かさや傲慢ではなく、


 魔族大戦後の地政学的猜疑心

 情報源の非対称性(「神託」という非科学的警告)

 共和制国家としての主権と軍規


 といった「合理的な帰結」だったのです。しかし、その合理性は「虚無のゆりかご」という不条理の前では脆かった。だからこそ、今この瞬間に「手を取り合う」という非合理な決断こそが未来を繋ぐ――。この章の政治的主題がここに集約されています。


6. テーマの核心

 この章の核心は、「聖女像の否定と再定義」です。メービスは「聖女」ではなく、罪を抱えたただの女。けれどその姿こそ、人々に希望を与え、「聖女」と呼ばれてしまう。彼女自身は「ごめんなさい」を繰り返すだけ。だが、その懺悔が「希望」へと転じる。つまり本作が提示する「聖性」は、清らかで罪なき存在ではなく、 罪を背負い、傷を抱えながら、それでも生き抜こうとする人間の姿に宿るのです。


結び

 焦土に立つ女王と騎士。その姿は、過ちや罪を抱えてもなお希望を紡ぐ人間の強さを象徴しています。メービスは「聖女」ではなく「ただの女」として語り、ヴィルは「聖女」ではなく「伴侶」として支える。そして群衆は「同じ舟に乗った仲間」としてその言葉を受け止める――。


 こうして第十四章前半は、「罪から希望へ」「孤独から共生へ」という転換を描。



歴史上の聖女たちとの対比と、メービスの位置づけ

1. 聖女ジャンヌ・ダルクとの対比

ジャンヌ

 「神の声を聞いた」としてフランスを救った少女。使命感と神託を背負い、英雄視されるも、最期は異端裁判で火刑に処されました。


メービス

 「神の声」ではなく、「自分のせいで誰かが死ぬ」という罪悪感を原動力に戦う。

ジャンヌが「使命を与えられた存在」として歴史に刻まれたのに対し、メービスは「使命を拒絶しながらも、罪を抱えたまま立ち上がる存在」。


違い

 ジャンヌは「神意の代弁者」、メービスは「神意を否定しながら生き残る者」。

同じ“少女の聖性”でも、根拠がまったく逆なのです。


2. 聖女カタリナ・シエナとの対比

カタリナ

 修道女として自己犠牲を極め、断食や苦行によって「魂の純潔」を保ち、教会と人々の間を調停しました。


メービス

 苦行や断食ではなく、「罪を背負ってなお幸福を望む」ことが核。自分を滅ぼすことではなく、「救えなかった命の痛みを抱えながら、それでも生きる」ことを選びます。


違い

 カタリナは「自己否定と清らかさ」で聖性を得た。

 メービスは「自己否定を否定できないまま、それでも幸福を求める」という矛盾こそが聖性になる。


3. 聖女テレサ(アビラの聖テレサ)との対比

テレサ

 神秘体験を通じ「神と合一する至福」を説いた人物。彼女にとって聖性は“神との合一”にあった。


メービス

 神との合一を拒む。むしろ「デルワーズ」や「巫女」というシステム的宿命から解放されたいと願っている。彼女が求めるのは「至福」ではなく、「普通の幸せ」「皆と同じ笑顔」。


違い

 テレサの聖性は「神との超越的な結合」。

 メービスの聖性は「人としての凡俗的な幸福の希求」。


4. 東方正教圏の聖女マリア信仰との対比

聖母マリア

 無原罪の存在として、母性そのものが聖性とされた。母性によって「赦し」と「救済」が与えられる。


メービス

 母性は確かに抱えているが、それが聖性の根拠ではない。

 彼女は母である前に「罪を抱えたただの女」として語り、自らの母性を聖なるものとして利用することを拒む。


違い

 マリアは「母であること」そのものが聖性。

 メービスは「母であること」を口実にせず、むしろ「母になっても人間のまま」であることを強調する。


「非聖女の聖性」

歴史上の聖女たちは、多くの場合


 神の声や神秘体験(ジャンヌ、テレサ)

 苦行や清らかさ(カタリナ)

 母性そのもの(マリア)


 といった「人ならざる聖性」を根拠に称えられました。


一方、メービスはそのすべてを拒否します。「神の声」ではなく「罪悪感」を原動力にする。苦行ではなく「幸福を求める欲望」を隠さず持つ。母性だけに還元されることを拒む。


 だからこそ彼女の聖性は、歴史上の「超越的聖女像」の否定から生まれる。つまり「聖女ではなく、灯を掲げるただの女」こそが、新しい聖女像として描かれているのです。



ラノベにおける「聖女」像の定型

 近年のラノベ/異世界ファンタジーでは「聖女」という存在はだいたい以下のように描かれます。


 特殊スキル(浄化・回復)を持つ便利役。

 「純潔」「無垢さ」の象徴として、男性主人公の“守る対象”。

 母性や自己犠牲によって、最終的に世界を救うキーアイテム化。


 感情や罪を背負わない。むしろ「奇跡を起こすためのギミック」として使われる。要するに、キャラというより「聖女チートスキル持ちヒロイン」になってしまいがちです。


何をしてもうまくいく

 ちょっと善行すれば周囲は自動的に賞賛、敵は勝手に倒れる。


素敵な男性に見初められる

 本人の意志というより、「選ばれる」「守られる」が基本。


戸惑いつつも受け入れる

 流れに身を任せるだけで愛は確定。


甘さと幸せが絶対保証

 苦しみや矛盾は一瞬で解消、物語の前提としてハッピーエンドが免罪符のように付与される。


 つまり「受動性」が前提なんです。


それに対してメービスは、


 罪悪感も矛盾も拭えない。

 何をしても「救えなかった命」を抱え込み、結果に責任を取ろうとする。

 望みを告げるときも「怖い」と震えながら、それでも能動的に「救いたい」と選ぶ。

 甘さも幸せも保証されない。むしろ失うと分かっていても、それを欲しいと告げる。


 奇跡の体現ではなく、罪と痛みを抱えた矛盾の存在。 聖女と呼ばれることに涙し、「わたしは聖女なんかじゃない」と自ら否定する。


 便利スキルではなく、犠牲と代償を伴う力。 精霊魔術やIVGの力は無制限の回復魔法ではなく、肉体と精神を蝕むリスク付き。


 つまり、「ラノベ的に都合よく消費される“清らかな聖女”像」を、徹底的に解体しているんです。



新しい「聖女」像の再定義

 では、なぜ人々は彼女を「聖女」と呼んでしまうのか?それは 「聖女になろうとしない姿」こそが、逆説的に最も聖性を帯びて見える からです。


 奇跡ではなく、「罪を抱えたまま立ち上がる」姿。

 母性ではなく、「一人の女の矛盾した願い」。

 無垢ではなく、「血と涙で濁った現実」。


 その“非聖女性”が、ラノベ的聖女像を壊し、もっと人間的で普遍的な「灯を掲げる者」としての聖性を描き出しています。


ラノベ聖女

 スキル/奇跡/清らかさ/自己犠牲 → 消費される便利キャラ。


メービス

 罪悪感/矛盾/祈り/「ごめんなさい」 → 生々しい人間としての聖性。


 つまりこれは「ラノベ聖女の否定」であり、同時に「現実に立つ聖女像の再構築」です。



補足

① 母性万能説の否定

 ラノベや一部の大衆ファンタジーでは「母だから救える」「母性が世界を癒す」という図式が強調されがちです。しかしメービスは、母だから祈ったのではなく、ひとりの女だから祈った。


 メービスの告白は、従来の「母であるから救済の源泉になる」という物語構造をひっくり返しています。


 彼女が語るのは――

 「母だから救う」のではなく、「わたしが望んだから救いたい」。

 母としての属性ではなく、「わたし」という一人称の意志。


 そして、その望みの裏には「あなたたちと同じく、怖いのです」という弱さの共有がある。つまり母性という絶対的な聖性ではなく、恐怖や罪悪感を抱えたただの人間が「それでも望んだから」立ち上がる。ここにこそ彼女の能動性があるし、「母だから尊い」という安直な構造を否定する意味が宿っています。


 まとめると。母性を根拠にした救済ではなく、人間としての恐怖を認めた上での能動的な選択。


② 自己犠牲=救済の否定

 典型的な「聖女」像は、自己犠牲によって世界を救うという筋書きに回収されがちです。しかしメービスは違う。


 彼女は繰り返し「ごめんなさい」と懺悔するが、それで自分を差し出すことはしない。自己犠牲によって償うのではなく、生きて抱え続けることを選ぶ。「生き残った者にはその責任がある」→ 死んで贖うのではなく、生きて責任を背負う。


 つまり「死んで救う」のではなく、「生きてなお痛みを引き受ける」ことが救済なのだと示している。


③ 奇跡万能スキルの否定

 ラノベ的聖女は「奇跡のスキル」で無制限に癒し・浄化・蘇生を行う存在になりがちです。しかしメービスの力はそうではない。


 精霊魔術やIVGは万能ではなく、結果として物理現象の延長に過ぎず、常に代償とリスクを伴う。19万を救えなかった事実が示す通り、「万能スキルで全部解決」にはならない。だから彼女は奇跡ではなく、「言葉」「祈り」「姿勢」で人々を支える。


 ここで描かれるのは「力で救えない現実」を受け入れ、それでも希望を灯す生き方です。

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