ヴィル・ブルフォード手記㊴
ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
第十三章-時間遡行編⑦
その二百八 暁光の息継ぎ
馬車の幌の隙間から、夜明けの光が刃のように差し込んでいた。革の匂いと夜の冷えに包まれた空気の中で、その一条だけが時を再び動かしていく。胸のすぐ傍で静かに波打つ呼吸。毛布に溜まった熱に混じって漂うのは、冬の森の日向を思わせるような落ち着いた匂いだった。
頬に当たるのは、篭手越しに感じる軍服の硬さ。肩に預けられた重みが、目覚めから守ってくれるように確かな存在感を示す。昨夜、鋼の決意を交わしたばかりだというのに、この温もりは戦の現実を簡単に溶かしてしまう——危うい甘さだった。
それにしても、この女はいつもそうだ。俺より早く目を覚ます。起こさぬようにじっとこちらを観察していることくらい、とっくに知っている。
……まったく、女の気持ちというものはわからん。もう見慣れて飽きただろう“ヴォルフ”の顔を、何が面白くて眺めているのか。弱点でも探しているのかと疑いたくなるほど、視線が熱い。正直、むず痒くてたまらん。だが、だからといって止めさせる気もない。寝息を装ってやり過ごすのが、俺にできる精いっぱいの返事だ。悪い気はしないのだから、始末に負えない。
「……ん、朝か」
自分の喉から掠れた声が洩れた。額にかかった彼女の黒髪を、節くれ立った指でそっと掻き上げる。ぎこちない仕草しかできない自分が情けなくもあり、愛おしくもある。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
小さく震える声。夜明けの冷えと眠気にまだ混ざった声音が、息のかたちで胸に落ちる。
「いや」
短く返しながら、次の言葉を探していた。鎧の胸板がひとつ大きく持ち上がる。
「……おまえが隣で笑えば、夜でさえ朝を思い出す」
言葉にしてみれば気障なものだが、胸の底から湧いたままの本音だった。頬を染めて額を俺の胸に埋める彼女の仕草に、心臓が一拍遅れて強く鳴る。
「……あなたの髪、ずいぶん伸びてきたわね。この戦いが終わったら、わたしに整えさせて?」
指先に摘まれた銀の髪が揺れる。俺は肩をわずかに揺らし、からかうように言った。
「助かるが……こんなもの、侍女に任せれば十分だろう?」
わざと冷ややかに。けれど芯に甘さを隠しきれない声になった。
「ダメ。そこは“妻の特権”よ」
胸先を軽く突かれ、金具がカチリと鳴る。思わず口端が上がる。
「特権、ね。ならば俺の剣の刃こぼれも、お前が研ぐか?」
薄闇に笑みを落とす。狩り前の狼みたいだと、自分で思う。
「ガイザルグレイルに手入れなんて必要ないでしょう? ご自分で磨いてなさいな」
「公平性のかけらもないな」
拗ねたふりをすると、彼女はぷいと横を向き、毛布を鼻先まで引き上げる。胸の奥から笑いがこみ上げ、鎧ごと肩がくつくつと震えた。
「公平なんて退屈よ」
その一言に、思わず長い溜息を落とす。降参の合図のように目を細めた。
「……では、馬の鬣を梳くように、優しく頼む。抜けたら泣くぞ」
幼子めいた言葉で返すと、彼女の笑みが毛布の影から零れる。
「ええ。抜けたら全部、わたしの愛が重すぎたせい、ということにしてあげるわ」
その声に、毛布の奥で指先が絡む。外気の冷たさなど消えていく。時間の砂が、一粒ずつ止まっていく気がした。
まったく、思えば最初に出会ったあの夜からそうだった。
「子供がこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」
そう声をかけたときのことを、今もはっきり覚えている。
焔の揺れる卓で、彼女は静かに杯を傾けていた。喉がひりつくように熱を帯びた俺の問いかけに、彼女は眉ひとつ動かさず答えた。
「馬鹿にしないで。ここでは誰が何を飲もうと自由だし、私はこれでも飲める歳よ」
唇を噛み、まっすぐに見返してきた瞳。その奥から立ちのぼる気配は、とても十二歳の少女のものではなかった。
「――残念だけどね、私は“二十一”なの」
あのときの声は、氷の奥に潜んでいた火がふいに弾けたようで、胸を灼いた。まったく、言うとおりだった。外見に囚われた目では、決して触れられないものがある。あいつは間違いなく、子供のあどけなさと、大人の覚悟とを同じ瞳の奥に宿した「女」で――その揺らぎこそが、彼女の本質だった。
……してやられた。あの夜からずっと、俺はこの黒髪のグロンダイルに、男としても騎士としても、振り回されっぱなしだ。
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第十三章-時間遡行編⑦
その二百九 黎明の湯気
黎明の光芒が、峠の頂を剃刀の刃のように淡く染めていく。冷えた空気を裂くように、真鍮ポットの底が赤く光り、湯気が細く立ちのぼった。カタリと鳴った小さな金属音が、静まり返った朝を余計に際立たせる。
馬具を磨く手を止め、俺はその湯気越しに彼女を見た。さっきまで毛布の中で「妻の特権」などと言って胸を突いていたのが嘘のように、翠の瞳は静けさを湛えている。湯気の中に淡く揺れる姿は、戦場のただ中にいるとは思えないほど穏やかだった。
「……その湯が上がったら、一口もらおう。喉に残るざらつきを洗い流したい」
我ながら素っ気ない言葉になったが、湯気の匂いに喉が反応していた。蓋が小さく震え、彼女は泡を確かめながら火加減を落とす。
「ええ、もちろんよ。とびきり熱いのを淹れてあげる」
強気な返しに、思わず片眉を吊り上げた。
「……火傷させるつもりか?」
「冗談よ」
笑みをこぼす唇。その一瞬で、俺の胸骨にこびりついた冷えが溶けていく。
「おまえこそ、無理は禁物だぞ。お腹の子が驚かぬよう、ちゃんと温度を確かめろ」
自分でも妙に優しい声になったと気づいた。けれど彼女は湯気を掌で扇ぎ、頬に当てて――次に口走った言葉で、俺の方が驚かされた。
「そうね……あなたがわたしを抱くときの温度と同じくらいにしてから、口にするわ」
……人肌と言いかけて、つい俺の体温などと口にしたのだろう。案の定、頬が真っ赤に染まっていく。いつもは理屈の鎧を着ているくせに、時折こうして無防備に漏らすから、可愛くて仕方ない。
俺は口角を上げ、低く囁いた。
「……そりゃ、俺の胸よりは安全だろうな」
頬まで一気に熱が駆け上がり、視線を逸らす彼女。胸の鼓動が乱れているのが、こちらにまで伝わってくる。
「……呆れた。あなたって、こんなときになに言ってるの――」
唇を尖らせる顔が子供のようで、けれど仕草は大人の女そのものだ。俺は肩をすくめ、笑いでごまかすしかなかった。
「仕方ないだろ。お前が可愛すぎるせいだ」
「……まったく油断も隙もないんだから」
不満げに言いながらも、胸の奥に灯を隠しきれていない。嵐の前の静けさに、こんな甘い香りが潜むとは――俺の方こそ油断していた。
その瞬間だった。遠雷のような破裂音が静寂を裂き、峠が震えた。
ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
その二百十 伝令の息
破裂音が峠を揺らした瞬間、毛布の温もりも湯気の甘さも一気に霧散した。俺は外套の胸鋲を留め直し、鞘を確かめる。夫の顔から、騎士団長へと切り替わるのに余計な時間はいらなかった。蹄音が駆け上がってくる。冷えた空気を叩く鉄の響きは、休むことなく走り詰めた証だ。やがて二騎が霜を巻き上げて跳ねつき、ほとんど転がるように鞍を飛び降り、俺たちの前にひざまずいた。
「ご報告! 銀翼左翼、バロック翼長より、緊急の報せにございます!」
若い騎士が声を張り上げる。息は白く掠れていたが、芯には誇りがあった。俺の視線が合図になるより早く、彼女――女王はうなずき、凛と声を投げた。
「良くやってくれました。バロックに、わたくしからの感謝を」
その声を受け、俺も指示を重ねる。
「バロックへの伝言だ。『速やかに峠南端の岩棚へ移れ』と。そのルートなら比較的安全だ。がけ崩れと路盤崩落に備え、後衛の盾兵と魔導兵の配置を交互に代えるよう伝えろ」
「承知いたしました!」
兜が深く揺れる。言葉の余韻が霜柱を震わせる間もなく、もう一人の伝令が顔を上げた。煤と汗に汚れた頬の奥で、小さな炉のように瞳が燃えていた。
「同じく右翼、ステファン翼長より! アウレリオ枢機卿率いるサニル騎士団の先導でE17坑道口より地下道を北上中。首都防衛軍と接触、生存者は数千人規模との報告にございます!」
……数千。胸を衝かれ、思わず彼女の横顔を見やる。名も知らぬ人々の呼気が、彼女の胸に重なったのだろう。わずかに瞬きが深くなった。
「聞いたか、メービス。あの男には神の加護があるようだ」
俺は篭手ごしに肩へ手を置いた。彼女の背筋に走る震えを、温度でつなぎ止めるために。
「ええ……ならば、わたしたちも彼に応えなくては」
その声に迷いはなかった。女王としての貌が、静かな朝を鋼色に変えていく。やがて彼女は伝令たちへ命を下した。 「避難民を一人残らず生きて連れ帰れ」と。声が峠を震わせたとき、甲冑が鳴り、若者たちは立ち上がった。それでも背に刻まれた疲労は隠せない。煤にまみれた鎧、乾ききった唇――夜通しの強行軍の代償がそこにあった。彼女がそれを見逃すはずもない。
「湯が沸いています。せめて一口でも飲んでいっては?」
俺が止める間もなく、そう声をかけていた。……まったく、部下に甘い癖は相変わらずだ。だが、その優しさが兵を支えていることも俺は知っている。
彼らは首を横に振った。「一刻の猶予もございません故」と。使命を下ろさぬ瞳に、俺は黙って頷くしかなかった。だが彼女は諦めない。外套の内から蜜蝋紙に包んだ小さな固まりを取り出す。
「では、せめてこれを……。月胡桃や無花果を蜂蜜で固めただけの、ささやかな祝福よ。どうか受け取って」
若者たちの目が見開かれる。震える指で包みを受け取り、深々と頭を垂れた。その背に霜が舞い、蹄の響きが峠の奥へ遠ざかっていく。俺は小さく息を吐いた。
「……相変わらず、おまえは部下に甘いものを与えたがる癖がある」
彼女は振り返り、蜜蝋紙を胸に抱き直しながら微笑んだ。
「だって、彼らを見ればわかるでしょう? ろくに眠らず、泥と灰にまみれて頑張っているのだもの。それを思えば、わたしなんて――」
彼女の翠の瞳が揺れた。戦場での記憶。救えなかった命。罪悪感が影を落とす。俺は指先を軽く振って制した。
「――こらっ」
鋭くはない。だがその一言で、彼女の弱音はすぐに凍る。
「その考え方は悪い癖だ。お前は作戦の柱で、最後の切り札なんだ。自分を軽く見てはならん」
俯いた肩に毛布ごしに掌を回す。篭手越しでも、温もりは確かに伝わった。
「まあ……甘いものを持ち歩くのは良い癖だがな」
照れを隠すような言葉に、彼女の頬がふっと緩む。外套の内から蜜蝋紙をもう一つ取り出し、俺に差し出してきた。
「だったら、あなたにも食べてもらおうかしら」
篭手に覆われた指先で慎重に受け取る。
「……思ったより硬いな」
「噛まずに、ゆっくり口の中で溶かすのよ」
「了解した」
小さな塊を舌に置く。蜂蜜と無花果の甘みが、鎧の中まで沁みていく。硬い鎧と冷気に似合わぬ味だが、不思議と胸の奥に残った。
……どんな時もそうだった。あいつは自分のためより、誰かのために甘さを差し出す。その優しさに、俺は幾度も救われてきた。
「ふふん。侮るなかれ、甘味は小さくとも力の源になるのだぞ」
蜜蝋紙をひらひら振りながら、わざと大言壮語めいた口ぶりをする。俺は呆れたように眉間へ皺を寄せながらも、内心では笑いを堪えていた。
「話はわかるが、その変な語り口は誰の影響だ……」
「茉凜に決まっているじゃない」
その名を口にした瞬間、彼女の胸に小さな陽だまりが広がったのがわかった。焚き火の残り火より淡いが、確かに体の中心を温めている光だった。
「“マリン”、か……。そういえば、この時代のマウザーグレイルには、彼女はいないんだったな」
言葉に沈む波のような陰りを宿しながら、俺はつぶやく。無意識に霜を払う靴先が小石を弾いた。
「ええ……元の世界線の未来へ戻れない以上、もう二度と会えないでしょうね」
吐息に混じる痛みを隠さず言い切る。その横顔に、胸の奥がきしんだ。
「……すまん」
思わず口をついた。なぜ自分が謝るのか、言葉にする前にわかっていた。
「思い出させて悪かった」
彼女は小さく首を振った。湯気が頬を撫で、その温度が慰めのように見えた。
「ううん。むしろ、思い出させてくれた方が嬉しいの。離れ離れになっちゃったけど、不思議と辛くはないのよ。今でも一緒にいるって思えるし、彼女がくれたものは、わたしの中で生き続けているから」
その言葉に、俺は視線を逸らせなかった。翠の瞳の奥で、悔いと慈しみが重なり合う。その揺らぎが、冬の陽光のように胸を温めてくる。
「俺としては、不満ではある」
「なにが?」
問いかけに、拳を握りしめた。革籠手がきしむ。
「身体の調子が悪くなったのは、ようするに俺が“騎士”になる途中だったんだろう? だったら……こっちに“落っことされる”前に繋がれていれば、彼女とも話ができたろうに、と思ってな」
胸の奥に鈍い痛みが広がる。失われた時間に、どうしようもなく手を伸ばしてしまう。マリンとは、彼女にとっての魂の盟友。俺にとっての、ユベルのような存在だったはずだ。
彼女は一瞬黙し――やがて、鈴を転がすように笑った。
「ふふっ……」
「なぜ笑う?」
「いやね、茉凜に突っ込まれて、たじたじになってるあなたの姿が想像できて」
「そんなに辛辣なのか、彼女は」
「違うわよ。上段から真正直に振り下ろしてくるみたいな人なの。真っ向勝負って感じ」
「ほう……それなら俺の真骨頂だ。受けて立とうじゃないか」
俺が強がって返すと、彼女は肩を揺らして笑った。その声に、冷えた峠の空気が少しだけ和らいだ気がした。
「手強いわよ。たぶん、あなた守り一辺倒になると思うわ。一見するとふざけた物言いに映るかもしれないけれど、あの子の言葉は、いつだってまっすぐで、わたしの心を打つの」
「そうか……なら、いい奴ということだな」
「ええ、とっても。お日様みたいに暖かくて……あの子がいたから、あの子が手を差し伸べてくれたから、今のわたしがあるの」
彼女の声は、暁の氷を張った空気のなかで白く揺れた。俺はすぐには応えず、ただ翡翠の瞳を見つめ返した。そこに映っていたのは、子供のものではない覚悟と慈しみ。
聖剣の魂――マリンとは、ユベルが亡くなってからの付き合いだと聞いている。それ以上に二人の間にどんな関わりがあったかは、俺には知る由もない。だが一つだけは理解できる。
――彼女と並び立てる存在など、そうそういるものではない。マリンとは、彼女にとってかけがえのない片翼だったのだ。
風が止み、世界の音が遠ざかる。静寂を溶くように、ようやく俺の唇が動いた。
「そうか……」
ただ一言。それだけでよかった。その相槌が、どんな慰めよりも深く彼女の胸に沁みたのを、俺は見逃さなかった。
ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
第十三章-時間遡行編⑦
その二百十一 逆観の楔へ
東の空が、深い藍から紫へと薄れ、縁に薔薇色の光が差し始めていた。夜の名残を惜しむように、俺たちの影は凍てついた大地に長く伸びていた。この胸にある確かな温もりを、あの影が届くその先まで――峠を越えてゆくすべての人に届けねばならない。そう、強く誓ったその時。
遠くで乾いた破裂音が弾けた。先ほど発ったばかりの伝令が上げた警笛だ。甘さに満たされていた空気が瞬く間に鋼へ変わる。俺は口に残る最後の欠片を飲み下し、一息で鞍へ躍り出た。鎧の継ぎ目が氷を噛んで鳴り、振り返った瞳には夜明け以上の光が宿っているのを、自分でも感じた。
「甘さの続きを――そして夜明けの続きを、必ず、おまえと迎える」
その誓いが霜の大気を震わせた。彼女の背に届くように、言葉を放った。盆地の上空では結晶雲が蠢き始めている。視界の隅で蒼い光が奔り、幾何学模様と数字が一斉に浮かび上がった。
……だが俺にはほとんど理解できない。専門語の羅列にしか見えなかった。それでも胸の奥で直感していた。時間は少ない。雲は閉じようとしている。猶予はわずか十八分――剣を握る者にとっては、死地へ突入するまでの助走にすぎなかった。
「盾を立てるには、十分な助走だ」
俺は鞍上で手綱を絞り、愛馬の首筋を叩いた。鎧の継ぎ目がきしみ、銀の肩甲が黎明の光を散らす。その瞬間、背から立つ気迫が冷気を退かせたのがわかった。
彼女はIVGの起動シーケンスを意識でたどり、結晶雲の胎動を睨む。雲片の底を稲光が走り、中心の“窓”が深海魚の眼のように闇を湛えていた。
拳を握りしめる。残り十八分、その全てを勝利のために使い切る。
「……ヴォルフ、いい?」
「いつでも」
半歩跳んで鞍に跨がる。外套が翻り、銀の甲片が薄紫の空で鈍く光った。俺は手綱を整え、片腕を差し伸べる。
「三百秒の盾、無駄にはしない。行くぞ、メービス」
彼女がその腕を掴んだ瞬間、鋼のような引力が腰を捕えた。後ろ鞍へと跳ね上がる軽さに、鎧越しの背が強く抱きしめられる。馬体が前脚を刻み、大地を震わせた。鐙を蹴り、馬首を空へ向ける。氷片が白い火花のように散った。秒針のような風が頬を斬る。黎明の薄紅を帯びた空へ、二人分の影が弧を描いて駆け上がる。
蜂蜜の残り香は、まだ舌の奥にかすかに灯ったまま。それは帰還後、ふたたび全員で味わうはずの――本当の朝の甘さ。
二百八「暁光の息継ぎ」
メービスの「じーっと観察するまなざし」をヴィルがむず痒く感じつつも受け入れてしまうくだり。寝息を装うしかない、という不器用さがヴィルらしい。第一章の出会いを回想へ滑らかに繋げる構造で、「少女にして女」である彼女の本質を冒頭に重ね直しています。
二百九「黎明の湯気」
「人肌」と言いかけて「あなたの体温」と言ってしまうメービスの無防備さ、それをヴィルが「可愛くて仕方ない」と認識する流れが、二人の関係の成熟を実感させます。甘さと戦場直前の緊張の同居。
二百十「伝令の息」
緊急報告のシーンでの緩急。部下への優しさを「甘い癖」としつつも、それが兵を支えると知っているヴィルの内心。メービスが罪悪感に傾くのを「こらっ」で制するくだりは、叱責と慰撫のバランス。
二百十一「逆観の楔へ」
レシュトルの報告を「理解不能だが本能で察する」視点に置き換えています。専門語の羅列を削り、戦士の直感だけで「十八分」という猶予を受け取る。ここが実にヴィルの視点らしい。最後の「蜂蜜の残り香」を未来への希望と重ねる結びで、戦場突入への導線が決まります。
甘さ=束の間の平穏
伝令=現実の重み
突入=未来への賭け
今回の手記からピックアップできる“メービスらしさ”
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
自分のせいで迷惑をかけたのでは、と反射的に謝る癖。弱さを直接は見せず、丁寧な言い回しで隠す。
「……あなたの髪、ずいぶん伸びてきたわね。この戦いが終わったら、わたしに整えさせて?」
核心(=「妻として触れたい」)を言わず、髪という小さな話題にすり替える。まわり道をしながら自分の願望をにじませる。
「そうね……あなたがわたしを抱くときの温度と同じくらいにしてから、口にするわ」
無意識に核心へ踏み込んでしまい、直後に顔を赤らめる。この「言ってしまった」瞬間が彼女の可愛さ。
伝令への「湯が沸いています。せめて一口でも」や「せめてこれを……」
合理的ではない優しさを衝動で差し出す。女王としてより、一人の人間として言葉がこぼれる。
「……わたしなんて――」で途切れる言葉
罪悪感から生まれる自己否定を言いかけて、ヴィルに「こらっ」で止められる。理屈では隠せない心の傷がにじむ場面。
メービスは「即応して突く」のではなく、
謝辞 → 理屈 → すり替え → 不意の本音 → 自己否定
という、感情が波紋のように広がる流れでヴィルと対話します。ラノベ的な「結論→反論→説得→納得」の応酬ではなく、揺らぎや沈黙の濃度で“突く”のが彼女らしさです。
また、ヴィルは放浪の末に、酒場も戦場も女も経験してきた男です。単に美しい、可憐というだけでは、心をここまで揺さぶられることはない。
ヴィルにとってメービスが「かわいすぎる」理由
理屈で隠すのに、隠しきれない
普段は女王として、あるいは論理で自分を守る。けれど「つい零れる」瞬間がある。
──「あなたの体温と同じ温度で」
──「わたしなんて――」
そういう「抑えきれず漏れる」部分が、ヴィルの胸を直撃する。
強さと弱さが同居している
人前では毅然とし、戦場では誰より冷静に采配を振るう。
けれど夜明け前、毛布の中では少女のように肩を震わせる。
そのギャップこそ、歴戦の男にとって抗いがたい。
“欲しい”を自覚していない
彼女は欲望を言葉にできない。罪悪感が強すぎて「わがままを言う」ことを自分に禁じている。
でもだからこそ、ふっと零れた「欲しい」の一言は、何よりも真実味を帯びる。
経験豊富なヴィルには、それが無垢すぎて胸を突く。
不器用な正直さ
計算ずくの色気ではなく、思わず出てしまう照れや焦り。
「呆れた、あなたって……」と口で抗いながらも、頬を赤らめて視線を逸らす。
その矛盾が、女に慣れた男の心に「守りたい」という本能を呼び覚ます。
彼女だけの“聖域”
誰も踏み込ませない重責と罪悪感の中で、唯一甘える相手が自分である、という事実。
美貌以上に「信頼の一点突破」が、ヴィルの魂を揺らす。
つまりヴィルにとってメービスは、ただの美人でも、ただの少女でもなく――「理屈で隠しながら、時折零れてしまう本音の可愛さ」を持つ存在。この“ツンですらない理屈デレ”と、“強さと弱さの落差”が、女に慣れた彼の心をむしろいちばん揺さぶているといえます。
メービスのような「理屈で鎧をまとった乙女」は、 ただ可愛いだけの少女以上に男性の庇護欲を呼び起こすけれど、普通の男なら「彼女の領域に触れるのは怖い」と距離を置いてしまう。ヴィルだけがそこに踏み込めるのは、彼が「からかい」と「叱責」と「敬意」を、無意識のバランスで出せる男だから、なんですね。
メービスの構造は「バリバリのキャリアウーマンが伴侶だけに甘える図」に“やや近い”。でも決定的に違うのは、そのキャリアが 「自ら選んで切り開いたもの」ではない ことなんですよね。
キャリア女性の図とメービスの違い
キャリア女性
自分で望み、努力して立場を掴み取った。責任も誇りも「選んだ結果」として背負う。だからパートナーに見せる弱さは「息抜き」や「戦略的な甘え」。
メービス
本人の意思とは無関係に「黒髪の巫女/女王」という立場を突然押し付けられた。
逃げれば世界が潰れる。だから“やらされている責務”を理屈で固めて必死に担っている。彼女の甘えは「息抜き」ではなく、生き延びるための最後の拠り所。
ヴィルが揺さぶられる理由
だからヴィルにとって、メービスの甘えは「かわいい」という次元を超えている。
彼女がほんの少し弱音を見せるとき、それは息抜きや遊びではなく――「命をかけて守り抜いた責務の隙間からこぼれた、人間としての本音」 なのだと、本能でわかるから。




