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ヴィル・ブルフォード手記㊱

ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿

第十三章 時間遡行編⑦ 

その百九十四 崩壊と慟哭


 レシュトルが吐き出した数値が、氷の刃となって彼女を貫いた。その響きは、剣戟より鋭く、魔獣の咆哮より冷たく、心を殺すに足る宣告だった。


 その瞬間、彼女の顔からすべての色が奪われた。翡翠の瞳が見開かれ、まるで世界そのものが凍り付いたかのように、声も息も途切れる。俺はただ傍らに立っていた。だが、喉の奥が焼け付くような痛みに襲われ、呼吸を忘れた。


 やがて彼女は、喉を裂くように叫んだ。


「わたしなんか……母親になる資格、ない……!

 この子は、数字じゃない! 命なのよ!」


 その声は悲鳴ではない。魂そのものが断ち切られる音だった。


 彼女の記憶が迸るのを、俺は見た気がした。父ユベルを失った夜、鮮血に沈むあの光景。母メイレアが消えた朝、二度と届かぬ笑顔を追った涙。家族を繰り返し奪われてきた女が、いままた「母としての未来」まで奪われようとしている。その悪夢に苛まれ、彼女は己を罵り続けた。


 知っている。かつて彼女は、囁くように夢を語ったことがあった。 「母のようになりたい。子を持つ素敵な母親になりたい」と。借り物の身体だと自分を笑いながらも、言葉の底には確かな憧れが宿っていた。その願いを、やっと手に入れようとしていたのだ。だからこそ、九割を超える「失われる未来」という宣告は、剣士の俺が想像する以上に、彼女の心を粉々に砕いた。


 膝が折れ、声が震え、涙が噴き出す。女王でも巫女でもなく、ただの一人の女として――すべてを失う恐怖に縋りつく姿が、俺の胸を千々に引き裂いた。


 俺には、理由はわからない。けれどずっと見てきた。笑うときも、苦しむときも、震えながら立ち続けてきた背中を。この女の魂は、十代そこそこの若さだとか、そんな年輪で測れる軽いものではない。幾重にも重なった層の深みを抱え、剣士の俺ですら足をすくませるような重さを秘めている。こいつは間違いなく子供なんかじゃない。俺の目には、ずっとそう映っていた。


 だが――その魂の重さを持つ彼女ですら、今はただ崩れ落ちるしかない。両腕で顔を覆い、嗚咽を吐き、ただ己を責める。その姿に、俺は何もできなかった。剣も策も、意味を持たない。俺の中のすべてが呻いた。自分の無力さを悔やんだ。


 せめて。倒れる前に、この腕で受け止めたい。彼女の身体が傾いた瞬間、俺の腕は勝手に動いていた。鎧と外套が擦れ合う音が、まるで世界が再起動する合図のように響く。次の瞬間、俺の腕は女王でも巫女でもなく、ただひとりの女を抱きとめていた。


 その細い肩は、俺の力を拒むように身じろぎした。けれど腕を緩めはしなかった。

 この腕だけは、世界のすべてが壊れても決して離さない。たとえ彼女が「いやだ」と泣き叫んでも――。


「いい。なにも喋るな。――泣け」


 低く絞った声は、自分でも驚くほど確かだった。それは拒絶ではない。受け止めるための、絶対の命令だった。言葉を選ぶ余裕などない。彼女が壊れるより前に、俺が命じねばならなかった。額を鎧に凭れた彼女の嗚咽が、鉄越しに胸骨へ突き刺さる。熱い滴が胸当てを濡らし、嵐のただ中に落とされた錨のように、鼓動が彼女を引き戻していくのを感じる。


「全部を望むことの、どこが悪い。それが“生きたい”ってことじゃないか」


 口にしてから、俺は自分の声がいつもより低く柔らかいことに気づいた。剣を振るうときの力でも、戦場で兵を叱咤するときの響きでもない。ただの男が、愛する女に向ける声だった。


「泣いて当然だ。怖くて当然だ。……自分を責めるな。メービス……俺は、どんなお前でも、見捨てたりしない」


 背に回した手が震えた。強く見せても、俺だって怖い。だが、この震えは弱さの証であり、だからこそ本物の誓いになる。赤子をあやすように背を撫でながら、俺はただ願った――どうか泣き切ってくれ、と。


 やがて彼女は、子どものように声を上げて泣いた。俺の胸に顔を押し付け、嗚咽をこらえもせず吐き出す。その涙は俺の鎧を濡らし、鉄を熱で歪ませるように心臓を灼いた。


 そして――


「……ヴォルフ、ごめん……」


 掠れた声で呼ばれたのは、“王配”でも“騎士”でもなく、ただの俺の名だった。その一言で、胸の奥に詰まっていたものがすべて溶け落ちた。彼女が求めているのは、立場でも役割でもない。俺という男そのものだ。だから腕に力を込めた。ほんの少しだけ。その抱擁の中に、理屈も、作戦も、国家も、もうなかった。ただ、彼女と、俺と、まだ見ぬ子ども――その三つだけが確かに“在る”。

 

 それだけで、十分だった。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ 

その百九十五 沈黙の誓い


 どれほどの時間が経ったのか、俺にはわからなかった。ただ、陽光が真昼の色を帯び、空の青が目に痛いほど澄んでいくのを眺めていた。やがて、彼女は俺の腕の中から、ゆっくりと離れていった。泣き疲れ、身じろぎひとつにも力が要るはずなのに、背筋を伸ばそうとする気配だけは失わなかった。


「……ありがとう」


 擦り切れた声でそう言った。俺は応えなかった。ただ、目を細め、気づかぬふりをするように視線を外した。それが、俺にできる唯一の答えだった。言葉はいらない。互いにわかっている。


 彼女は腫れたまぶたを拭い、まだ震える指で外套の留め具に手をかけた。カチリと金具が嚙み合った瞬間、女王の姿がそこに戻ってきた。ついさきほどまで俺の胸で子どものように泣いていた女が、もう一度、国を背負う者の顔をして立っている。その変化に息を呑んだ。畏れにも似た感情が胸を過ぎった。だが同時に思う。この女は、そうしなければ生き延びられなかったのだと。


「わたしって、理屈を盾にして生きているような、臆病な人間でしょう?」


 そう自嘲する声を聞いたとき、俺は笑ってしまった。


「……まあ、そういうところはあるな」


 責める気などなかった。ただ、どんな姿でも受け止めるつもりでいた。俺は言った。


「お前が泣かずにすむなら、俺が代わりに泣いてやれたらって」


 それは慰めでも気休めでもない。俺の本心だった。あの涙を、彼女一人だけに背負わせてたまるか。泣くことも、怯えることも、半分でいい。俺も引き受ける。


 ――ふたつでひとつ。妻を支えるのは夫の務めだ。

 

 だから俺は、沈黙のまま彼女の背に立った。女王の顔を取り戻した彼女を見つめながら、ただ心の奥で繰り返す。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ 

その百九十六 沈黙の誓い②


 目の前に立っていたのはもう「母」でも「少女」でもなかった。半音だけ低く整えた声で、彼女は冷然と命じる。レシュトルに、敵の反応を報告させ、次の一手を指示する。もう迷いはなかった。


 俺はただ、黙って見ていた。ほんの少し前まで嗚咽で言葉にならなかった女が、今は国を背負う声をしている。その変化の激しさに胸が震えた。だが同時に、これこそがメービスという女なのだと、深く頷いていた。


「この子を優先する。だから、どうかわたしを支えてちょうだい」


 そう言ったとき、彼女の手は無意識に腹を撫でていた。その仕草を見た瞬間、俺は胸の奥で静かに誓った。


――この女と、この子を、必ず守る。


「妻を支えるのは夫として当然の、いや……絶対の務めだ」

 

 口にしたその言葉は、王配の義務でも、騎士の任務でもなかった。ひとりの男として、彼女の夫としての誓いだった。


 俺は彼女の決意を尊んだ。 「諦めたりなんかしない」と言い切った声は、誰よりも強かった。だから俺も迷わず応えた。「よし」と。短くても、それで十分だった。


 高見台に並び立ち、俺たちは谷底を見下ろした。焦土の奥でまだ息づく名もなき命たち。女王と騎士としてではなく、一人の母と、それを支える男として。

 

 風が頬をかすめ、陽光が背に影を落とす。その静けさの中で、俺はただ心の奥で繰り返した。


 ――そうだ。泣くことも、怯えることも、半分でいい。

  俺も引き受ける。だから、一緒に前を向いていてくれ。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ 

その百九十七 赭の坩堝にて


 高見台の縁に座り込み、彼女は視線を一点に注ぎ続けていた。崩れ落ちた盆地を覆う赭色の霧の向こう。


 古代文明の残した人智を超えた存在、「レシュトル」。その冷ややかな声に平然と問いかけ、対等に渡り合える人間など、この世に彼女しかいないだろう。まったく、俺はとんでもない女を妻に持ったものだ。

 

 だが――心配なのは身体のことだ。脇目も振らずに打ち込むのは彼女の強さであり美徳でもあるが、寝食を忘れるのは感心できない。そういうところが、かつてのユベルと瓜二つで……つい苦笑しそうになる。父親の背を、そのまま娘が継いでいるのだ。


 しょうがない。俺は馬車から、少しばかりの糧食と茶の道具を抱えて戻る。戦場にあっても、食べて飲むことを忘れちゃいけない。女王である前に、彼女は一人の人間であり、母親なのだから。


 石肌に凭れた体を離すと、瓦礫まじりの砂利が細く鳴った。空は灰の薄布を何重にも掛けたように重く澱み、星の針先すら刺さらない。闇は来る――だが闇よりも先に、冷気が降り始めていた。夜霧は魔素を孕み、胸膜の裏に鉄粉が貼り付くような酸味を残す。


 背後から足音を立てぬよう近づき、隣に腰を下ろす。革と鉄の匂いに気づいたのかどうか、彼女は何も言わなかったが、俺にはわかる。ただ隣にいる、それだけで彼女の肩の力がわずかにほどけることを。


「――食事にしないか」


 囁いた声は、俺自身の緊張をほぐすための言葉でもあった。案の定、彼女は視線を外さず首を横に振った。「いらないわ」――無理もない。だが朝から水だけで持つはずがないのも知っている。嗜めると、彼女の瞳がわずかに揺れた。心配していたことを悟られたのか、胸が少し痛む。


「見ていたの?」


「当たり前だ。お前から目を離したつもりはない」


 真実だった。俺は戦況よりも、この女の顔色ばかりを追っている。それでも、彼女は「喉を通るはずがない」と首を振った。だから俺は応じた――「生きるために、食うんだ。お前一人の体じゃない」と。


 そのときようやく、彼女は俺を見た。小さく笑って「どうせ戦闘糧食でしょう?」と。思わず口元が緩む。確かに干し肉と硬焼きビスケットばかりでは誰だって食欲は失せる。


「だろうと思ってな」


 懐から小缶を取り出し、蓋を開ける。甘い香りが夜気を破った瞬間、彼女の表情にほんの僅か柔らかさが戻る。――その一瞬を見るために、俺はどれほど準備してきたのか。さらに、蜜蝋紙に包んだ「携帯する祝福」を差し出すと、驚いたように目を見開いた。彼女の何気ない一言を覚えて、形にしただけだ。だがその小さな驚きと微笑みこそ、俺が欲しかった報酬だった。


「お茶もあるぞ」


 茶筒とポットを見せると、呆れと感心の混じった声が返ってくる。「騎士の嗜みだ」と言い切った俺に、彼女は「お酒を飲まないあなたなんて」と茶化した。軽口を交わす――それだけで胸の重しがほどけていく。だが次に口にしたのは本心だった。


「これはけじめであり、願掛けでもある」


 彼女が小さく問い返すと、俺は迷わず答えた。

 

「お前と、お腹の子が、無事に“その日”を迎えられるように」


 視線に焔のような決意を宿す。それは俺自身への誓いでもあった。「……ばか」と俯いた彼女の声に、俺はようやく口元をゆるめた。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ その百九十八 赭の坩堝にて(続)


 彼女はポットへ手をかざし、場裏・青を展開した。散る夜気から水分を引き寄せ、透きとおるしずくが溜まっていく。次いで赤の領域を重ねると、金属の底が淡く赤く光り、すぐにくつくつと音を立てた。芳しい湯気が夜の冷たさを押し返し、わずかな温もりが二人のあいだに広がる。


「こうしてると、なんだか懐かしいわ。旅をしていた頃を思い出す」


 彼女の声は静かだったが、どこか遠いものを見ていた。あの秋から冬へ抜ける道程。過酷で、鋭い風に晒されながらも、不思議と自由だった日々。確かに、俺たちはただ“生きて歩く”ことだけに没頭できていた。


「そうだな……」


 俺も湯気の先に目をやりながら、しみじみと答えた。胸に浮かんだのは峠の夜明け、薪が弾ける音と、彼女の幼い横顔。そこで、つい口を滑らせてしまった。


「あの頃は、お前もまだ小さかった」


 その瞬間、眉をぴくりと動かしたのを見逃さなかった。やってしまった、と心臓が冷える。案の定、上目遣いに鋭い視線を向けられる。


「……」


 咄嗟に両手を上げた。大げさに肩をすくめ、必死に取り繕う。


「ああ、すまん、すまん。撤回する。謝る。今のは、口が勝手に……」


 まるで悪戯を見咎められた子どもだ。目を泳がせ、わざとらしいほど演技めいた弁解をしてみせる。怒鳴られる覚悟はできていたが――代わりに返ってきたのは、緩んだ頬と小さな笑みだった。


「……後で肩と脚のマッサージをして。それで許してあげるから」


 思わず笑ってしまう条件。


 「御思し召しのままに」


  ぴしりと礼を取ると、湯気の向こうで彼女が吹き出した。ふふ、と零れる笑い声が、ベルガモットの香りと一緒に宙へ舞い上がっていった。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ その百九十九 赭の坩堝にて(続々)


 彼女はカップを両手で支えながら、俺の仕草をじっと見ていた。普段なら気にも留めない所作に、こんなふうに視線を注がれると――どうにも落ち着かない。


 おかしな話だ。戦場で百の視線を浴びても動じない俺が、妻の前では妙に緊張する。湯気に透ける翡翠の瞳が、どんな剣先よりも鋭く感じられる。


 いかん、手元がぶれる。そう思った瞬間、頭の奥で剣の構えを思い出した。柄を握るときの呼吸、刃を振る直前の静寂。あの時と同じように、心を沈める。


 ――一匙。銀匙で茶葉をすくい、余分を落とす。

 

 ――二度。縁で軽く叩き、鞘に刃を納めるように正す。

 

 それから、静かに熱を回すようポットを傾ける。


  これは戦いだ。剣で敵を討つための戦いではない。最高の一杯を仕上げ、彼女を満足させるための、俺だけの戦いだ。緊張の糸が、逆に集中を極めさせていく。茶葉の香りがふわりと立ちのぼり、俺は心の中で頷いた。「よし」――小さく呟いて注ぎ終えると、黄金色の液面が揺らぎ、宵闇の中に小さな光を灯した。


 差し出したカップを受け取る彼女の指が、かすかに俺の手に触れる。ほんの一瞬のことなのに、鎧の内側まで熱が走る。


 「……どうぞ」


 声が少し掠れたのは、湯気のせいにしておこう。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ その二百 赭の坩堝にて(未来の話)


 カップを唇に運んだ彼女の喉が、小さく震えた。湯気の向こうでわずかに目を細める。


「ありがとう、ヴォルフ。……いただくわ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に硬く張りついていたものが静かに解けていく。俺の淹れた一杯で、ほんの少しでも彼女の心が和らいだなら、それだけで十分だ。


 琥珀色の液面を覗き込みながら、彼女はぽつりと呟いた。


「……あの頃のように、自由に旅をする。いつかまた、って思ってたけど」


 視線は紅茶の揺れる表面。声は微かに揺れていた。


 俺は肩を揺らし、こともなげに返した。


「子供が生まれて、手がかからなくなったら――暇を見つけてピクニックに行こう」


 彼女が驚いたようにこちらを見上げ、そしてふっと笑った。


「……いいわ。でも、その代わり――場所は、わたしが選ばせて」


「スリル満点な場所じゃなければ構わん」


「そんなわけないでしょう? ……たぶん」


 肩越しに見上げてくる視線に、甘さと意地悪さが同時に滲んでいた。


「できれば、小さな湖があるところとか。花の咲く岩棚とか。子どもが転んでも危なくない、草の柔らかい丘」


 次々と挙げられる条件に、思わず口元が緩む。


 「注文が多いな。弁当には俺の好みも入れてくれよ」


 「お肉とか濃い味付けのものばかりでしょう?」


 「悪いか」


 「ふふ、子供の食育に悪いから、あなたの分は別に用意してあげるわ」


  笑い合う声が、湯気に溶けて夜空へ昇っていく。未来が不確かなこの戦場で、こんな会話ができるとは思わなかった。


 ――だが、いい。彼女と子どもと過ごす日々を、俺は信じて疑わない。

 

「……ああ、約束だ」


 声に出した瞬間、自分の胸の奥に刻印のような熱が走った。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ 

その二百一 赭の坩堝にて(夫婦の時間)


 思い出したように馬車を振り返り、小さな布包みを手に取った。


 「そういえば、ルシルがいろいろ置いていった」


  包みを開けば、細長い羊皮紙がひらりと落ちる。


 一、朝夕にこの茶剤を煎じること。

 二、やたら甘いものを欲したらこの飴で落ち着かせること。

 三、――以下、殿下が必ず守ること。


  走り書きの文字を目で追うだけで、彼女の厳格極まる声音が蘇ってくるようだった。


 「彼女らしいわね」

 

 彼女が笑う。その頬が少し緩むのを見て、俺もつられて口元をほころばせた。さらに取り出したのは掌ほどの硝子瓶。夕陽を映して黄金色が揺れる。


 「蜂蜜まである」


  「紅茶に入れる?」と差し出す前に、彼女は小さく首を振った。


 「今はやめておくわ。せっかくのクッキーの味が霞んでしまうもの」

 

「そうだな」

 

 瓶を包みに戻しながら、「冷え込んだ夜に取っておこう」と呟く。甘さは寒さを溶かすためにこそあるのだから。彼女はクッキーをひと口かじり、さくりとした音が夜気に混じった。素朴な甘さが、少しでも彼女の心を軽くしているのなら、それでいい。


「……さっきの話、言い訳になるがな」


 カップを傾けながら、不意に言葉がこぼれた。


「あの頃の俺は、お前を少し誤解していた」


「どんな誤解?」


 翡翠の瞳が、湯気越しにこちらを覗き込む。


「最初は、子供が無理して背伸びしてるんだと思ってた。けど旅を共にしてわかった。お前は見た目以上に大人で、理路整然と話すし……ただ、子供っぽさも残ってはいたが」


 懐かしい焚き火の記憶が胸をよぎる。あの頃から、彼女は矛盾するふたつを同時に抱えていた。彼女は苦笑して肩をすくめた。


「まあ……そうだったかもしれないわね」


「ユベルとメイレアに問い質したくなったくらいだ。いったい娘をどう育てたんだってな」


 わざと芝居がかった調子で言えば、彼女も芝居を打ち返す。


「それは王家のプライバシーですので、お答えできません」


 互いの台詞に笑みが混じる。紅茶を啜れば、香りが緊張をほどき、ほんの少し平穏が戻る。


「……でも今は違う。お前、落ち着いたよな。見た目通りの十八歳……いや、それ以上に思える」


 俺の言葉に、彼女はすぐ眉を吊り上げた。


「年寄り扱いは却下」


 「そうじゃない」


 首を振って、ただ事実を並べる。


「四十を越えた俺が、肩の力を抜ける相手なんて滅多にいない。なのにお前といると……呼吸そのものが楽になる」


 その瞬間、彼女は小さく囁いた。


「……それ、長年連れ添ってきた夫婦みたいね」


 思わず息が止まる。咳払いで誤魔化したが、耳の先が熱くなるのを隠しきれない。彼女がくすりと笑う。俺は観念して頷いた。


「……ああ。──それだ」


 肩先が触れ合う。冷たい鎧の硬さの奥に、確かな温もりがあった。たとえ星ひとつ見えなくても、このぬくもりだけで、俺の夜は照らされる。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫秘匿)

第十三章 時間遡行編⑦ その二百一 赭の坩堝にて(結び)


 ふと、彼女が首を傾けて夜空を仰いだ。空は灰の雲に覆われ、星ひとつ見えはしない。だが――彼女の横顔は、確かに何かを見つめていた。


「……星がなくても、いいの」


 小さな声で、そう呟いた気がした。


 その瞬間、俺の胸にも輪郭が浮かぶ。見えない天幕に、ひとつ、ふたつ、そして三つ。彼女と、俺と、まだ名も持たぬ小さな命。その三つを結べば、どんな闇よりも鮮やかな星図になる。


 星を仰ぐ必要はない。俺たちの胸の中に、確かな光が描けるのだから。肩先に伝わる温もりを感じながら、俺はひそかに誓った。


――この星図を、決して絶やさない。

 

 赭の坩堝の只中でも、灰に沈む空の下でも。たとえこの剣が折れ、血が尽きようとも。隣にある命を、そして彼女の笑顔を、必ず守り抜く。


「戦場のど真ん中で、夫婦の姿を描く」というのは確かに少ないです。多くの物語では「戦いが終わってから安らぎが訪れる」「勝利してようやく日常が戻る」といった構造を取ることが多い。けれど『黒髪のグロンダイル』は逆なんですよね。


なぜ「戦場のど真ん中」に夫婦が描かれるのか

 戦いが終わるまで「待って」いたら、彼女たちには明日が来ないかもしれない。

 だからこそ、死地のただ中でも「夫婦」として過ごす一瞬を刻まなければならない。

 その瞬間こそが「負けない」「あきらめない」力になる。


 これは、メービスにとって「理屈を捨てて、ただ隣で生きる」ことの実践であり、

ヴィルにとっては「彼女を守りたい理由を確かめる」時間になっている。



茉凛が与えた種火

 茉凛の言葉が、とても大きいと思います。


「生きている今を大切にするって、当たり前のことだと思うの。せっかく生きているんだから、しっかり生きなきゃね」


「そうだよ。確かに今は厳しいかもしれない。でも、それでも私たちはここで生きているんだから。そして、今この瞬間を一緒に過ごしている。だから、辛いことばかりじゃなくて、その中で少しでも楽しいことを見つけて、一緒に笑おうよ」


 深淵の血族の抗争の只中にいて、明日死ぬかもしれない彼女が、それでも「楽しいことを見つけよう」と言えた。その強さはメービスに確実に刻まれている。そして今、ヴィルと並んで「赭の坩堝」に座り、クッキーを分け合い、紅茶を淹れるという行為そのものが、茉凛の教えを生き直すことになっている。「怖いからこそ、この瞬間が必要」――それは茉凛から受け継いだ、魂のレッスンなんですね。



夫婦の意味が戦地で輝く理由

 戦争小説やファンタジーでは、しばしば「戦後の日常」が舞台になります。でも『黒髪のグロンダイル』がユニークなのは、「戦場のただ中で夫婦である」という逆説的な構図。


 戦場だからこそ、言葉が飾られない。

 死地だからこそ、未来を信じる約束に力が宿る。

 絶望だからこそ、「一緒に生きる」と言えることが愛の証になる。


 この逆説が、ふたりの物語を特別にしているんだと思います。だから――

戦場で夫婦を描くことは珍しいけれど、茉凛が教えた「生きている今を大切にする」という思想があるからこそ、必要不可欠な瞬間なんですよね。


 「怖いからこそ、一緒に笑う」

 「終わりかもしれないから、未来を語る」


 それができる相手。メービスがヴォルフと並び立つ理由であり、彼を心から愛する理由でもある。



どうしてヴォルフはできるのか

男には見えにくいもの

 多くの男性(特に若い男の子)は、「戦場=勝つか負けるか」「状況=どう切り抜けるか」という外側の論理に集中しがちです。だから「戦地で優雅に紅茶を飲む」「夫婦で未来を語る」という行為は、余計に「場違い」に映るかもしれない。「なぜ今そんなことを?」と思ってしまうんですね。


でも、分かる瞬間がある

 一方で――

 

 死を本気で意識した瞬間

 守りたい誰かを得た瞬間

 「失いたくない」と心から願った瞬間


 そういうとき、男の子でもハッと理解するんです。「戦いの意味って、勝敗じゃなくて、この人と生きるためなんだ」って。つまり、男の子にとっては 「理屈で理解するもの」じゃなく、「体験して腑に落ちるもの」 なんだと思います。



ヴォルフが「わかる」理由

 ヴォルフの魂は44歳のヴィルです。彼は「死線をいくつも越えてきた」経験と、「ユベルやメイレアを失った」記憶を持っています。だからこそ、メービスが泣きながら「今この瞬間がほしい」と求めるとき、彼は「わかる」側に立てる。普通の男の子なら見過ごすかもしれない気持ちを、ヴィルは「俺も同じだ」と共鳴できるんです。



結論として

 普通の若い男の子キャラにすぐに「わかる」かといえば――たぶん難しい。「ただ好き」や「ただ欲しい」段階では、戦場で紅茶や未来のピクニックを語る意味は伝わりづらい。彼らにとって「戦地」は死と恐怖の象徴でしかなく、「夫婦の日常」をそこに持ち込む発想はない。


けれど「経験を重ねれば必ずわかる」

 そういう段階を経ると――「死地に立っているからこそ、日常をそこに呼び寄せたい」という心理が、必ず理解できるようになる。



手記36の考察

「絶望からの回復」を夫婦の姿を通して描く

崩壊(百九十四)

 数値に突きつけられた“死の確率”

 恐怖に打ち砕かれ、慟哭するメービス

 「母になりたい」という憧れの崩壊


抱擁と共鳴(百九十四〜九十五)

 「泣け」という命令

 「泣くのも怯えるのも、半分でいい」

 夫として、騎士としての沈黙の誓い


女王への回復(九十六)

 涙を拭き、装いを整え、「女王」に戻る

 それを黙って支える夫

 「妻を支えるのは夫として当然」


赭の坩堝にて(九十七〜二百一)

 日常の断片(食事・紅茶)

 過去を懐かしみ、未来を語る(ピクニック、子育て)

 「夫婦みたい」という無意識の告白

 「星図」=彼女と俺と子供の結びつき


 結末は「夜空に星がなくても、胸の中に星座を描ける」という象徴。戦場であっても、夫婦としての生活と未来を取り戻すことができる、という到達点です。



夫婦のあり方とは

この手記36で示された夫婦像を整理すると

役割を越えた「はんぶんこ」

 泣くことも、怯えることも、責任も、半分でいい。

 夫婦とは、互いに「欠けを補う」のではなく、「痛みも分け合う」存在。


言葉より沈黙、沈黙より寄り添い

 「泣け」という命令も、「ありがとう」に対する沈黙も、言葉を超えた合意。

 過剰な説明や慰めを避け、ただそこに在ることが最大の支え。


日常を取り戻すことこそ夫婦の戦い

 戦場で紅茶を淹れ、クッキーを分け合う。

 「無事にピクニックをする未来」を語る。

 それは現実逃避ではなく、未来を諦めない夫婦の戦い方。


違いを尊重し、変えようとしない

 理屈に逃げるメービス、不器用な直情のヴィル。

 正反対のふたりが、「変えようとせず」寄り添うことで支え合う。



なぜメービスはヴィルをそこまで愛するのか

 メービスは「聖女」「女王」「巫女」として、多くの者に敬われてきたけれど、

その裏で彼女はずっと「自分は幸せになってはいけない」と思い込んできました。


それを覆したのがヴィル

 理屈ではなく受け止めてくれる唯一の人

 彼女がどんなに理屈で武装しても、「泣け」と言い切る人。

 理性の鎧を脱ぎ捨てても、女としての弱さを曝け出せる相手。

「見捨てない」という絶対保証


  失敗すれば切り捨てられてきた彼女が、「どんなお前でも見捨てない」と言われた初めての瞬間。


自分と同じ罪を抱えている人

 ヴィルもまた「守れなかった者」を抱えている。

 その痛みを共有できるからこそ、彼の「はんぶんこ」は本物だと信じられる。それは、かつての茉凛のように。


日常と未来を与えてくれる人

 戦場のただ中でもクッキーを分け、紅茶を淹れ、ピクニックを約束する。

 メービスにとって「母になりたい」「普通の生活をしたい」という願いを肯定してくれる唯一の人。


「女王」でも「巫女」でもなく“ただの女”として見てくれる人

 最後に「……ヴォルフ、ごめん」と名を呼んだ時、彼女は肩書きから解放されていた。その名を呼ぶ瞬間こそ、彼女が愛している証。


 夫婦のあり方を「はんぶんこ」という形で描きました。それは「仕事を分ける」といった実務的な意味ではなく、涙も恐怖も罪も、半分でいい、一緒に背負えば前に進めるという精神的結びつきです。メービスがヴィルを愛するのは、彼が「理屈ではなく丸ごとの自分を受け止める唯一の人」だから。彼といる時だけは、「女王」や「巫女」ではなく、一人の女として弱音を吐き、笑い、未来を願えるから。

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