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ヴィル・ブルフォード手記⑱

ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十一章 時間遡行編⑤

その百「北門を越えよ、声と剣と共に」


 夜明け前の北門は、張り詰めた静けさが骨まで染みる。吐いた息が凍る音まで聞こえそうだ。鉄の匂い、松明の揺らぎ――全部、戦場前の空気と同じだが、今日はもう一つだけ、俺の感覚を占めているものがある。


 御駕籠の奥、メービスの呼吸だ。障子の向こうで、わずかに間延びした息を一つ。薬湯を飲み干した直後の、その整えられた呼吸を聞き取った瞬間、「持ち直している」と判断する。戦況報告を受けるときと同じ集中度で。


 マルソーが編成を告げる間、俺は部隊の配置図を頭に描きながら、御駕籠の窓枠の影を一度だけ確認する。そこに揺らぎがないことを確かめるのは、戦場で味方旗の所在を確認するのと同じ手順だ。 「判断に迷えばすぐ連絡を」と告げたとき、あいつは視線を外さずに頷いた。その瞬間、北門の軋む音が始まる。門の外に広がる白銀の地形と、あいつを安全に運べる経路を、同時に計算する。


 先行斥候に出ながら、御駕籠の動線を後方視野で追う。雪の締まり具合をシモンに、風向をオデットに、それぞれ符丁で伝える一方で、御駕籠の車体が雪溝に取られそうな角度を見つければ、何気なく列全体の進路を修正する。戦術判断と彼女の安全確保は、俺にとって同じ一呼吸の動作だ。


 廃茶屋での粥の時間。先に鍋の湯気を嗅ぎ、香草の匂いに混じる鉄分の薄さで鹿肉の鮮度を推測しながら、あいつが降り立つのを視線で迎える。白い頬、襟巻きの奥で小さく動く顎――まだ体温は低いが、翠の瞳に芯が戻っている。レオンと交わすやり取りの間に、椀を持つ指の力の入り具合まで確認する。手が震えていないなら、もう一刻は保つ。


 峠の崩落。エステルの報告を聞きながら、御駕籠の中の気配が変わる。障子の向こうでわずかに吸気が鋭くなる――決断の前触れだと知っている。案の定、赤と黄の複合で杭を固定すると言った。俺は危険度を即座に計算し、同時にルシルの位置を僅かに近づけさせる。万一の時に、間合い一歩で手当てできるように。


 雪崩の轟きが稜線を叩くとき、右翼固めの号令と、御駕籠の車輪を雪壁の直撃軌道から外す指示を、同じ瞬間に出す。白屏障が展開され、風圧が列を揺らすのを膝で押さえ込みながら、御駕籠の重量変化――中で彼女が体勢を変えたかどうか――を感じ取る。障壁が砕けると同時に前へ出て、敵哨を鞘打ちで制圧。殺さずに済むなら、それがいい。あいつの前で、血飛沫はできるだけ減らしたい。


 稜線に立ったとき、視界の半分は雪の向こうの男爵領、もう半分は御駕籠の小窓。指輪を持つ指がほんの僅かに強張っている。そこから先は剣より言葉が要ると悟る。「隣に俺がいることだけは忘れるな」と告げたのは、戦術ではなく約束だ。返ってきた声は、突撃合図と同じ速度で脳に刻まれた。耳がそれを放さず、胸の奥で長く反響する。


 再編の指示を飛ばす間も、御駕籠の影を視界の端から外さない。戦場の地図の余白に、あいつの位置は常に記してある。雪を踏む部隊の息が白く散る。その白の中に混ざる、小さくも凛とした声――「皆を心の底から信じているわ」。それは剣にも盾にもなる音だった。俺はそれを背に戦場へ進む。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十一章 時間遡行編⑤

その百一「涙が祈りになる刻」


 霧隠の森。あれは獣の口だ。湿った霧は喉の奥でぬめり、枝は牙のように氷を孕んで垂れ下がる。足を踏み入れた瞬間、耳は音を探し、目は二十歩先の揺らぎを測る。俺の感覚の片方は森の罠を拾い、もう片方は御駕籠の方角に張りついている。あの車体の重心が傾けば、どの罠よりも先に察知する。


 ジャンが鹿筋の罠弦を切る音は、戦況の符丁と同じだ。あれで敵の技量が分かる。アルバートの熟練猟師団の手口――この森は偶然じゃなく選ばれている。進路を北東に弓なりに変えるとき、俺は前だけでなく、列の中央の御駕籠の揺れを後方視野で確認した。霧で見えなくても、馬の歩調と雪の沈み方で分かる。


 音鈴が鳴った瞬間、剣を抜くより先に位置を判断。オデットが矢を弾き、シモンとブルーノが二息で三人沈める。俺は笛を吹いた奴を拘束し、必要な情報を絞り取る。同時にジャンへ顎で銀翼本隊に向けた狼煙を指示――敵情把握と合図の発信は、同じ呼吸の中で完了した。


 銀灰の狼煙が森を突き抜けたのを見た刹那、視界の端に御駕籠の中の横顔が映った。ルシルに支えられたメービス――死人のような蒼白、頬を伝う一筋の凍った涙。それが矢や刃よりも鋭く俺の胸を刺した。


 経緯は見るまでもなく分かった。雪面に広がる赤、倒れた護衛私兵たちの姿勢、掴みかけの武器、切り裂かれた外套。奇襲を受けたのは一瞬だったはずだ。俺が前方の道を切り開きに出た、その虚を突かれた。彼女が飛び出し、無理を承知で精霊魔術を張ったのは間違いない。目の前の血と倒れた味方が、父ユベルを失った光景を呼び戻したのだろう。


 剣柄を握る手に、無意識のうちに力が籠る。分厚い革が軋む音が耳の奥でやけに大きい。だが抜かない。ここで刀身を抜けば、怒りが理性を焼き尽くし、戦況判断より先に敵を斬りに行く。それは今、最もやってはいけないことだ。


 彼女は、誰よりも命の尊さを知っている。誰かが傷つくことを、失われることを、他の誰よりも心の底から怖れている。それが、“ミツル・グロンダイル”という、あまりにも優しく、そしてあまりにも脆い人間なのだ。だからこそ、これ以上その代償を払わせない。怒りを噛み殺し、一拍で指揮官の声に切り替える。「楔形布陣を維持」「殿はレオン」。隊列と彼女の位置を頭の地図に固定し、最短で森を抜ける線を描く。


 モンヴェール男爵領外縁が近づくころ、担架の上で彼女が微かに目を開けた。月明かりが翠の瞳を照らす。 「灯火はまだ消えていない」――その小声を、戦況報告のように正確に拾う。声の震えは寒さか疲弊か、息の長さと音の高さで見分ける。

 

「約束したもの……ぜったい助けに行くって。ロゼリーヌさんがね、“わたしを信じる”って言ってくれたの……だから、いかなきゃ……リュシアンの笑顔を、もういちど見たいから……」


 その願いを、命令のように胸に刻む。この森で奪われた半日を取り返すには、俺の剣と判断しかない。御駕籠の影を視界の端から外さぬまま、シュトルムの首筋を軽く叩く。最前列で道を拓く――それが俺の戦術であり、彼女を守る最短の方法だ。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十一章 時間遡行編⑤

その百二「雪灯ゆきあかりのメービス」①


 霧隠の森を抜けた時、空はすでに藍の底に沈みかけていた。雪明かりにぼんやり浮かぶ焚火と、天を突く銀灰の狼煙が、本隊の防衛線の存在を告げていた。六十騎――切り立った雪崖を背に、森を正面に据えた半円陣。雪を固めた胸壁の間から槍と弩が覗き、風の合間に獣脂の匂いが漂ってくる。陣内は動いているが、どの顔も疲れが抜けていない。


 この部隊を保たせたのは、実戦経験に長けたバロックの功だ。だが、何度も奇襲を受けたと見える。焚火の周りで武具も脱がず手をかざす者、火の赤に照らされる頬には疲弊の影が濃い。多くは魔族大戦の生き残りで、本来のメービスとヴォルフに命を拾われた顔ぶれだ。


「ヴォルフ殿下がお着きになられたぞ!」


 声が上がり、雪に座り込んでいた兵たちが立ち上がり、敬礼を送ってくる。そこにあったのは安堵と、すぐにそれを呑み込む新たな緊張だった。


 焚火の向こうから駆けてきたのはバロック。目の下に隈を刻み、頬は痩せている。


「殿下御自らとは……恐縮至極に存じます」


 儀礼は要らん、と短く返し、維持の労を労うと、あいつは胸を張った。六十騎で百二十の働きを見せると。――信頼していい声音だった。


 だが、その目がすぐ俺の背後にある御駕籠を見た。


「女王陛下は……」


 顎で示すと、バロックは息を呑む。最悪の想定が走ったのだろう。幕舎へ歩きながら、王都脱出からここまでの道のりを報告する。強行軍、ボコタ、宰相軍との激戦、峠の崩落、アルバート軍斥候との遭遇、森での遊撃戦――。言葉にすればするほど、兵たちの表情が固まっていく。バロックは黙って聞き、時折拳を握った。


「女王陛下は……我々を守るため力を使い過ぎた。今は限界だ」


 そう告げた時のあいつの顔は、戦場で敵を見た時よりも痛ましかった。そこへ、雪煙を巻き上げて伝令が飛び込んできた。凍傷で紫に変色した唇、息は荒く、声は途切れがちだ。それでも告げた――男爵邸北遠方に二千、北東丘陵に一千。雪崩のように迫る敵。ステファンの伝言、「炬火はすでに灯された」。


 幕舎が凍る。バロックが卓を打ち、全軍出撃を命じた。俺は頷きつつも、御駕籠を見やる。あいつをこれ以上戦場に出すわけにはいかない。


「女王陛下は今も生死の境だ」


 そう言う俺に、将校たちは「ここに残すのも危険だ」と異を唱える。敵は執拗だ。護衛も残っていない。意見は真っ二つに割れた。雪は強まり、時間は過ぎていく。重い沈黙の中――その足音が、外から近づいてきた。



ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十一章 時間遡行編⑤

その百三「雪灯のメービス」②


 幕舎の空気は鉛のように重く、誰もが言葉を失っていた。外では雪が唸り、幕の端を叩く音が、待つ時間をさらに長くする。

 その時だった。


 雪を踏みしめる柔らかな音――一歩ごとに、兵たちの背筋を撫でるような足音が近づく。衣擦れが混じり、耳が勝手にその方角を探す。御駕籠の扉がゆっくりと押し開かれ、白い息と共に冷えた空気が入り込む。純白のシルクを纏ったメービスが現れた。装飾はなくとも視線を奪う姿。肩先の髪に雪が数粒残り、灯りを受けて淡く光っている。背筋は伸び、翠の瞳は真っ直ぐに前を射抜いていたが、唇の色は薄く、吐く息は細い。


「――我がリーディス王家は、決して民を見捨てません」


 薄く震える声で、けれど凛とした響きがあった。彼女は一歩踏み出す。足元は危うく、ルシル軍医がそっと支える。


「吹き荒ぶ嵐が国を裂こうとも、わたくしは火を掲げ、闇を払いましょう――」


 そこまで女王としての威光を保っていた言葉が、ふいに掠れ、肩が細かく揺れた。一度、言葉を飲み込み、唇をきつく結ぶ。それでも涙をこらえ、顔を上げた。


「……でもね、わたし……こわいの。

 わたしのせいで、沢山の人を巻き込んで……傷つけて……命を失わせてしまった。これから先、もっと増えるかもしれない。

 それでも……」


 翠の瞳に涙がにじみ、声は少女の高さに戻っていた。その告白が、張り詰めた空気を微かに震わせる。


「リュシアンの笑顔が消えてしまうのは、もっと怖いの……。

 どうしても、約束を守りたいの……“また会おうね”って言ったでしょう?

 もう一度、あの子と笑い合わなきゃ、わたし、死んでも死にきれないわ」


 指先が小さく震え、胸元を握りしめる。その仕草に、痛切な想いが凝縮されていた。


「ロゼリーヌさんにも示したいの。

 王家は決して、人の純粋な願いを力で歪めたり踏みにじったりしないって。

 みんなの未来を照らす、あたたかい希望の光にならなきゃいけないんだって」


 俺を真っ直ぐに見上げる瞳。その奥には恐怖と、それでもなお消えぬ願い、そして俺への絶対的な信頼が宿っていた。


「……ねぇ、ヴォルフ――もう、わたしを独りにしないで……。

 どんなことがあっても、わたしの傍から、決して、決して離れないでほしい。

 そして……おねがい、一緒に……一緒に、戦って……!」


 言葉はか細く、時折嗚咽に途切れる。それでも、一つひとつの響きが命を燃やす蝋燭の炎のように熱く、美しかった。それは計算された命令ではなく、傷つき、それでも立とうとする少女の剥き出しの叫びだった。


 俺は言葉を失い、ただ目の前の存在を見つめた。やがて外套を脱ぎ、震える肩に掛ける。視線が絡み合い、俺はただ一度、力強く無言で頷いた。兵たちが一人、また一人と進み出て、凍える手で最敬礼を捧げる。涙を浮かべる者もいた。


「女王陛下のためならば……! この命、惜しくはない!」


 その一言が全員の想いを代弁していた。恐怖は消え、顔つきが変わる。頬に紅が差し、肩が上がる。重かった空気が揺らぎ、焚火の炎がぱっと明るくなるように見えた。その瞬間、吹雪は勢いを弱め、鉛色の霧が裂けていく。雲間から冷たい青が覗き、黄金の光が差し込み、純白のドレスを纏った彼女の姿を後光のように照らした。


 決して強くはない。か弱く、脆く、そして優しい。それでも彼女は立つ。民の想いと国の運命、そのすべてを背負い、絶望と悲しみを赦し、砕けても歩みを止めぬと誓うように。雪のように白い頬には乾いた涙の痕。翠の瞳の奥には、困難にも絶望にも屈しない炎が、静かに、しかし力強く燃えていた。

 この三本(100〜103)の手記は、ヴィル視点の密度が非常に高くて、三つの層が鮮明に見えます。


戦術判断と私情の同化(100)

 北門からの出撃全編を「戦況報告を聞く時の集中度」でメービスを見ているのが特徴的。戦術判断と彼女の安全確保が同じ一呼吸で行われるため、軍人の動作に恋人の保護欲が自然に溶け込んでいる。例えば、雪崩回避と御駕籠の軌道修正、護衛配置とルシルの間合い調整が「同時に」行われる場面は、彼の感覚における“戦場”が彼女を中心に描かれていることを示す。言葉少なめながら、御駕籠の影や窓枠を旗印と同じ感覚で追う描写が、軍人としての冷静さと個人的な執着を両立させている。


怒りの制御と代償回避(101)

 森での奇襲後、メービスの蒼白と凍った涙を見た瞬間の描写は、剣を抜きたくなる衝動とその抑制が核心。「革巻きの軋む音」に怒りの集中が移され、抜刀による感情暴走を回避する内面の戦闘が描かれている。怒りの理由は敵への憎悪よりも「これ以上代償を払わせたくない」という一点で、軍人の自制が彼女の幸福保護のために機能している。彼女の短い言葉や息の変化を“戦況報告”のように解析し、行動計画に落とし込むあたり、感情の揺らぎが即戦術化されている。


公と私の逆転(102〜103)

 本隊到着後のバロックとの会話は、表向きは作戦連絡だが、焦点は一貫して御駕籠=彼女の現状にある。そして演説シーン(103)は、ヴィル視点で見れば「軍の士気を上げる女王」としての場面より、「恐怖と自己否定を吐露する乙女」の方が核心。


 冒頭は公的言葉(王家の威光)だが、中盤以降に少女の声に戻ることで、士気高揚の理由が「守らずにいられない対象の存在」へと変化していく。ヴィルにとっては、この崩れ方こそが彼女の強さであり、兵士たちが立ち上がる最大の引き金になっている。外套を掛ける場面は言葉の外の誓約。視線を絡めた無言の頷きで「公的誓約」と「私的誓約」が同時に結ばれる。


総合的考察

 この3話分で、ヴィルの描写は「軍人としての全域管理」と「一人の女への個別対応」が完全に融合した状態になっています。特に100〜101で積み重ねた「視覚・聴覚・触覚で彼女を常時モニターする癖」が、103の演説で兵士全員に共有される形で爆発している。


 この流れを読むと、メービスの聖性は「弱さを隠さず立ち続ける姿」であり、ヴィルはそれを守るべき戦略資源としてではなく守らずにいられない生命体として捉えていることが鮮明です。戦術・感情・象徴性が三重に絡み合い、時間遡行編⑤の中でも最も「公と私の境界が溶けた状態」が可視化されたパートだと思います。

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