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ヴィル・ブルフォード手記⑫

――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十四


 目の前で、あまりにも危うい綱渡りが続いていた。立っているのもやっとのはずの少女が、狡猾きわまる貴族を相手に、たった一人で渡り合っている。その、細く頼りない背中を見ているだけで、腹の底では黒いものが渦を巻いた。


「宰相の思惑を阻止しようという動機が、まさか、たった一人の子供を守るという、極めて個人的な理由に根ざしたものだったとは……」


 伯爵の、感情を削いだ声が静寂を裂く。


 だから、どうした。――こいつはいつだってそうだ。国の未来だの王家の存続だのではない。命を懸ける理由は、目の前で涙を流すただ一人のため。それだけだ。


「あなたはつくづく王として失格でしょうな」


 思わず身体が動きかけ、辛うじて踏みとどまる。正論だ。為政者としては甘く、危うい。だが、その“甘さ”こそが、こいつの何より強い――


「わたしは女王である前に、一人の人間でありたいのです」


 フードの奥でそっと目を閉じる。

 この口から出たとき、その言葉は通り一遍の理想ではない。どれほどの覚悟の上に立っているか、俺だけは知っている。白銀の塔に幽閉されていたただの少女が、どれほどの知識と意志を、その小さな胸に秘めていたか。宰相も、この伯爵も、まだ何もわかっていない。


 伯爵は皮肉を含ませて、ミツルの手腕を“称賛”した。その一語一語が、やすりのように俺の神経を削る。こいつの優秀さを、お前が語るな。こいつの孤独を、わかったふうに口にするな。


「あなたの言う通り、わたしは『女王』というには稚拙で、愚かかもしれません。でも、目の前で助けを求める人がいるなら、その手を取ることを選ぶ。……この想いだけは、譲れません」


 震えて、それでも折れない声に、遠い日の記憶が蘇る。――ユベル。お前もいつだって、正論より、目の前の一人を選んだ。不器用なまでの優しさが、お前を……。


 やめろ。感傷に沈む時じゃない。


 頭を振る。ミツルはただ思いをぶつけていた。十歳の少年の未来を、民の暮らしを守りたいのだと。その無防備なまでにまっすぐな言葉に、伯爵の氷の仮面が、かすかに揺らいだのを見逃さない。


「民に寄り添う王か……あなたは実に不思議だ」


 わずかな希望が胸をかすめる。だが、次の一言がそれを粉砕した。


「私は陛下に対してというよりは、王家そのものに対し、“極めて個人的な理由を持って復讐を望んでいた”、ということです」


 ――復讐。


 黒く重い語が、地下室の空気を凍らせる。俺は聖剣の柄から手を離した。もう、俺の剣でどうにかできる相手ではない。ミツルが、その魂で向き合わねばならない相手だと悟ったからだ。


 俺にできるのは、ただ見届けることだけ。歯がゆさが喉を焼く。守ると誓った存在が、手の届かぬ場所で、たった一人で戦っている。その、気高い孤独に、胸が締め付けられるばかりだった。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十五


「……私の望む復讐は、十分に果たされていると言えます」


 自嘲を帯びた声が、凍てつく地下室に溶けていく。伯爵の眼差しには、底の見えない虚無が広がっていた。俺はミツルの背後で息を潜め、その言葉を黙って受けた。


 こいつは、愛と憎しみと、どうしようもない悔恨の果てに、ただ“すべてが壊れる”ことだけを望んでいる――その魂の在り方に、俺は嫌な既視感を覚える。そうだ。ユベルを喪ったあの日から、俺も長く似た闇に彷徨っていた。


「あなたは……それで本当に、満足できるのですか?」


 掠れた声。責めではない。ただの問いだ。その真っ直ぐさが、伯爵の胸にも、そして俺の胸にも突き刺さる。


「満足、ですか。さあ、どうでしょうね。……それでも、選択を誤った自分への“断罪”だけは成し遂げたいのですよ」


 断罪――甘美で、独りよがりで、そして痛ましい。守れなかった自分を罰するために、世界ごと巻き込む。その身勝手さを、俺は責めたい。だが、わかってしまう自分もいる。


「……では、あなたの“復讐”とやらで、この国が取り返しのつかないほど荒廃しても構わないと?」

「構いません。それこそ、私が望む姿でもある」


 毒のように暗い言葉。ダビドが息を呑み、マリアの瞳が見開かれる。俺はただ、ミツルの小さな背中を見た。こいつは、この救いようのない男のどこに、まだ救いを見ている?


「そう……ですか。でも、わたしは、あなたが本当にそんな結末を望んでいないと信じたい」


 ――馬鹿な。信じる、だと?


 心の中の冷えた声を無視して、ミツルは続ける。


「口ではそう仰いながら、領地では慈悲深い善政を敷いていると聞きました。……民はあなたを慕い、敬っている。違いますか?」


 その一言で、氷の仮面がわずかに軋む。見逃さない。

 そうだ。こいつには見えている。戦場しか知らぬ俺たちの目に映らない、人の心のいちばん柔らかな場所が。


「もし本当に復讐だけが目的なら、領地すら顧みず破滅へ導けばよかった。けれどあなたは、それをしなかった。……どうしてですか?」

「……そんなもの、ただの気まぐれですよ」

「それを……わたしはあなたの優しさだと思うんです」


 優しさ――俺には到底そうは思えない。けれど、ミツルは危うい蜘蛛の糸に手を伸ばす。底なしの闇に囚われた男を引き上げようとして。


「伯爵。あなたの望む“王家の破壊”がもたらすのは、絶望の果ての空虚だけだと思います。それを見届けるより、わたしと手を取り合ってみませんか?」


 あまりにもお人好しで、あまりにも無謀な申し出に、眩暈がする。だが、伯爵の瞳が確かに揺れた。硬い光が、微かに和らぐ。


「……どんなに笑われようとも構いません。王家や民を守り抜くのはもちろん、あなたのように深い闇を抱える人でさえ救えるのなら――それが、わたしの本望です」


 ――ああ、そうか。


 ようやく悟った。こいつはこの男を救うことで、自分自身をも救おうとしている。自分と同じ場所から立ち上がろうとする魂を、この男の中に見ている。救いを求めながら、なお誰かを救おうとする、その在り方を。


 父ユベルを目の前で喪った無力。母メイレアを理由も知らずに失った喪失。俺が触れているのは、その哀しみのほんの端に過ぎない。それでもわかる。こいつを突き動かしているのは、そんな浅い痛みではない。俺にも届かないほどの、底知れぬ闇だ。伯爵の復讐や過去の憎しみが、小さく見えるほどに。


 言っていることは、正気とは思えない。甘い。非現実的だ。だが――本能が告げる。こいつは違う。ただの夢じゃない。魂の重みが、違う。


 だからこそ、伯爵の氷の仮面は――砕けたのだろう。


「……いいでしょう、陛下。あなたの進む道に、今は乗ってみることにしましょう」


 その言葉を、信じられない思いで聞いた。黒髪の巫女――あまりにもか細く、あまりにも優しい魂が、復讐の闇に囚われた男の心を、確かに動かした。


 奇跡、か。……いや、違う。


 フードの奥で、そっと息を吐く。俺の知る奇跡は、いつだって血と炎の戦場にしかなかった。だが、こいつの起こすそれは違う。人の心のいちばん深い闇に、静かに灯るあたたかな光。絶望を知る者だけが差し出せる、小さな希望。誰よりも深く傷ついた者にしか、生み出せない光だ。


 聖剣の柄に手を置き、心の中で固く誓う。――ミツル。お前がその闇に光を灯すなら、俺はその光を、何があろうと護り抜く。先にどれほどの絶望が待とうとも、お前が灯した小さく、しかし尊い光を、決して消させはしない。




――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十六


「では、レズンブール伯。あなたとの“共闘”の第一歩として、まずはボコタの騒乱を収めるため、力をお貸しください」


 まっすぐで、そして無謀な申し出だった。立っているのもやっとのはずの少女が、腹の底の読めぬ狐のような男へ、正面から“共闘”を告げるなど。


 案の定、伯爵は鼻で笑った。


「あなたは“女王陛下”でしょう。ご自身が表にお立ちになり一声かければ、たちどころに終息するのでは?」


 ねっとりとした侮蔑を隠しもしない物言いに、腹の底が音を立てて煮え返る。気づけば、一歩、前に出ていた。


「伯爵どの、それは言いがかりだ。メービスは無茶を承知で言っている。だからこそ、“のらりくらり”はやめてくれ」


 らしくない、と自分でも思う。抑えきれなかった。これ以上、こいつの気高さを踏みにじられるのを、黙って見ていられなかった。伯爵は目を細め、すぐに食えない笑みを浮かべる。


「王配殿がそこまで声を荒げるとは――本気ですな」


 それを合図に、第二の戦いが始まった。剣も魔術も交えない、言葉だけの戦い。だが、そのひとつひとつは、鋼より鋭く、重い。


 ミツルは、伯爵の矛盾を容赦なく突いていく。王家への復讐を口にしながら、領民には慈悲深い善政を敷くその二面性を――「捨てきれない優しさ」と名指しして。


 そして言う。街の混乱を鎮めるためには、あなたの力が要るのだと。宰相がばらまいた「暴虐女王」の噂を覆すには、殺されたはずのあなたが、生きて私の隣に立つことこそ、何よりの証になるのだと。


 ――そこまで、読んでいたのか。


 舌を巻く。こいつはただのお人好しではない。優しさを、最も効果的な武器として使う。扱いがいちばん難しいこの男を、自陣に引き込もうとしている。


 敵対者どうしが、互いを利用し合う。


「わたしはあなたを利用するし、あなたもわたしを利用すればいい。清濁併せ呑むとは、そういうことでしょう?」


 気高く、危うい覚悟だ。いつの間に、こんなにも遠くへ――いや、元からそうだったのだ。俺が気づかなかっただけ。やがて伯爵が重い口を開く。


「よろしい。あなたがそう望むなら、私も民を救う“善政の顔”を見せてさしあげましょう」


 降伏ではない。だが、確かに何かが動いた。ミツルは床の若草色のウィッグを拾い、ふたたび黒髪を隠す。その一連の仕草に、揺るがぬ決意を見た気がした。


 そっと隣に並び立つ。言いたいことは山ほどある。だが今は、言わない。ただ、その肩を、その覚悟を支える――それが、今の俺の役目だ。



――ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十七


 中央広場の空気は、血と焦げと鉄の匂いで満ちていた。宰相兵、市民、無頼の徒が入り乱れ、武器の切っ先が互いの喉元を狙っている。爆ぜる火の粉が夜空を赤く染め、ひと息でも油断すれば殺し合いが始まりかねない。


 その只中に――あの小柄な背中。泥と雪で汚れた白いローブ。肩から袖口にかけて泥はねが散り、布は裂け、濡れて重く垂れている。護衛もつけず、ただ一人で倒れた老婆のもとへ駆け寄っていた。膝をつき、懐から取り出した薬瓶と布で血を拭い、包帯代わりに巻いてやっている。指先は震えもせず、周囲の罵声も耳に入っていないようだった。


 兵どもがざわめく。「悪魔の魔術師」だと口汚く罵り、あの時の恐怖に飲まれて目を血走らせている。だが俺は知っている――こいつは人を殺せない。あの日も、一人も殺してはいない。わざと恐ろしい芝居を打ち、魂を削ってでも止めに入る、それがこいつだ。やがて、こいつは立ち上がり、ゆっくりとフードを外した。若緑色の髪が炎に揺れ、顔には疲労と、それでも引かぬ意志があった。周囲は息を呑み、武器を下ろす者もいたが、同時に「偽りかもしれない」と疑う視線も消えてはいない。


 こいつは名を告げた。「メービス」と。そして「ミツル・グロンダイル」と。二つの名を背負って群衆の前に立つ重さは、俺にもわかる。だが、こいつは引かない。「争いを止めたい、誰も死なせたくない」と声を張った。


 守りたい衝動が胸を突き上げる。今すぐ抱え出して、この血の匂いから遠ざけたくなる。だが、その思いの隣には、どうしようもない歯がゆさが居座っている。これは、こいつが自ら選んだ道だ。己の存在意義を賭けた戦いだ。俺が遮れば、その覚悟ごと折ることになる。だから――俺にできるのは、万が一に備えて背後に立つことだけだ。



――ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十八


 あの混沌の渦の中に、金髪の壮年――レズンブール伯爵が現れた瞬間、広場の空気が変わった。“殺されたはず”の男が、平然と歩み寄ってくる。しかも、その視線の先は迷いなくメービスだ。こいつは、ほっとしたように息をつき、「ごめんなさい」と小さく呟いた。制止を振り切って、ひとりでこの修羅場に飛び込んだことを、謝っているのだ。伯爵は、その場を揺るがすほどの声で宣言した。自分は殺されていない、むしろ女王に救われたのだと。人々の前提が崩れる音が、確かに聞こえた気がした。あれほど怒り狂っていた宰相兵の何人かが、武器を下ろし始める。


 メービスは、そこで自分の力がどれほど危険かを告げた。――人を殺せる力がある。それでも殺さなかった。争いを止めたくて、自分ひとりが悪魔と罵られればいいと。その声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。守りたい衝動が胸を焼く。今すぐ抱きかかえてでも、この血と炎から遠ざけたくなる。だが同時にわかっている――これは、こいつが腹を括って挑んでいる場だ。無理に肩代わりすれば、その決意ごと踏みにじることになる。


 伯爵は金と庇護を条件に宰相兵の退去を促し、次々と槍が地に落ちていく。市民の怒りはまだ燻っているが、最悪の流血は避けられそうだ。こいつは兵と市民の間に割って入り、「生きていることを大事にしましょう」と言った。その背中は泥にまみれ、疲れ果てているのに、なおまっすぐだった。


 ――俺にできるのは、ただ背後に立ち、万が一に備えることだけだ。

 今はそれでいい。こいつが前に立ち続けられるよう、最後まで見届ける。



――ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫)

第十章 時間遡行編④

その六十九


 あの瞬間――嫌な匂いがした。鎮まりかけた広場の空気が、次の瞬間にはまた破裂しそうなほど張り詰める。楼閣の屋根から、赤黒い塊が飛ぶのが見えた。大きさ、人一人ぶん。狙いは言うまでもない。こいつの横顔が視界に入った。動く前からわかっていた。避けない。俺が動かねば間に合わない。考えるより先に脚が地を蹴っていた。


 熱が頬を刺す。あの距離で踏み込みきれるのは俺だけだ。抜き放った銘無しの刃は、狙い澄ました軌道で火の芯を断つ。爆ぜないよう、寸分違わず中心を割る――耳の奥で空気が裂ける音がした。四散した炎は夜風に呑まれ、火の粉だけが舞った。息は乱れていない。だが、心臓の奥に溜まっていた冷えた塊が、ようやく溶け出す。


 メービスは怯えた様子もなく、いつも通りの目で俺を見ていた。こいつにとっては、俺が前に出るのが“当たり前”なんだろう。その信頼が、ありがたくもあり、時に重い鎖にもなる。


「俺が居る限り、何人たりともお前を傷つけさせはしない」


 言葉にすれば簡単だが、それは俺が背負うと決めた約束そのものだ。この場に何人敵が潜んでいようが関係ない。すべて斬り捨てるだけ。周りが勝手に“世界最強の騎士”と持ち上げても、正直性に合わない。俺にとっては称号より、こいつの傍らに立ち続けることの方がよほど大事だ。だからこそ、こうして視線を受けても、居心地の悪さと同時に、妙な安堵が胸に残る。それを聞いたあいつが、くすりと微笑みながら、わずかに俺の方へ身を寄せる。


「そうそう。せっかくみんなの前で、かっこいい見せ場を作ったんだから。ここは堂々と胸を張ってなさいな。ね、雷光の騎士様?」


 その声色は、場の緊張をほぐす穏やかさと、互いをよく知る者にしか出せない親密さを帯びていた。 「まったく……」と渋い声を返しながらも、俺は背筋を伸ばす。その仕草に、こいつは小さく笑った。――やっと救われた、と言っているのがわかる。俺がいたからこそ“怯まず戦えた”のだと。そういう意味を、軽口の奥に隠して。

手記12(第十章 時間遡行編④・その六十四〜六十九)は、

 ヴィル視点の中でも特に 「守る者の葛藤」と「相手を信じて託す覚悟」 が濃縮された章になっています。


1. 主題的な軸

 この一連の手記は、一言で言えば 「愛するが故に止められない」 物語です。ヴィルは繰り返し「今すぐ抱えてでも遠ざけたい」という衝動に駆られながらも、同時に「これは彼女が選んだ存在意義を懸けた戦い」だと理解し、止められない。この二律背反が、六十四から六十九までずっと基調音のように鳴り続けています。


2. 各場面の役割と心理の変化

六十四〜六十五

 伯爵との対話で、ミツルがただの理想論ではなく「救うことで自分も救われる」という深い動機を持っていることをヴィルが悟る。ここでヴィルは、彼女が背負う痛みの深さが「伯爵の復讐心すら小さく見える」ほどであると認識する。結果として、「彼女の灯した光を守る」という誓いに至る。


六十六

 「共闘」の申し出を巡る駆け引き。ヴィルは珍しく感情を表に出して伯爵を牽制するが、最後はミツルの交渉術に委ねる。相手の力を信じ、隣に並び立つ立場へ移行する瞬間。


六十七〜六十八

 広場での説得と群衆鎮静化の場面。ヴィルは強く介入せず、「背後で盾となる役割」に徹する。歯がゆさと同時に、「任せる」という覚悟が明確化。


六十九

 危機の一瞬に本能的に前へ出て火球を断つ。この行動は「ここぞという時は自分が前に出る」という暗黙の役割分担を裏付ける。戦闘後、メービスの軽口の裏にある「あなたがいたから戦えた」という本音を正しく読み取る。ここで二人の間に、言葉を介さない相互理解の完成形が一瞬生まれる。


3. 構造的特徴

静と動の反復

 六十四〜六十八はほぼ会話と観察で進み、六十九で一気にアクションを爆発させる。これにより緊張が溜まり、雷光の一撃が際立つ。


葛藤の継続性

 どの場面でもヴィルの中で「止めたい衝動」と「託す覚悟」が同時進行しており、行動の抑制と突発的な介入(六十九)が対照的に効く。


関係性の深化

 六十四〜六十五で「彼女の動機」を理解、

 六十六〜六十八で「力を信じて任せる」、

 六十九で「本音を言葉なく汲み取る」。


 ヴィルにとってミツルは、


 初期段階では「守るべき12歳の少女」

 今は「ユベルと同格、自分と同格の魂の重さを持つ者」


 この変化は、理由や経緯を論理的に説明できなくても、「確信」として刻み込まれているのが重要です。それは彼が実際に見聞きした場面――死神の仮面を被っても誰も殺さず、復讐の闇に囚われた伯爵を口説き落とす――などを通して、言葉を超えて理解してしまったから。


 そして、ミツルの「救うこと=自分を救うこと」という心理は、通常の人間関係ではかなり異常な構造です。


 前世での壮絶な喪失経験

 自己否定と罪悪感の層の深さ

 他者の痛みを「自分の痛み」としてそのまま受け止めてしまう感受性


 この三つが合わさって、彼女は他人を救うことでしか自分の存在を肯定できない体質になっている。それはヴィルにとっては説明できないし、理解しきれないかもしれないけれど、「そういう魂なのだ」という認知は揺るがない。


 つまりこの時点のヴィルは、


 年齢や外見ではなく、魂の重量でミツルを見ている。

 理由は理解不能でも、その在り方の価値は本能で知っている。


 だからこそ「止められない」ジレンマと「守る」決意が同居している。この認知が固定化されたことで、二人の関係は「守る者と守られる者」から、「同格の魂同士が並び立つ」段階に完全に移行しています。


 そして、通して読むと、最後のあの軽口――


「そうそう。せっかくみんなの前で、かっこいい見せ場を作ったんだから。ここは堂々と胸を張ってなさいな。ね、雷光の騎士様?」


 は、単なる場の和ませや冗談ではないと思えます。


1. 表面的な機能

 広場の緊張を解くための軽口

 周囲に「女王と王配は落ち着いている」という安心感を与える演出


2. 裏に滲む本音

 彼女がそう言えるのは「ヴィルが背後にいる」確信があるから

 実際には、自分も極限まで消耗し、不安や恐怖を抱えている

 その安全感・支えの感覚を、あえて軽口に包んで差し出している


3. 「あなたなの」という示唆

 この台詞の根っこには、「わたしも救われたい」という感情が確実に混ざっています。しかもその対象は不特定ではなく、明確に「ヴィル」という一点。


 彼の存在があったから怯まずに立てた

 だからこそ、冗談めかしても「あなたがいたからできた」と言っている

 その事実を直接言葉にするとあまりに生々しく脆くなるから、軽口に変換して渡している


 つまり、彼女の軽口は三層構造です。


 場の緊張緩和(表層)

 ヴィルへの感謝と信頼(中層)

 自分も彼に支えてほしいという無意識の願望(深層)


 この深層部分をヴィルがどこまで察しているかは明言されませんが、彼の描写からすると「何か大事なものを含んでいる」とまでは感じ取っているはずです。ただ、彼のほうも「親友ユベルの娘」という倫理的な壁があり、即座に踏み込めない。この「言わずとも伝わるけれど、決定的には触れられない」距離感が、二人の緊張と甘さを同時に作っていると思います。


 ここで重要なのは、彼女がやっていることが「正しい」からでも、「女王として模範的」であろうとしているからでもない、という点です。


恐怖と覚悟の同居

恐怖

 間違えばすべてが終わる。自分の選択が大量の死者を生むかもしれない。

 前世・今世を通じて「救えなかった」経験が、常に頭の片隅で疼いている。


覚悟

 だからこそ、嘘や虚飾を捨て、すべて曝け出す。

 それが自分を削る結果になっても、他人を救えるなら構わない。


 この「怖いからこそ全部出す」という逆説が、彼女を単なる理想主義者や聖女像から遠ざけています。


「罪人」としての自己認識

 ミツルは自分を“罪人”と見ているため、聖女のような純粋な自己犠牲ではないと自覚している。

 その自己認識が、彼女の言葉と行動に異常なまでの真実味を与えている。

 「きれいごとを言っているだけ」ではないから、人の心を動かす。


「持っているものすべてを差し出す」の意味

 それは力や立場だけでなく、自分の弱さ・痛み・過去の傷も含まれる。

 彼女は“見せられる部分”だけでなく、“見せたくない部分”も惜しまず出す。

 この全開放こそが、伯爵の氷を砕き、ヴィルの魂を揺らす理由。


異常性と人間性

 普通は恐怖に囚われれば守りに入るはずなのに、ミツルは逆に殻を破って全部さらけ出す。

 それは彼女の異常な心理構造(救うこと=自分を救う)から生じているが、同時に圧倒的な人間性として周囲に伝わる。


 「彼女は強いからやっている」のではなく、「怖くて仕方がないから、それでもやっている」という真実に触れられます。そうすると、最後の軽口も単なる信頼の証ではなく、「怖さの中で、あなたに支えられているからこそ言える」という二重の意味を帯びます。

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