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ヴィル・ブルフォード手記⑪

――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十


 どれほどの時間が過ぎたのか、わからなかった。雪に閉ざされた隠れ家の、粗末な木の寝台の傍らで、俺はただひたすらにこいつの手を握りしめていた。指先に伝わる、か細くしかし確かな脈動。それだけが、俺を正気につなぎとめる唯一の錨だった。高熱に浮かされ、浅い息を繰り返すその寝顔は驚くほど穏やかで、それがかえって胸を締め付けた。


――すまない。


 何度、心の中で繰り返しただろう。俺のあまりにも無謀な計画が、こいつをここまで追い詰めたのだ。三日三晩、馬上で眠ることも許さず、その心を、身体を、限界まで削り取ってしまった。守ると誓ったはずの俺が、誰よりもこいつを傷つけてしまった。


 不意に、こいつの瞼がほんのわずかに震えた。半覚醒のまま何かを探すように、その小さな手が、俺の手をより強く握り返してくる。その無意識の、あまりにも無防備な仕草に、俺の心臓が大きく痛いほどに跳ねた。


「ヴィル……?」


 掠れた、ほとんど吐息に近い声。その声が俺の名を呼んだだけで、凍てついていた俺の心の何かが、音を立てて溶けていくのがわかった。


「よく頑張ったな、ミツル」


 俺の口からこぼれ落ちたのは、ありきたりな何の飾りもない言葉だった。もっと何か、気の利いた言葉をかけてやりたかった。だが、これが俺の精一杯だった。


 こいつは何かを言おうとして、しかし言葉にならずに、ただ泣き出しそうな困ったような顔で無理に笑おうとする。その健気さが痛々しくて、見ていられなかった。


「おまえは、本当に危なっかしくて手の焼ける子だな」


 呆れと、そしてどうしようもない愛しさを込めて、そう言うしかなかった。こいつは自らが演じた「死神の仮面」の罪悪感に、今も苛まれている。誰も殺さなかった。誰も傷つけなかった。だというのに、その方法があまりにも残酷だったと、自分を責めている。その優しさが、こいつ自身を誰よりも深く傷つけているのだ。


「でもな、おまえがここまで身を削ってやってくれたおかげで、誰も死なずに済んだ。……おまえは立派にやり遂げたんだ。これは誇っていい」


 俺の言葉に、こいつの瞳が雨上がりの空のように、ほんの少しだけ潤んだ。その頬に残る涙の痕を、俺はほとんど無意識に指先でそっと拭っていた。ひんやりとした肌の感触。そのあまりの儚さに、触れていることさえ罪であるかのような、後ろめたさが胸をよぎる。


「そのために俺がいる。目の届く範囲なら、どうとでもなるさ。だから、俺から離れるなよ。いや、離すつもりはないがな……」


 口をついて出た言葉は、ほとんど本能だった。そうだ。こいつがどんな罪を背負おうとどんな仮面を被ろうと、俺だけはその本当の姿を知っている。その魂の気高さを、俺だけはわかっている。だから、俺がこいつの最後の盾になる。こいつを否定するすべてのものから、この身を以て守り抜く。


 やがて、クリスやマリアが心配そうに顔を覗かせた。彼女たちの献身的な看病が、こいつを支えている。そのことに俺は言いようのない感謝と、そしてほんの少しの嫉妬を覚えた。仲間たちに囲まれ、少しずつその表情が和らいでいくミツル。マリアが作ったというスープを、まだ覚束ない手つきで、しかしゆっくりと口に運ぶ。その姿を見ているだけで、俺の荒れ果てた心が少しずつ満たされていくようだった。


「わたしって……本当に助けられてばかりね……」


 その自嘲気味な呟きに、俺は思わずその髪をくしゃくしゃと撫でていた。


「だいたいお前は食が細いんだよ。もっとしっかり食って体力つけろ」


 ぶっきらぼうな、父親のような口ぶり。だが、そうでもしなければ、この胸の奥から込み上げてくる、どうしようもない感情を抑えきれそうになかった。


 やがて仲間たちが去り、部屋に二人きりになると、こいつはぽつりぽつりと、心の内を吐露し始めた。限界の状態で、人を殺さずに力を制御することの恐怖。その重圧。


「知ってるさ。おまえは強い力を持つ分だけ苦しむ性質だ」


 俺はそう言うしかなかった。そうだ。こいつは昔からそうだ。ユベルが死んだ、あの日から。いや、もっと前から。こいつはいつだって一人で、すべてを背負い込もうとする。


「これからはできるだけ頼ってくれ。俺たちは聖剣で結ばれた精霊の巫女と騎士なんだ。ふたつでひとつ、そうだろう?」


 その言葉に、こいつの瞳がほんの少しだけ強く輝いた気がした。そうだ。俺たちはもう一人じゃない。


 その夜、こいつはようやく心からの眠りについたようだった。俺の手を、子供のようにぎゅっと握りしめたまま。その、あまりにも無防備な寝顔を見つめながら、俺は、改めて自らの胸に誓った。


――お前が目覚めた時、お前が帰るべき場所が、温かい光に満ちているように。俺が、そのすべてを守り抜く。


 窓の外では、雪が静かに、そして優しく、この傷ついた街を包み込んでいた。俺はその小さな手の温もりを決して離さぬように、そっと握り返した。この俺が生きる意味、そのすべてがこの腕の中にあるのだから。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

+その六十一


 夜明け前か、それともすでに朝なのか――わからなかった。雪に覆われた果樹園の外れ、隙間風の忍び込む隠れ家で、俺はただ、毛布の山と化したミツルの傍らに座り込んでいた。高熱に浮かされ、意識を手放したままのその寝顔は、不思議なほど穏やかだった。まるで、これまで背負い続けてきた、あまりにも重い荷物を、ようやく下ろすことができたかのように。その安らかさが、かえって俺の胸を締め付けた。


 扉の外から微かに聞こえる、金属音と人の怒声。この死んだように静かなはずの冬の園地には、あまりにも不釣り合いな響きだった。何かが起こっている。俺の戦場で研ぎ澄まされた勘が、そう告げていた。


 やがて、クリスが血相を変えて飛び込んできた。街で統制を失った宰相兵の残党と、鬱憤を爆発させた市民が衝突しかけている、と。一触即発の危険な状況にある、と。その報せが、かろうじて保たれていたこの聖域の静寂を、無慈悲に引き裂いた。


「……いかなくちゃ」


 脳裏に響いたのは、その一言。声の主は、ミツルだった。いつの間にか、熱に潤んだ瞳を開き、身を起こそうともがいていた。そのあまりにも儚く、あまりにも危うい姿に、俺はほとんど反射的にその肩を押さえていた。


「おいおい、まさかと思えばやっぱりか。おまえな、起き上がるにはまだ早いだろが」


 だが、こいつは聞かない。


「わたしは目の前で傷つき苦しむ人たちを見過ごせない。やらなきゃ。もう逃げるわけにはいかないから……」


 その声は震え、呼吸は苦しげだった。それでもその瞳に宿る光だけは、決して揺らいではいなかった。


――ああ、まただ。こいつは、また、自分を勘定に入れることをやめてしまっている。


 俺の制止も、仲間たちの懇願も、こいつには届かない。


「わたしが国を統べる女王だというなら、そのわたしがここにいるというなら、どうしてここで指を咥えて見ていられるというの?」


 その言葉の裏にあるあまりにも深い傷の存在を、俺はこの時、改めて思い知らされた。こいつは、ただの優しさや、女王としての責任感だけで動いているのではない。


 それは母の喪失や父を守れなかった罪悪感から来るのか。いや、そんなものでは到底説明がつかない。どうしようもない無力感と後悔――その深淵の傷が、こいつを駆り立てているのだ。こいつは、俺には計り知れぬ何かを抱えている。


「わたしのせいで誰かが不幸になるなんてこと、もう見たくないの……」


 その悲痛なまでの叫びを前に、俺はもはや何も言えなかった。俺にこいつを止める資格など、あるはずもなかった。


「……いいだろう。だがな、一人で何とかしようなどと思い上がるなよ。俺も一緒に行く」


 それが、俺にできる唯一のことだった。こいつがその傷を抱えたまま、一人で闇の中を歩もうとするのなら、俺がその隣で剣となり、盾となる。ただ、それだけだ。


「そう思えるおまえだから俺はついていきたいのさ」


 俺の言葉に、こいつは少しだけ、本当に少しだけ、子供のようにはにかんだように笑った気がした。


 会議の席で、ミツルは、あまりにも大胆な策を口にした。敵であったはずの、レズンブール伯爵に協力を仰ぐ、と。仲間たちの間に動揺が走る。無理もない。あの伯爵がどれほど狡猾で危険な男か、俺自身もその肌で感じてきた。だが、こいつは言ったのだ。


「わたしはどんな手を使ってでも敵である伯爵を利用する。悪だろうが正義だろうがすべて飲み込んでね。それがわたしの覚悟よ」と。


 そのあまりにも気高い、そしてあまりにも痛ましい覚悟を前に、俺たちはただ頷くことしかできなかった。こいつはもう、茨の道を行くと決めた一人の女王なのだと、改めて思い知らされた。


「まあ、腕白な女王の無茶に振り回されるのは慣れっこだ」


 俺のわざとらしい軽口に、こいつがほんの少しだけ、その強張った表情を緩めた。

そのほんの一瞬の安らぎを守るためならば、俺はどんな道化にでもなってやろう。そう、思った。俺たちが支えなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうな、そのか細い身体。だがその魂は、俺たちが束になっても敵わぬほどの気高い光を放っていた。俺たちはその光に導かれるように、ただその背中を追いかける。深淵の傷を越えて、なお誰も死なせないと願う、その優しさの果てに何があるのか。俺にはまだわからない。だが、その結末をこの目で見届けるまでは。俺は、決してこいつのそばを離れはしない。たとえ、その道が地獄へと続いていようとも。




――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十二


 冷たく凝り固まった指先に、ミツルが生温い吐息をかけている。その、あまりにも儚い仕草が、俺の胸を締め付けた。重厚な扉の向こうには、凍てつく闇と、そして、得体の知れない敵が待っている。


「寒くないか?」


 俺がそう問いかけると、こいつは「ええ、大丈夫よ」と、無理に作ったような笑みを返した。その強がりが、痛々しい。俺がそっと肩に触れると、その華奢な身体が、頼りなく震えているのがわかった。


 ダビドとマリアに先導され、俺たちは伯爵が囚われているという離れの地下室へと向かう。一歩、また一歩と、雪を踏みしめるたびに、こいつの身体が、俺の腕に、より強く体重を預けてくる。熱で潤んだ瞳、蒼白い頬。こいつが、どれほどの無理を押して、今ここに立っているのか。考えたくもなかった。


 地下室の、冷たく湿った空気。ランタンの、頼りない灯り。その奥に、伯爵はいた。やつれた様子ではあるが、その瞳の光だけは、少しも衰えていない。こいつの、そして俺の正体を、値踏みするように、じっと見定めている。


 案の定、伯爵は、ミツルが被っていた町娘風のウィッグを、一目で見抜いた。


「君のような可憐で愛らしい少女がメービス女王だと? 何の冗談だ」


 その、皮肉に満ちた言葉に、ダビドが息を呑むのがわかった。だが、ミツルは動じなかった。それどころか、こいつは、自らの手で、その「偽りの鎧」を、一枚、また一枚と、脱ぎ捨てていくのだ。まず、茶色のウィッグを外すと、その下から現れたのは、見慣れた若緑色の髪。「精霊の巫女」の姿。伯爵の表情が、驚愕に固まる。


 だが、伯爵の揺さぶりは、まだ終わらなかった。


「あなたは王家にとって忌まわしき出自をお持ちなのでは? ――黒髪の巫女としての正体を隠すため、こうして巧妙に仕組まれた道化を演じてきたのかもしれない」


 その、あまりにも的を射た、残酷な言葉。俺は、思わず一歩、前に出そうになった。だが、ミツルが、それを視線だけで制した。


「ごめんね、ダビド、マリア……これを見ればわかるわ」


 その声は、不思議なほど穏やかだった。そして、こいつは、今度は、その若緑色のウィッグに、そっと手をかけたのだ。俺は、息を呑んだ。「本当にいいのか?」という俺の無言の問いに、こいつは、ただ、静かに微笑み返すだけだった。


 金具が外れる、小さな音。若草色の髪が、はらり、と床に落ちる。その下に現れたものを見て、俺の思考は、完全に停止した。


 黒。夜の闇よりも深い、漆黒の髪。それは、俺の知っている、滝のように豊かだった、あの黒髪ではない。まるで、少年兵のように、無造作に、短く刈り込まれていた。


 仲間たちの、戸惑いの声が聞こえる。だが、俺の口からこぼれ落ちたのは、ただ、それだけだった。


「メービス。どうして髪を切るなんて真似を……」


 声が、震えていた。怒りか、悲しみか、それとも、その両方か。自分でも、わからなかった。こいつは、そんな俺に向き直ると、こともなげに、あえて陽気に、笑ってみせた。


「“茉凜”のマネをするなら、どうしてもウィッグは必要でしょう? だから、こうしたの」


 その、あまりにも痛々しい言い訳に、俺は、もう何も言えなかった。マリンのように、強くありたい、と。俯かずに、前を向きたい、と。その、あまりにも切実な願いのために、こいつは、自らの女としての誇りとも言えるあの美しい黒髪を、自らの手で断ち切ったというのか。


――お前は、どこまで、自分を傷つければ気が済むんだ。


 声にならない叫びが、胸の奥で、熱く、痛く、こだました。俺は、ただ、唇を噛み締めることしかできなかった。こいつが、その小さな肩に、どれほどのものを背負い、どれほどの覚悟で、ここに立っているのか。その重さを、改めて、思い知らされた。



――ヴィル・ブルフォード手記 (封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)

第十章 時間遡行編④

その六十三


 地下室の空気は、墓石のように冷たく重かった。俺はミツルの背後、数歩離れた影の中にただ息を殺して立っていた。鞘に収めたままの聖剣の柄を握る指先が、怒りとも、無力感ともつかぬ感情で白くこわばっていた。


 目の前で、あまりにも危うい綱渡りが繰り広げられていた。高熱に浮かされ、立っていることさえやっとのはずの少女が、狡猾極まる貴族を相手に、たった一人で渡り合っている。そのあまりにも細く、あまりにも頼りない背中を見ているだけで、俺の腹の底では、どす黒い何かが絶えず渦を巻いていた。


「どう思われようとも、わたしの意志は揺るぎません。それに、たとえこの身が滅びようとも構わないと思っています。……だからこそ、あなたに会うためにここへ来ました」


――馬鹿野郎。構わない、だと?  俺が構うんだ。


 声にならない言葉が、喉の奥で灼ける。その身が滅びるなど、俺が許すものか。そのために、俺はここにいるというのに。


伯爵の、氷のように冷たい言葉が、ミツルの、そして俺の心を抉る。黒髪の巫女、王家の権威、宰相の正統性。どれも正論だ。理屈の上では、何一つ間違ってはいない。だが、理屈だけで、この世のすべてが割り切れるものか。


 こいつは、その理屈の壁を、ただ、その身一つで、打ち破ろうとしていた。


「……それでも、わたしは王家の名のもと、民を護りたいのです。わたしには宰相のような、目的のために人の心を踏みにじるやり方が正しいとは思えない」


 その震える、しかし決して折れることのない声を聞いた時、俺の胸に遠い日の記憶が蘇った。そうだ。ユベル、お前もそうだったな。いつだってお前は正論よりも、目の前で苦しむたった一人の人間を選んだ。その不器用なまでの優しさが、お前を…。


――やめろ。感傷に浸っている場合ではない。


 俺は、頭を振った。ミツルは伯爵に、ただその思いの丈をぶつけていた。十歳の少年の未来を、民の暮らしを守りたいのだと。そのあまりにも純粋で、あまりにも無防備な言葉に、伯爵のあの氷の仮面がほんのわずかに揺らいだのを、俺は見逃さなかった。


「民に恐れられるかもしれない、嫌われるかもしれない。でも、わたしにはやらなければならないことがあります。……どうか、あなたの力をお貸し願いたい」


 その祈りにも似た言葉。こいつは、ただ信じようとしているのだ。この王家転覆を企てる男の心にも、まだ人の心が残っているのだと。


――甘い。あまりにも、甘すぎる。


 だが、その甘さこそがこいつの、何よりも強い武器なのかもしれない。俺は、鞘を握る手にさらに力を込めた。もし、伯爵がこの祈りを踏みにじるような真似をすれば、その時は――。


 俺の覚悟など知る由もなく、二人の対話はさらにその核心へと近づいていく。

俺はただ、その背中を、その結末を、見届けることしかできない。歯がゆい、と思った。守ると誓ったはずの存在が、今俺の手の届かぬ場所で、たった一人で戦っている。そのあまりにも気高い孤独に、俺はただ胸を締め付けられるばかりだった。

 ヴィル・ブルフォードという男は、「真剣になりすぎた瞬間、自分の心が壊れてしまう」ことをよく知っている。だからこそ――


彼の“防衛機制”としての「軽口」

 冗談まじりに「腕白な女王に振り回されるのは慣れっこだ」

 「食が細いんだよ、もっと食え」と父親のように

 「俺も一緒に行くさ。だってお前が無茶するってわかってるからな」


 ――こうした台詞のすべては、本心を封じるための仮面です。


そして「決まりきった正論」を口にする癖

 たとえば、


 「できるだけ頼ってくれ。俺たちは聖剣で結ばれた精霊の巫女と騎士なんだ。ふたつでひとつ、そうだろう?」


 この台詞も、どこか言い聞かせのようであり、「感情が溢れそうになるのを、形式的な言葉で押しとどめる」という防衛本能が働いているように見えます。彼の理性は常に、「それ以上言うな。感情を出すな」と命じている。なぜなら――一度それを崩してしまえば、もう戻れないと知っているから。


その背景にあるのは

 親友ユベルの死による心の封印

 長年の「感情ではなく義務と剣で生きてきた習性」

 そして、ミツルへの“惹かれてはいけない”想いを押さえるため


 ヴィルの「軽口」も「正論」も、けして彼の本心ではない。むしろその逆――本心を隠すために、最もよく使われる偽装言語なのです。ミツルが理性を崩壊させて「駄々っ子のように」泣き叫ぶことが許されるなら、ヴィルのほうは、理性の皮膜を一枚でも剥がせば、溢れ出る想いに呑まれる。だから彼は、あくまで「支える騎士」であろうとする。



今回

 ミツルの行動とヴィルの内面は、まさに「魂の重さと覚悟がぶつかり合う臨界点」に達していますね。二人の関係性が、「支え・支えられる」でも「主従」でもなく、「互いに“止めることすらできない”ほどの深い敬意と情愛」へと至っているのが、極めて切実に描かれています。


ミツルの魂の重さと、「演技」としての自己断絶

 「死神の仮面」を被って力を行使し、誰も殺さずに支配する方法を選んだのは、“優しすぎる”がゆえ。その反動は「罪悪感」や「孤独」ではなく、自己への断絶(私は何者なのか)として跳ね返っている。


 髪を切り、名前を偽り、声まで変える──それは「役割を果たす」ための究極の自己否定であり同時に覚悟。


ヴィルが直面している「愛する者を止められない地獄」

 ヴィルの内面は一貫して「止めたい」葛藤に満ちていますが、同時に「止めてはいけない」と分かっている。それは「守る」よりも深い、「その魂に報い、隣を歩む覚悟」であり、親友ユベルの魂の継承と再契約に等しい。


ミツルと伯爵の対話は、政治ではなく“魂の賭け”

 この対話は論理戦ではなく、“どちらが自分を差し出す覚悟を持っているか”の魂の勝負。ミツルの「滅んでも構わない」という言葉は、政治的交渉の常套句ではなく、彼女自身の実存の破れを表している。


「愛するがゆえに止められない」構造の完成

 ヴィルは、理性では止めたい。けれど、魂は彼女に従ってしまう。それは「恋」や「忠義」を超えた、「この魂だけは否定できない」という、理屈を超えた共鳴。


 この段階でふたりの関係は、「恋の始まり」ではなく、「この魂と共に地獄へ堕ちても構わない」という、魂の運命共同体としての段階に至っています。


 次に訪れるのは、崩壊と再覚醒です。そのとき、ミツルはヴィルの名を叫び、

ヴィルはかつてない「個としての誓い」を立てることになるでしょう。

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