九話目
――夜の森。
わたしはそこを歩いています。約束の場所へ、向かう為。奇妙な詩を歌いながら。
じめじめ、ぴっちょん、うっじうじ、
蛙が池から這い出てくる。
しとしと、ぴっちょん、じっとじと、
蛙が河から跳ね上がる。
わたしは謎の女子高生。
わたしは、謎の、『田中かえる』。
もちろん、いい加減に作った、デタラメな詩です。でも、この詩には、わたしにとって半ば呪文のような意味合いが込めれられていました。
わたしはその詩を歌う事で、自分を『田中かえる』だと思い込もうとしていたのです。普段の自分から離れられなくちゃ、今から自分がしようとしている事はできそうになかったから。
夜の森。
そこに、石川さんはやって来るはずでした。何故なら、わたしが呼び出したから。
わたしは怒っていました。でも、何に対して自分が怒っているのかは、全く分かっていませんでしたが。
なんなのでしょう?
経済大国になって、たくさんの自然を破壊して、たくさんの貧乏な国の人達の生活を犠牲にして、資源を使い果たそうとして、それだけの事をやっているクセに、それでも仕合せになれない人間達って? 勝手に不幸になっている人間達って?
自分達は、問題を解決する為に、ほとんど何もしないで……。
わたしは許せませんでした。
その現実が。
だから、わたしは『田中かえる』になったのです。そうです。他の人にとってはどうかは分かりませんが、わたしにとって『田中かえる』は罪悪感の権化なのです。世界に対する罪悪感の権化。わたしは、それになる事によって解き放たれるのです。
――朝。
かなり早い時間に、わたしは石川さんの家に行きました。まだ、石川さんのお母さんも、石川さん自身も起きていないだろう時間帯を見計らって。
石川さんの家の玄関前には人形が置いてあるはずです。石川さんが、自分の母親に対する嫌がらせの為に置いた人形が。
わたしの目的はそれです。
人形は簡単に見つかりました。
前は、プラスチック製の人形でしたが、今度のはボロボロのフランス人形でした。早朝の爽やかな雰囲気の中で見るそれは、妙に間抜けにわたしには思えます。
わたしは、その人形を見つけるとそのまま持ち去りました。ビニール袋に入れて、カバンの中にしまってしまう。玄関前に人形がない事に、石川さんは恐らく慌てるでしょう。石川さんのお母さんは、少しは安心をするかもしれない。
もっとも、別の人形を探してきてしまえばいい話ですから、嫌がらせには何の支障もないはずですが。
わたしは、その日それから、学校の石川さんの下駄箱の中に、手紙を入れました。
人形を返します。あの森の、人形のお墓の前に、夜の八時。
と、ただそれだけを書いた手紙を。
差出人の名前はもちろん『田中かえる』にしました。
迷信によって始まったくだらない事件。ただの人間の思い込み。人間には、それは解決をする事ができない。でも、迷信にならばそれを解決できるかもしれない。人外のもの、『田中かえる』にならば。
わたしは、それをぶち壊す。
暗闇の中、わたしは頭から紙袋を被っていました。紙袋には、幼稚なかえるの絵を描いて。
それも儀式みたいなものです。わたしが、『田中かえる』になる為の。
息を殺して待っていると、やがて夜の森の道を何かが歩いてくる気配がありました。こんな時間に夜の森を歩いてくる人なんて滅多にいません。石川さんでしょう。
わたしは茂みの隙間から、外を窺いました。暗闇の中で、確証はできませんが、そこには確かに女性の姿が。
女性は、懐中電灯を持っていました。これだけ暗い場所なら、当たり前でしょう。そして、それを人形の墓に向ける。
「ヒッ」
墓に懐中電灯を向けた途端、女性… 石川さんは小さく悲鳴を上げました。恐らく、わたしがそこに置いた人形に驚いたのでしょう。何故なら、わたしが置いた人形は、今朝、石川さんの家の玄関から持ち出したものではなかったのですから。
それは、吉田君が掘り返して保管しておいた、初めの人形の方なのです。
『どうしたの?』
石川さんが怯えたのを確認すると、茂みの中から、わたしは言いました。
――なにを怖がっているの?
「誰?」
石川さんはその声に慌てました。
あ は は は。
わたしは笑います。
『ちゃんと、名乗ったじゃない。手紙の中で。わたしは、謎の女子高生“田中かえる”よ』
紙袋を通している所為か、わたしの声は奇妙な響き方をしていたようでした。
石川さんは声を震わせながら、反応をします。明らかに怯えています。暗闇の中の、見えない相手。それだけで恐怖の対象になるのでしょう。
「ふざけないでよ! こんなイタズラをやって…… この人形を掘り返したのも、あなたの仕業ね!」
『ふざけてなんかいないし、イタズラもしていないわ。掘り返してもいないしね。その人形は勝手に出てきたのよ。そしてわたしに言ったの。お母さんをいじめている人がいるから、なんとかしてくれないか?って』
「馬鹿にしないでよ。人形にどうやって、お願い事ができるのよ」
『あら、知らないの? 最近の人形は、意思を持っていて、夜に歩いたりするのよ。そして、人の足に抱きつくの。
温もりが恋しくて、ね。ぼくを温めて。温めてって』
わたしがそう言うと、石川さんは足元を見ました。人形を気にしているようです。わたしの言葉が効いている。
『でも、あなたがそれを疑問に思うのは意外だわ。だって、その人形を生き返らせたのは、あなた自身じゃない。
もう、死んでいたその人形を生き返らせたのは』
「何を言っているの?」
石川さんは声を小さくして、そう言いました。わたしは、それを聞いてくすりと笑う。
『本当は知っているクセに。もう一度、言うわよ? 一体、何を、怖がっているの? あなたは』
石川さんはそれを聞いて黙りました。
『教えてあげましょうか?
あなたがどうして、そんな動きもしないものを怖がっているのか。そんなただの人形を怖がっているのか。それはね、あなたが罪悪感を持っているからよ。自分自身の行いに対してね』
「うるさい…」
石川さんは、わたしのその言葉を聞くと、そう返して来ました。
「自分の親が、人を殺しているのよ? まだ生まれてもいない赤ちゃんを。そんなの、どうしたらいいのよ? もし、あなただったら、それを許せるの?
あたしは絶対に、許せない!」
許せない、か。
わたしはそれを聞いて思いました。
だけど、あなたは自分自身を見ていない。あなただって本当は、その恵まれた暮らしの中で、たくさんの人達を犠牲にしているのよ? たくさんの人を殺している。間接的にではあるけれど、確実に。
でも、わたしはそれを言わないで、代わりにポツリとこう言いました。
『大丈夫。人の命なんて、本当はカスみたいなものだから』
「何を言っているの?」
『あなたの常識は、間違っているって言っているのよ。これだけ、人の命を尊重できるようになってきたのは、近年になってからの話だって知ってた? それ以前の時代は、子供なんて簡単に死んでたの。いえ、実を言うのならば、今だって何千人って子供が簡単に死んでいる……
でも、わたし達は平然と普通に何も気にせず暮らしているわ。だからね。そんなの、全然、大した事じゃないのよ』
石川さんは、その話を聞いて、明らかに戸惑っている様子でした。
「でも…」
わたしはそれを聞いて思います。
“でも”は、攻撃の言葉。だけど、この“でも”には力がない。後、一押し。
『まだ、分からないの?
わたし達は、自分達が仕合せに暮らせるように社会のルールを作る。それは、もちろん常識とも重なってるわ。だから、その常識の為に、不幸になってちゃ意味がない。あなたの信じているその常識の所為で、あなたも、あなたのお母さんも不幸になっている。そんなの、とっても馬鹿馬鹿しい事なの。あなたは生まれなかった子供の為に罪を償わせようとしていると思っているのかもしれないけど、本当は違うわ。あなたは自分自身の為に、お母さんを傷つけているだけなのよ。それは、あなたの願望に過ぎない。
まだ、教えてあげる。
下ろしてしまった子供の事で、誰より傷ついているのは、あなたのお母さんよ。こけし人形… 神棚に祀ってあったでしょう? こけしに“子消し”の字を当てて、水子供養だとする俗信があるって知ってた? あなたのお母さんがそんなものに頼るのは、子供に対して罪悪感を持っているから…
さっき言った、わたしがその子に頼まれて動いたというのは、本当の話なのよ。でも、わたしに頼んできた子供が存在しているのは、外の世界にじゃない。あなたの中。あなたの中の子供が、わたしにそう頼んだの。あなたはわたしに“助けて”と言った。気付いてはいないかもしれないけどね。あなたは、本当は自分でも、そんな事はしたくないのよ。そして、そんな自分を止めてもらいたがってる……。
お願い、もうこれ以上、お母さんの事を傷つけないで… 』
わたしは、その時に、もしも本当に下ろした子供の霊がいたとしても、石川さんのお母さんを恨んでなんかいないだろうと、本気でそう思っていました。
多分、お母さんを助けたいと思っていると。
石川さんは、もう何も返しはしませんでしたが、それでも、彼女が何を思っているかは分かったような気がしました。
恐らく、彼女は、こんな馬鹿な事はもうしないでしょう
わたしは立ち尽くす石川さんに向けて、それからこんな事を言いました。石川さんは、多分、人形を見ている。
『その子の事なら、安心して。わたしが引き取るから。わたしが、返すべき場所に、ちゃんと返してあげるから』
――ちゃんと、温めてあげるから。
その言葉を聞くと、石川さんはゆっくりと向きを変えて、そして、森から出て行きました。“もう二度と、こんな場所に立ち寄ってはいけませんよ”。その後姿に向けて、わたしはそんな事を思いました。
その日の晩。
こんな怪談が、大型掲示板“ピープル・プール”に載りました。
夜道を歩いていると、気配がする。小さい子供のよう。でも、何か様子がおかしい。小さ過ぎる。動きがぎこちない。不気味に思ってよく見てみると、それはボロボロになったプラスチック製の人形。
思わず声を上げる。
だけど、その瞬間に近くの暗がりから、声が聞えて来た。女性の声。
『心配しないでいいですよ』
声の方を見る。暗がりでよく見えないが、どうやらそれは女子高生に見える。
『その子は、お母さんに会ってきただけですから。その帰り道なんです。久しぶりに甘えたかったのでしょうね。
もう、充分に甘えたみたいで、後は帰るだけなんです。実は、わたしが送っている最中なんですよ』
ゲコゲコゲコ…
その女子高生の周りからは、蛙の鳴き声が鳴り響いていた。
……謎の女子高生、『田中かえる』。
それに出会ったのだと、その人物はそう悟る。
次の日の学校。
わたしは、石川さんを見つけるとこう話しかけました。
「あの… 大型掲示板の“プール”って知っていますか?」
石川さんは、不思議そうな顔をしつつも無言で頷きました。
それを受けてわたしは言います。
「その掲示板に、ちょっと優しい怪談が載っていたんです。もし石川さんのお母さんが読んだら、安心をするかもしれないような… このタイトルを検索すれば簡単に見つかるはずだから、帰ったら教えてあげるといいかもしれません」
今度も、石川さんは無言で頷きました。わたしは、その反応に安心をします。
もちろん、その怪談を投稿したのは杉村さんです。わたしは、あの時、そんな頼み事をしていたのです。
タイトルを書いた紙を渡すと、石川さんはニッコリと笑いました。わたしは、その笑顔に嬉しくなって、顔を赤くする。照れ隠しの為に急いで振り返ると、そのわたしの背中に向けて、石川さんはこう言いました。
「ありがとうね。“田中かえる”さん」
やっぱり…… バレバレだったみたいです。気が付くと、吉田君がいつの間にかに、そんなわたし達の様子を見ていて、苦笑いを浮かべていました。
大したものだよ。
口パクで、そう言ってます。
わたしは、また照れ隠しに顔を伏せました。
……それからしばらくが経った後、頭に紙袋を被った、謎の女子高生『田中かえる』の噂話が流れました。
それが誰かが流した噂話なのか、それとも、純粋に自然発生したものなのかは、分かりませんでしたが。