八話目
その日。
わたしは久しぶりにお婆さんの家を訪ねました。ここしばらくは、なんとなく行ってなかったのです。でも、今日は独りでいる事に耐えられなくて、それでお菓子を持ってお婆さんの家を訪ねたのです。
お婆さんは、わたしの顔を見ると少し驚いた顔をしましたが、それから穏やかな表情になると、わたしを家の中に招き入れてくれました。
間。
わたしがお菓子を広げている間に、お婆さんはお茶の用意をして、それが落ち着いてお互いにやる事がなくなると、そこに奇妙な空気ができてしまいました。
話し出すタイミングを無理に引き出そうとして、わたしは「どうぞ」と、お菓子をお婆さんに勧めました。ですが、その勧めを無視してお婆さんは、こう言うのです。
「もう、来てくれないのかと思っていたよ」
え?
わたしは、その言葉にビックリします。
来てくれない。まさか、そんな表現をこのお婆さんが使うだなんて思ってなかったしそれに、自分が来る事を期待されているとも思っていなかったから。
「わたしは、こんな人間だろ? だから、あんたからも嫌われちゃったかと思って不安になってたんだ…」
それを聞いてわたしは思います。
わたしは、お婆さんに寂しい思いをさせてしまっていた?
急速に、悪い事をしてしまったという気持ちが持ち上がってきます。そして、自分が寂しい時だけ、このお婆さんを頼りにする手前勝手な自分自身を許せないという思いも同時に感じる。
わたしは… なんて、悪い人間なんだ。
ですが。
「そんな顔するんじゃないよ」
お婆さんは、その時にいきなりそんな事を言ったのです。
「わたしゃね、慈善活動なんて求めちゃいないんだ。あんたが寂しい時にだけ、わたしを訪ねて来てくれる。それで充分だし、それ以上はいらないんだ」
わたしはそう言われて、目を大きく開けてお婆さんを見ました。嬉しかった。でも、そんな優しい言葉にどう返せば良いかが分からなくて、戸惑ってもいました。
ふるふると、震える。
それからお婆さんは、わたしの傍まで近付いて来ると、いきなりわたしを抱きしめました。そして、こう言うのです。
「優しい子だね。それに、不器用だ。自分の思いが直ぐに顔に出る。あんたみたいな子は、多分、どうでもいいような事で、人よりいっぱい気苦労して、どうでもいいような事でクヨクヨと思い悩むのだろうね。でも、わたしはあんたみたいな子が好きだよ。わたしは、あんたみたいな子に、仕合せになってもらいたいんだ」
細いけれど、しっかりとしたお婆さんの身体に包まれながら、わたしは少しずつその場所に安心をしていきました。お婆さんの身体からは、独特の匂いがしていた。でも、それは、決して嫌な匂いじゃない。
そんな中。
わたしは、こんな風にしてわたしを抱きしめてくれるお婆さんを、どうしても助け出したいと思っていたのです。強く、強く。絶対に助け出したい、と。そして、それが吉田君の言うように、自分の欲望でしかない事も実感していました。
……それから、妙な空気にはなってしまいましたが、それでも和みつつ二人でお菓子を食べ終えると、わたしはお婆さんの家を後にしたのです。そして、その足でそのまま杉村さんのマンションへと向かいました。
ある決意を持って。
見ないようにすれば楽になれる。
それはそうなのでしょう。わたしは、大体のことには、ずっとそうして来たのです。わたしにはそれができると思って。でも、それは違っていたのです。わたしは、そんなに器用な人間じゃない。見ないようにしているつもりでいて、わたしはそれを本当はずっと見ていたのです。だから、わたしはこんなに苦しんで来た。
助けたい。
それは、もちろんわたしの欲望に過ぎない。でも、それでもいい。
わたしは、助けたい。
わたしは、この世の中が大嫌いです。なんで、みんなは平気なのでしょう? こんなに悲惨な現実が起こり続けているのに。
飢えて死んでいく小さな子供達。捕り尽される海の魚。来る日も来る日も、殺し合いを続ける人間達。
爆弾テロとか、止まりそうにもない環境破壊とか、財政破綻とか。
ちくしょう!
なんで、平気なんだお前らは?!
わたしはそんな現実は認めない。絶対に認めない。とても可愛いあの存在を、どうにかこうにか救い出す! とても悲しいその現実を、どうにかこうにか変えてやるんだ!
表面上は、わたしは恐らく普通の様子でいたと思います。でも、杉村さんのマンションに行き着くまでの心中、わたしにはそんな思いが渦巻いてあったのでした。もちろん、それは単なる一時の感情に過ぎません。根拠も何もないただの思い込み。だけど、それは少なくともエネルギーにはなっていました。わたしを突き動かす。
杉村さんは、わたしの事を静かに迎え入れてくれました。
わたしの様子を察してか…、 いえ、もしかしたら、わたしが訪ねて来ているという事実から、杉村さんはわたしにどんな思いがあるのかをなんとなく予想していたのかもしれません。杉村さんはしばらくは言葉を探すようにして何も言わないでいました。多分、わたしが口を開くのを待っている。
わたしは、何から切り出せばいいのか悩んだ挙句に、こう言いました。
「あの『池袋の女』って…」
それを聞くと、杉村さんは言います。
「ああ、やっぱり自作自演だったのだね。人形の件は」
と、別に悲しそうにするでもなく、普通の口調で言いました。その台詞で、既に杉村さんには分かっているのだと判断したわたしは、続けてこう言います。
「吉田君は、解決するのは無理だって言っていました。今の科学の範疇ではないから、手段がないって」
「そうか。吉田君らしい言葉だね。彼の自然科学に対する態度は、恐らく、道具主義と確証主義だろうから、それも分かるな」
「道具主義と確証主義?」
「科学に対する考え方だよ。道具主義は、理論を道具と捉える。実用面を重視した発想と思ってくれればいい。確証主義は、全ての理論は仮説に過ぎないとする考え方、と言うと一番分かり易いかな? この二つの考え方は元より深い関わりがあるのだけど」
わたしは、それを受けるとこう返しました。
「そういえば吉田君は、戦争を少なくできる可能性があるみたいな事を言っていました。だから、自分は複雑系科学に注目をしているのだって事も」
「うん。多分、吉田君は本気でそう思ってるよ。少なくしたいのだろうね、戦争を。君と同じ様に。そして、その為に理論を道具として用いる気でいる。でも、彼の場合それだけじゃないのだろうな。彼にとって理論は道具であるのと同時に、楽しむ為のものでもあると思う。面白いから、色々勉強してるんだ」
「杉村さんは… どうなんですか?」
「僕? 僕にとって科学は芸術だね。世界観の一つで、素晴らしい創造性の顕現。まぁ、てきとーに言ってるだけだけども。断っておくけど、僕はただのアマチュアだよ。吉田君のように、社会に役立てるものを作るつもりもないし、それを世の中に公表するつもりもない。ただ、その代わりに覚悟をして生きてはいるけどね。これだけ現実の問題が山積しているのに、それを無視して暮らしているのだから、どんなに悲惨な現実が自分の身に降りかかっても、それも仕方ないと受け止めるさ。もっとも、その時になったら、見苦しく足掻くかもしれないけど。
僕は、吉田君や君の様な、立派な人間じゃない。面倒くさがりなんだ。例え人が死んでいたって無視して暮らせる。誰かを救おうとか、そんな言葉は口にできない」
わたしはそれを聞いて目を伏せました。わたしだってそんなに立派な人間じゃありません。情けない人間だから、こうして杉村さんを頼ってやって来たのです。そんな風に言われたら、何も言えなくなってしまう。
だけど、それから杉村さんはこう続けたのでした。
「ただ。ちょっと手を貸すくらいなら、話は別だよ。君達がそれをやって、僕が助言をするくらいならしてみたいと思ってる」
その言葉を聞いて、わたしは直ぐに言葉を発していました。反射的に。
「知恵を。知恵を貸してください。なんとか、問題を解決する手段はないのですか?石川さん達を助けてあげられる手段は?」
すると、杉村さんはやっぱりかというような表情をして、頭を少し掻きました。それから、「ふむ」と言うと、「難しいな」とそう呟きます。
「吉田君の言った事は正しいんだ。どう働きかければ良いのか、最善のやり方を導き出す方法はない。ただ、そうだな。そういった問題を解決する為の、社会的な装置みたいなものがあれば話は別かもしれない」
「社会的な装置?」
「例えば… “憑き物落とし”だよ。社会の中で、シャーマン的な位置にいる人間が、人間関係のバランスを保つ為に機能する。そういったものを、人間は自然と作り上げてきたのだね。暮らしの営みの中で。
これは科学の方法論とは全く別のもので、しかも実績がある。今回みたいな類の問題なら、特に効果的だろうね。そういうものを利用できるのなら、話は別だよ」
そう言えば、吉田君も本当の“憑き物落とし”をするしかない、というような事を言っていたような気がします。
「じゃあ、それを使えば!」
だけど、わたしが喜んでそう言うと、
「無理だよ」
と、杉村さんは言下に否定したのでした。
「どうしてですか?」
「そういう社会的な装置は、今の時代は既に失われしまっているんだ。そういうものを一から作り上げるのなんて、並大抵の仕事じゃない。吉田君は、いくら頭が良いと言ったって、ただの高校生だ。本人も認めているけど、まだ青いよ。それに、彼の方法論は飽くまで科学だしね。そして、僕はただのアマチュアだ」
わたしはちょっと迷うと、それからこう言ってみました。
「でも、現代社会にだって、探せばそういうものが残っているのじゃないですか?」
もちろん、苦し紛れです。
「あるにはあるよ。でも、それは君が期待をするようなものじゃないと思う。今の時代に残っているそういった役割を果たしている社会的装置は、恐らく“科学”と“迷信”の二つだから」
「科学と迷信?」
「そう。さっき、確証主義って僕が言ったのを覚えてる? 詳しい内容までは説明しなかったけど。この考え方は、科学が本来は不確かなものである事を示しているんだ。でも、多くの人々がそれを知らない。そして、信用できるものだと信じ込んでいる……
アトラスって知ってるかい? ギリシャ神話の中に出てくる、世界を支えていると言われている巨人だ。こういった類の神話は世界各国にある訳だけど、みな、同じ問題を抱えている。
世界を支えているのはアトラス。では、そのアトラスを支えているのは何なのか?人々はその下には、巨象がいると説明する。では、更にその下には何があるのか?人々は、大亀が存在すると説明する。では、更にその下には?
つまり、何によって支えられているかを永遠に問い続ける事ができてしまえるのだね。科学は、これと同じだ。何をもって科学は信用できるのかを追及していくと、いつかは信じるしかない一点に絶対に辿り着いてしまう。例えば極論を言えば、科学が暗黙の内に前提条件としている、自然法則の絶対性と普遍性は、実は証明する事が不可能なんだ。それは、信じるしかないものだ。
様々な議論が為されたのだけどね、結局人類は、科学は何ものにも支えられていない事を知ってしまった。確かな世界なんてものは存在などせず、この世は全て、誰かの見る夢の中だったって訳さ。
でもね」
でも?
わたしはその説明を聞きながら、奇妙な心持になっていました。告白するのなら、科学が信用できないものだなんて、考えた事もなかったのです。
「でも、それでも科学は一番、信用できるものなんだよ。今の社会で。それが何でか分かるかい?」
ちょっと考えると、わたしは答えました。
「たくさんの人によって、正しさが確かめられているから?」
「うん。まぁ、いい答えだ。もっとも、飽くまで理想に過ぎない訳だけど。科学は常に正しさを疑われているものだ。そして、疑われ続けるものだからこそ、科学は一番確かなんだ。逆説的に思えるかもしれないけど、ね。だから、反論できる構造を持つものを科学と呼ぼうという、反証主義っていう科学の考え方があるくらいなんだ。
でも、ほとんどの人はこんな認識は持ってはいないだろう? 科学の確かさはあまり疑われてはいない。そして、そうしてある科学は、ただの権威になってしまっている。そして、ただの権威になってしまっている科学は、社会的な道具になっているとも言えるんだ。シャーマンとか、霊だとかいったものと同じに。そして、科学の名を冠する事で説得力を上げ、宣伝だとかに利用する…
そういった意味での科学は、優れた機能とは言えないと思うけどね。こんなんじゃ、今回の問題は絶対に解決できないだろう? 下ろしてしまった子供に対する罪悪感がもたらす軋轢なんて」
わたしはそれを聞くと黙りました。確かに、権威としてある科学の機能じゃ、今回の問題は解決できそうにありません。なら。
「じゃ、迷信の方は…」
と、わたしは自信なくそう言います。
「それも無理だと思うよ。迷信には、とてもそんな機能はない。確かに、今回の事件には、大昔の妖怪の影響が読み取れる訳だけど、社会背景が全然違っているから、そもそも妖怪の意味合い自体が違ってしまっているだろうし」
「社会背景が違っても、子供に対する無念の思いだとかは同じじゃないのですか?」
「いや、全然違うよ。もちろん、子供に対する思いは似ているかもしれないけど。今回の事件に関係のありそうな、オボとか、ノツゴとかの妖怪が活躍していた時代は、子供なんて死んで当たり前だったんだから」
え?
わたしはそれを聞いて、驚きました。
「それはどういう事ですか?」
子供が… 人の命が亡くなって当たり前? そんな事って…。
「別に驚くような事でもないさ。昔は、衛生管理だってされていなかったし、栄養状態だってとても悪かった。だから、抵抗力のない弱い子供は簡単に死んでいたんだ。ささいな事でも死んでしまうから、『七歳までは神のうち』なんて言葉もあるくらいさ。簡単に死んでしまう子供は、人間じゃなくて神様だって感じだね。
オボとかノツゴが現れたのには、そんな社会背景があった。子供が無事に育って当たり前になったのは、近年になってからだよ。今の社会の解釈で、その時代の妖怪を持ち出したって正しく理解できるはずもない。だから、それを利用して、今回みたいな問題を解決できるはずもないんだ。分かるだろ?」
迷信で問題が解決できるはずもない。
確かに納得のいく意見です。いえ、こんなのは実は考えるまでもない事なのかもしれませんが。
わたしはやっぱり何も返せませんでした。
ただ、わたしはその時それよりも、子供が……、人間が死んで当たり前という世界が、わたし達の暮らす社会にも普通に存在していたのだという事実に、軽いカルチャーショックのようなものを受けてしまっていて、そちらの方に思いが囚われていたのですが。
「もっとも、迷信にだってバカにできない力はあるのだろうけどね。『池袋の女』なんて迷信のお陰で、酷い目にあった人は多分、江戸時代にかなりいたと思うよ。もっと、怖い話もある。丙午生まれの女は悪女になるという迷信があるのだけど、過去、丙午には何故か女性の出生率が低いらしい。つまり、この迷信を信じて、女の子を間引いてしまった親が多数いたと推測できるんだ…… 迷信は現実社会に影響を及ぼしている。
悪い点ばかりを指摘するのはフェアじゃないかな? いい点も挙げておくと、そういった信じるものがあるからこそ、社会が安定するって効果もある。科学がただの権威になってしまう事にも関係あるだろうけど、人間は不確かな世界に生きられるほど強い生き物じゃないんだ。だから、そういったものにも頼る」
その言葉を聞き終わった後で、わたしはポツリとこう呟きました。
「馬鹿馬鹿しいですね」
「ん?」
杉村さんは、それを聞くと不思議そうな顔をしました。
「いえ、時代背景が違えば、人の命なんてカスみたいなものだって人間は認識できちゃう訳でしょう? 少なくとも、価値観の上では。それなのに、自分達の常識と少し違うだけで大騒ぎしてる…」
「まぁ、そうだね。その自分達の常識ってのが重要で、かなりの力があるんだよ。場合によっては、それで紛争が終わらないなんて事もある。
人間はどうやら、人の命よりも、自分達の思い込みを信じ続ける事に価値を置いたりする生き物らしいよ。確かな証拠を提示されたってかなり長期間、思い込みが間違っている事を認めようとしない例だってたくさんあるんだ。人が理性的な生き物なんていうのは、多分、嘘っぱちなんだろうね」
わたしはそれを聞いてまた思いました。
本当に… 馬鹿馬鹿しい。
もし、できるのなら、そんなものはぶち壊してしまいたい。
ぶち壊す…。
そして、その時に、ふとある考えがわたしの中に浮かんだのです。とっても、拙い考えではありますが。
そう。そうなんです。ぶち壊してしまえばいいのです。そんなものは。
わたしは、次に杉村さんに向けてこう言いました。
「あの…… お願い事があるのです。できれば、手伝ってくれますか?」
それを受けると杉村さんは、不思議そうな顔をして、わたしの事を見ました。




