七話目
……その儀式が終わってから何日かは、何事もなく時が流れました。吉田君の予想通りに、人形の復活はなかったのです。
ですが。
「また、人形が出たわ」
それでも、人形はやって来てしまったのです。石川さんの家に。ただし、それは以前と同じ人形ではなかったらしいのですが。
「お母さん、寝込んじゃって…」
その事件にショックを受けた石川さんのお母さんは、体調を悪くしてしまったのだとか。石川さんは、少し悲しそうにしながら、それを教えてくれました。
神谷君は、少し戸惑っていましたが、「悪いな。力が足らなくて」と、本当に申し訳なさそうにそう言いました。彼に非がないのは誰の目にも明らかです。自分を責めるのは間違っているでしょう。
吉田君はそれを聞くと、少しだけ苦痛に歪むような表情を見せましたが、何も言いませんでした。
わたしは… わたしは、やっぱり嫌な気分になっていました。不気味な現象を嫌がっていた訳ではありません。別の人形が置かれていたというのなら、やっぱりイタズラの可能性が大きいのだと思います。なんで、そんな事をするのでしょう?
わたしは、石川さんのお母さんが意味もなく苦しんでいるのかと思うと、なんだかいたたまれない気分になってしまったのです。
本当は嫌だったのですが、わたしはその事を久留間さんにも伝えました。彼女はそれを聞くなり、「ちょっと、今日の放課後、あの森まで付き合って欲しいのだけど」と、そう言いました。
「どうして?」と、わたしが尋ねると「ちょっと確かめたい事があるのよ。あたし、あの人形のお墓に少し細工をしたの」とそう返してきました。
放課後。久留間さんには部活があって帰る時間帯がずれるので、わたし達は森の前で待ち合わせをしました。わたしが行くと、彼女は既に来ていて、シャベルを手に待っていました。わたしはそれを見て、彼女が何をしようとしているのか察しました。
「それ、もしかして…」
「その通りよ。掘ってみるの」
どうも彼女は、人形の墓を掘り返そうとしているようでした。たかが人形の墓で、しかも嘘の儀式で造られた墓だとはいえ、少し気が引けます。ただ、それでもわたしはそれを断りませんでした。だって、それをわたしも確かめてみたかったから。
あの人形は、今、どうなっているのでしょうか?
部活が終わった後の時間帯なので、もう辺りは薄暗くなっています。夕刻の森はそれだけで不気味で、しかも不法投棄されたゴミが散乱している人形の墓の森なのですから、どうしても異界に入ったかのような雰囲気が色濃く現れてしまう。
わたしは奇妙な気分になりながら歩きました。
もしも、久留間さんと一緒じゃなかったなら、わたしは入っていなかったと思います。
やがて、今は積み上げた石だけになっている人形の墓の前まで辿り着きました。その前まで来ると、久留間さんは腰をかがめます。それから「なくなってる」と、そう呟きました。
「どうしたんですか?」
「あたし、印をつけたのよ。もしも、誰かがこの墓を掘り返すようなら、直ぐに分かるように。赤いビー玉を目立たないように置いておいたの。
でも、それがなくなってるわ…」
どうやら、それが彼女のしたお墓への細工らしいです。わたしはそれを聞いて、少しだけ恐怖を感じました。もし、誰かのイタズラじゃなかったとしたなら…。
それからわたし達は、シャベルでお墓を掘り返しました。土は少し湿っていて、軽い。わたしの主観でしかありませんが、いかにも墓土といった感じがあります。
ザクッ ザクッ ザクッ
土の香り。
視界が不鮮明になっているお陰で、嗅覚がするどくなっているのか、掘り返す度にそれが辺りを舞うのが感じられました。その有機的過ぎる空気に酔ったわたしは、生物の身体を掘っているかのような錯覚を覚え、なんだか、とても背徳的な事をしている気分になります。
そんなに深くは掘っていなかったし、最近掘ったばかりだったので、土は比較的簡単に掘り返すことができました。だから、大した労力をかける事もなく、ちょっと掘れば、人形は直ぐに見つかるはずだったのです。でも。
「ない」
なんと、そこに人形はなかったのです。いくら掘り返してもない。場所を間違えたかとも思いましたが、人形と一緒に埋めた草履の鼻緒はちゃんと出てきてしまいました。
わたしは身の毛のよだつような感覚を覚え、久留間さんを見ました。どうやら、彼女も同じ思いだったらしくわたしを見ています。
誰かのイタズラだとしたら、その犯人は石川さんの玄関の前に、同じ人形を置くでしょう。わざわざ掘り返した人形を使わないはずがありません……。
なら?
――それから、なんとなく墓を再び埋め直すと、わたし達は無言で帰宅しました。
呪いなんか信じている訳じゃありませんが、もしも、人形が本当に勝手に動いているのだとしたら……。
怖くなったわたしはその晩、吉田君にメールを送りました。或いは、彼に相談しても、どうなるものでもない事なのかもしれませんが。わたしは言い様のない不安にかられ、その晩、悪夢を見ました。こんな夢です。
……暗い場所。
(多分、それは森の中)
そこをわたしは彷徨っている。何処へ向かう気でいるのかは分からない。足に、何かがまとわりつく。暗さのせいで、それを見る事はできないのだけど、何故だか、わたしにはそれが何かが分かっている。
人形だ。
そう、それは、当然人形なのだ。
プラスチック製のあの人形が、ボロボロになった腕でわたしの足にしがみ付いているのだ。わたしはその顔を見る。その顔は誰かの顔に似ている。
『助けて』
声が聞える。
その声を聞いてわたしは思う。
ああ、この人形は石川さんだ。わたしは思う。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
わたしには、あなたを助けることはできないの。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
でも、人形の顔はそれでもまだはっきりしない。やがて、その顔はもっと他の色々なものに化け始める。久留間さん。神山君。吉田君。杉村さん。石川さんのお母さん。そして、わたしのお母さん。わたしと縁ある数々の人々の顔へと次々と変異していく。そして、
お婆さん。
いつの間にかに、人形はお婆さんの顔になっていた。あのお婆さんの顔に。お婆さんが酷く恨めしそうな目でわたしを見る。
わたしはそれに驚いて「ヒッ」と小さく悲鳴を上げ、それから人形を投げ捨ててしまう。暗闇の奥深くへと。だけど、それから後悔をする。わたしは何て酷い事をしてしまったのだろう?あの子は、救いを求めてわたしの所にやって来たのに、それを投げ捨ててしまうだなんて。
その後悔の中、声が聞える。
『助けて、助けて』
暗闇の奥深くから。
わたしはその声の主を助けようと、その闇の奥深くへと分け入る。だけど、そこには人形なんてなかった。その代わりに、たくさんの人の死体があった。
この死体は……。
わたしには、その死体が何かが分かっていた。この死体は、わたしが殺した人達だ。
パソコンをして、美味しい食べ物を食べて、車に乗って。
そうやって、わたしが贅沢な暮らしをし続けた過程の影で、必然的に死んでいった人達なのだ。
『助けて』
声が聞える。
目を向ける。
そこには、あの人形があった。
暗闇の中、妙に鮮明にあの人形が。『助けて』。そう必死に訴えるその人形のその顔は、わたしのものになっていた。
わたしの顔をした人形は、こっちを見ながら泣いていた。『助けて』『助けて』と言い続けながら泣いていた。
――朝。目覚めるとわたしは、汗をたくさんかいていました。まるで、泣いた後のような気分で。
そしてそれでわたしは、ますますあの人形の事を不気味に思ったのです。どうして、あの人形はお墓の中から消えてしまったのだろう?
……だけど、タネを知ったなら、それは別に何でもないことだったのでした。
学校。
吉田君が、いきなり、わたしの顔を見るなり謝ってきました。
「いや、ごめん。
伝えておくべきだった」
わたしが「何の事ですか?」と尋ねると、彼はこう説明して来ました。
「実は、人形を掘り返して、別の場所に移したのは僕なんだよ」
へ?
「まさか、久留間さんもそんな事をしているなんて思ってなかったから。イタズラだとしたら、それを防ぐ為の一番の方法はもう人形を取り返せないようにする事だろう? だから、僕は掘り返したんだ。あの人形は、僕が保管してあるよ」
わたしはそれを聞いてこう言いました。
「でも、あの儀式は、ほとんどの人に内緒でやったから、心配ないって吉田君は言ってませんでしたか? 少なくとも、場所の特定はできないだろうって」
一体、久留間さんには、なんて言えばいいのでしょうか?
「そうだね。でも、一番のイタズラの容疑者が、あの場所にいたのだったら、話は別だよ、森さん」
「一番の容疑者?」
「そう。一番の容疑者、つまり、石川さん。杉村さんも言っていたじゃないか。今回の事件は、『池袋の女』の類じゃないかって」
わたしはそれを聞くと、顔をしかめました。
「ちょっと待ってください。石川さんがイタズラを? それに、『池袋の女』ってなんの事ですか?」
「なんだ知らなかったの? 森さん、怪談が好きだっていうから、知ってるのかと思ってたよ。
『池袋の女』っていうのはね、まぁ、江戸時代の迷信の一つだよ。池袋の女を雇うと、色々と怪事が起こるという。でも、一方では、下働きの女の自作自演じゃないか、ともされていたんだ。つまり、杉村さんは、今回の事件は石川さんのイタズラじゃないかって疑っていた訳だね。
ま、今度の事で、その可能性はかなり大きくなったのだけど」
「どうして、そう思うのですか?」
そのわたしの質問を受けると、吉田君は少し悲しそうな顔をしました。それから、こう説明をします。
「僕も久留間さんと同じ様な事をしておいたんだよ。人形を掘り返した後で、もし誰かがあの人形の墓を掘り返そうとしたのなら、直ぐに分かるように印をね。
案の定、その印はなくなっていた。そして、あの場所に人形を埋めた事を知っているのは、あそこにいたメンバーだけだ。
多分、人形を掘り返そうとしたのは、石川さん本人だよ。やっぱり同じ人形が一番効果があるだろうから、掘り返してまた玄関前に置こうとしたのだろうね。だけど、人形は見つからなかった。だから、別の人形で代用したんだろうさ」
効果がある?
一体、何の?
わたしは、その言葉を気にしながらも、こう問い掛けました。
「でも、一体、どうしてそんな事を?」
「だから、嫌がらせだよ。多分、自分の母親と父親に対する嫌がらせ。両親が子供を下ろした事について、彼女はショックを受けていたって日野さんって娘が言っていたろ。だから彼女は、間接的に責める方法を考えたのだろうさ。それで、あの人形を使う事を思い付いた。もしかしたら、杉村さんが言っていた怪談を知って思い付いたのかもしれない。特にこういった事を信じてしまい易い母親には効果があると思ったのじゃないかな? きっと、だから彼女はこの話が噂になる事も恐れなかったんだ。むしろ、噂になってくれた方が効果あるだろうから」
「それ、本当の話ですか?」
わたしは、その話を聞いてとても嫌な気分になりました。石川さん。石川さんのお母さん。どうして? だから、その現実を認めなたくなかったのです。
「残念ながら、その可能性が一番高いね。今のところ」
そう言う吉田君に、わたしは珍しく噛み付きました。その時、わたしは何故か、今朝見た悪夢を思い出していたのです。
(『助けて』)
(助けてあげたい)
「それが分かっているのなら、なんとかしないと駄目じゃないですか!」
すると、吉田君は覚めた目をしてこう返してきたのです。
「無理だと思うよ。人形を見つけられなかった時点で、もう止めるかと思っていたのだけど、まだ執念深く他の人形で続けるようじゃ、仕合せな結末なんて望めないよ」
「でも、」
そう淡々と言う吉田君に、やや気圧されながらもわたしは返します。
――でも。
「吉田君なら、できるのじゃないですか? 荒れた状態の掲示板をよく鎮めているみたいにして、今回の事態だって、なんとか平和な状態に持っていけたら……」
「言ったろ?
僕は自分が手に負えると判断した時にしかやらないって。今回は、完全に僕の手に負えない範疇だよ。だから、やらない。というよりも、どうともできないんだ」
「簡単じゃないですか… 例えば、真相を知らせてしまうとか」
「そんな事をしたら、完全に親子関係に亀裂が入ると思わない? 怪事件自体はなくなっても、状況はもっと酷くなるよ」
「なら。石川さんにだけ、わたし達が気付いている事を知らせて止めさせたら…」
「それでも同じだよ。怪事件はなくなっても、心の中に生じたシコリはなくならない。石川さん達親子関係の問題は解決しない。
…言うなれば二人とも、というよりもあの家族かな? あの家族は、水子の霊に憑かれているのさ。それこそ、本当の憑き物落としでもしてもらわなくちゃ、どうにもならないよ。人形の事件は、問題の表層部に過ぎないと僕は思う。妖怪がその社会の何かによって出現しているようにね。その根っこにあるものを取り除かなくちゃ、今回の事件は意味がないんだ。そして、それは僕にはできない」
そう説明されて、わたしは言いよどみました。そして、苦し紛れにこう返します。
「そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃないですか!」
すると、吉田君は静かにわたしを諌めました。
「シッ!
声が大きいよ、森さん。石川さんに聞かれちゃう」
わたしは興奮して声が少し大きくなっていたのです。気が付くと、クラスの皆から、ちょっと注目されていました。
赤くなって、わたしは黙り込みます。
黙り込んだわたしに、やや呆れたように、それでいて優しく諭すように、吉田君は語り始めました。
「……森さん。
僕が、複雑系科学に注目をしているのには理由があるんだ。複雑系科学はね、今までの科学とは一線を画す発想で物事を捉える分野で、もしこの分野が発展をすれば、例えば“戦争を少なくする”事や“貧困問題を解決する”なんて事が本当にできてしまえるかもしれないんだ。少なくともその可能性を秘めている事だけは確か。
でも、もし“戦争を少なくする”方法が発見できたとしても、今回の問題は解決できないかもしれない。
何でか分かる?」
わたしは無言で首を横に振って、それに答えました。
分からない。
「理論っていうのはね、質的なものであって量的なものじゃないからだよ。原子力爆弾は開発できても、その理論で世界平和は実現できないのと同じだね。
複雑系科学とそれまでの科学の何処が違うのかって話をしようか。
原子一個の性質を理論化する。これは、物理学の分野で実現できている。そこに捉えがたい複雑さは存在しないから。
さて。では、その原子が多数集まった場合は理論化できないのだろうか? 実は、これも理論化できる。ただ、原子一個一個の繋がりを全て理論化するなんて事は不可能だ。何億個って数の原子の振る舞いを、個別に捉えるなんて事ができるはずがない。いや、そもそも原子一個だって、それがどう行動していくかなんて予測できないんだ。原子がたくさん集まるとね。だから、これには統計学の発想を用いる。統計的に、原子群の性質を捉え、それを理論化する。そうして誕生をしたのが、統計力学だね。これは数学の分野で、確率統計の概念が登場した事によって登場発展した分野だ。ほら、僕らも習った事のあるボイル・シャルルの法則とか、アボガドロの法則とかだよ。
そしてこれは、実は社会科学の分野でも同じ事が言える」
社会科学でも? これは、自然科学のお話ではなかったのでしょうか?
「人間一人一人の性質は、ある程度は理論化する事ができる。まぁ、心理学とかそういうのだね。ところが、人間がたくさん集まるとその関係性を個別に理解するなんて事は不可能になってくるのさ。だから、物理学の場合と同じ様に、それを統計的に捉えるって事をしなくちゃならない。集団心理学とか社会心理学とかがそれだね。
経済学で観ると、もっと分かり易いかな?
値段を安くすれば、その他の条件が全て同じならば、商品の需要は高くなる。これは簡単に予測できる。でも、これが個人になると、その人がその商品を買うかどうかは、全く予測ができなくなるんだ。
つまり、数学では秩序だったものしか扱えないから、膨大な数で構成される無秩序なものを扱おうとするのには、全体で一つとして統計的に捉え、それを単純化する必要があるって事だね。それが今までの科学の常識で、数学の限界でもあったんだ。でも、こういった方法では扱えないものも、世の中にはたくさんあるだろう?」
わたしには、吉田君の話の意図が見えていませんでしたが、それでも無言でそれに頷きました。
「無秩序と秩序の間にあるようなもの。そういった単純には捉えられないようなものも世の中にはたくさん存在する。そして、そういうものは、これまでの科学では捉えきれなかったんだ。だけど、最近になってコンピュータの登場によって研究が可能なった複雑系科学では、なんとかそれに挑めるようになってきた。そして、さっきも言ったけど、この分野が発展をすれば“戦争を少なくする”なんて事も可能になるのかもしれないのだね。戦争に関しては有望じゃないかと僕は思ってる。何故なら、戦争は僕らが思っているような複雑な現象なんかじゃないからだ。その発生要因は比較的単純なんだね。歴史を観れば、戦争は何か資源が枯渇した場合に多く起こっている事が分かる。つまり、戦争は少ない資源の奪い合いなんだ。だから、貧困が酷いところで、戦争はよく起こっている。貧困問題を解決できれば、戦争は少なくできるよ。まぁ、だから、エネルギー問題は、より深刻な問題だって言えるのかもしれないけど… なんにしろ、これから複雑系科学を発展させていけば答えは見えてくるはずだ」
そこまでを語って、吉田君は一度話を切りました。それから、わたしの様子を確認するように見ると、また話を進めます。
「僕が掲示板で時々やっている、荒れた状態を治めるってのはね、実は集団心理学の範疇に入るんだよ。ネット上の掲示板って多人数が見るだろう? だから、こういった働きかけをすればこういった反応が返ってくるって、ある程度は予測する事が可能なんだ。だけど、今回の石川さんの事件はそうじゃない。秩序と無秩序の間。それは、複雑系科学の範疇だけど、まだこの分野は発展していないし、それに第一、発展しても解決できるようになるかは分からない。
だから、僕には無理なんだ。多分、今回僕にできる事は全てやったと思う」
わたしはその話を聞いて、納得をするよりありませんでした。初めから、彼にこの問題を解決しなければいけない義理なんてないのです。彼を責めるなんてできない。でも。
「でも」
そうわたしはそれから口を開きました。“でも”という言葉には否定の意味が込められているのだそうです。つまり、それは攻撃の言葉なのだとか。そうなんです。わたしはまだ諦めてはいなかったのです。
その一言目に反応して、吉田君はわたしを制しました。
「森さん。
辛いのなら見ないようにすればいいんだよ。ただ、それだけの事だ。君は、いつもそういう方向に努力をしてしまうのじゃなかったのか? 僕はどうにもできないと悟った時はそうしてるよ。それは正しい判断だ」
「……わたしが見ないようにしたって、問題は存在しています」
「違うね。君がそれを見なければ、問題は本当に存在しないんだ。君が認識をしなければ、君の世界には何も存在をしない。エイズで親を失い、孤児となって飢えている何千人という子供達も。戦争で殺し合いを続け、悲惨な連鎖を繰り返している現実も。環境破壊によって深刻な危機に立たされている自然も。役人の不正によってもたらされる財政危機も。僕らの不安な未来は、認識さえしなければそこに本当に存在しないんだ。だから、みんな平気で暮らせているのじゃないか」
わたしは… それを聞いて無言になりました。わたしは、もうずっと前からそれを知っていたから。知っていたけど、知らない振りをしていただけだから。それを認めてしまうのは、わたしが(わたし達が)本当に独りである事を知るのと同じだから、わたしはその答えを避けていたのです。ずっと。
「森さん」
吉田君はまた言いました。
「君が、誰かを助けたいと思うのはね、飽くまで君自身の欲望なんだ。君の欲望に過ぎない。もちろん、罪悪感も伴っているかもしれない。でも、だとしたって、それが君の欲望である事に変わりはないよ。そんなに大したものじゃないんだ」
それが、ダメ押しでした。
わたしには、吉田君を説得する事なんてできない。そう、諦めるしかなかったのです。
「本当に現実を見ないようにする事ができれば、楽になれるよ。世の中なんて、ままならない事だらけなんだから、それができなくちゃ生きていけないじゃないか」
吉田君は最後にわたしを、そう慰めてくれました。もっとも、わたしはちっとも楽になんかならなかったのですが。