三話目
その頃のわたしに出来た交流は、久留間さんとのものだけではありませんでした。ささやかな交流ではありますが、こんなわたしでも、ネットを利用してちょっとした人との関わりを築く事ができたのです。
地域密着型のインターネットが普及し、発展していく中で、徐々に通常のネットにあるようなチャットや大型の掲示板のようなものも発生していきました。そして、わたしはその内の一つをよく見るようになったのです。
わたしは小さな頃から、不思議な話が好きでした。昔話とか、怖い噂話とか。それでよく図書室や図書館で長い時間を過ごしたりしていたのです。高校になると、インターネット上で不思議な話を読むようになりました。ネットですと、お金がかかりませんし、それに、何処かの知らない場所の噂話よりも、近所で囁かれている話の方が臨場感を楽しめます。しかも、この地域の巨大掲示板には、質の良いものを簡単に探し出す事のできるシステムが整っていたのです。
その掲示板、名前を“ピープル・プール”といいます。通称は、“プール”。
このプールという掲示板には、何しろ巨大ですから、かなり大量の書き込みがあります。普通に考えると、そんな中から質の良いものを探し出そうとするのはとても大変に思えます。しかし、この掲示板では採点システムを執っているので、それが簡単に行えるのです。
採点システム。
この掲示板を利用するには、登録が必要なのですが、その時に採点ができる権利と同時に採点を受ける責任が与えられます。それで誰かの書き込みに対して、点数を付ける事が可能なのですね。そして、たくさんの書き込みの中で、高得点を獲得したものだけを見るなんて事ができるのです。
逆に、もちろん、低い点数のものを見る事もできるし、そういった書き込みを避ける事もできるのですが。
因みに、これによって、いわゆる“荒らし”や“宣伝書き込み”の予防も行っています。荒らされた場所は、当然低い点数を付けられる事になり、人目にも晒されにくくなって、自然の流れで簡単に忘れられていくのです。
つまり、こういったルールを敷く事で、自動的に秩序が保たれるようになっているのです、この掲示板は。人間を統制して、秩序を保つのには大変な労力が必要ですが、こういう工夫をしておけば最低限の労力でそれができるのです。
面白いのは、高い点数を獲得した人は点数を与える権利が強くなる事でしょうか。良質な書き込みをした人は、それだけ評価能力も高いと見なされるのですね。もちろん、逆に低い評価ばかり受ける人は、点数を与える権利が弱くなっていきます(ただ、自分にどれだけの評価能力があるのかは、自分では知る事ができません。そして、この評価能力は時間当たりで限られてもいます)。
どちらにしろ、自分から書き込みをする事が稀なわたしには、採点の権利の強弱はあまり意味がないかもしれませんが。
ただ、そうなると、高い評価を受けるのは最大公約数的なものばかりになってしまいます。マイナーな意見であるけど面白いものが見過ごされる事になり兼ねません。それに、高い評価権利を得た人が意図的に、ライバルの意見を潰そうとする場合なんかもあるかもしれない。
それで、高い評価と低い評価…… つまり賛否両論あるものを、特別に探し出すシステムもこの掲示板には備わっているのです(よく分からないのですが、統計解析を行って標準偏差の高いものを集めるのだそうです)。わたしが吉田君と知り合いになったのは、そんな賛否両論ある内容をわたしが探していた事がきっかけになりました。
登録が必要で、こういった制約もあるとなると、この掲示板はかなり不自由に思えるかもしれませんが、中々どうして、このプールという掲示板には自由な雰囲気があります。登録しなくちゃならない、と言っても、掲示板内で名乗る名前は自由ですし、犯罪に触れなければ自分の情報がさらされる事もない。だからちょっと過激な内容が書き込まれる事もしばしばあるようです。それに、みんなから高い評価を受ける事が面白いのか、論巧みに様々な主張が熱心にされていたりもします。
わたしが、プールを利用しているのは、先に書いたように不思議な話を読む事が目的ですから、あまりそういうものは読んではいなかったのですが、最大公約数的なものばかりを読んでいると、流石に少しだけ飽きてきてしまって、ちょっと、賛否両論ある話の領域にも足を踏む入れてみたのです。そしてそこで、面白い書き込みを目にするに至ったのでした。
半分は初めからの掲示板の名目で、もう半分は様々な人が書き込みをする内にできた自然の境界線で、どの板にどんな内容が書かれるかといった事は大体決まっています。と言っても、時にはそれを無視して投稿する人もいて、そういう投稿は往々にして批判の対象になったりするようです。
そして、その日わたしが見たその内容は、境界線が曖昧で、どう判断したら良いのか判断に困るようなものでした。恐らく、だから賛否両論があったのだと思いますが、でも、だったらどの板に載せるのが相応しいのかと問われると、少々困ってしまいそうなものでもありました。
自然の流れで形成された怪談の感想を書くための掲示板… と言っても、純粋な感想から、デマだという主張や由来を推測したり話の作りを分析したりするものまで様々なのですが、とにかく、そういった怪談に関わる事を書く板。そこに、それは書かれてありました。
怪談に関係がある事は確かなのですが、その内容は社会の自己組織化現象(わたしはその時に、その概念を初めて知りました)に関わる事を書いたものでした。
人と人とが関係すれば、様々な自己組織化現象が起こる。そして、怪談もそんな自己組織化現象によって生まれるものの一つだ。
正直、難しくてよく分からなかったのですが、そこにはそんな事柄が述べられていました。ここに書くような内容じゃない、と多少、攻撃されていたようですが、それを書いたYという投稿者自体は無反応でした。ただ、どうもこの投稿者はそれなりに有名な人なようで、庇おうとする人がたくさんいて、その所為で軽く荒れたような状態になっていました。
庇われている。
わたしは当初は投稿の内容よりも、その事に興味をそそられて、この人物の事を掲示板内で検索してみたのです。
すると、その人物が普段は、様々な荒れた状態、または荒れそうな状態の掲示板を鎮めている人なのだと分かりました。庇おうとしている人達は、もしかしたら恩返しのつもりだったのかもしれない、とそれでわたしはそんな事を考えました。
荒れている状態を鎮める。これは中々に難しいはずです。
興奮は興奮を呼んでしまうから、鎮めようと投稿すればするほど逆効果になって、火に油を注いでしまう。
わたしはその人の書いた内容をゆっくりと読んでみる事にしました。どうやって、それをやっているのか、その方法を知りたかったからです。
すると、大体のいつもパターンは決まっているようでした。対立する二者のどちらにもつかず、できるだけポジティブな言葉を使って、議論自体を霧消させてしまう。中には、真っ向から反駁してしまっている場合もありましたが、基本はそういう態度なようです。
分かり易い例を一つ挙げると、ある新人コメディアンに対する悪口と、それに対する苦情で発火してしまっている掲示板。
その人は、その悪口を書かれている新人コメディアンが、大物のコメディアンから高い評価を得た事をまずは書いていました。これは恐らく権威の利用です。人間は、半ば無意識的に権威には従ってしまう生き物です。だから、これはとても効果的なのでしょう。
ですが、それを材料に悪口を書いた人間を非難するのかと言えばそうはしません。その人は次にこう繋げるのです。
『面白さは主観的なものだから、人それぞれ。他人が面白いというそれが、自分には分からない事も当然あります。つまらないのなら、つまらないで、それもまた正しい… それでいいのだと思います』
つまり、逆に弁護するのですね。そして、そうしておいてから、
『ただ、どちらにしろ、自分一人の好き嫌いに大きな価値なんかありませんが』
と、議論自体の無意味さを語ります。ただ、無意味さを語ってはいますが、直接に誰を非難している訳でもないですから、これに対する反論は発生し難いはずです。大体において人間が反論するのは、自分が攻撃されたと思うからなのだと思います。だから、誰も具体的には攻撃していないのであれば、反論は出てき難い。
そしてこの人が、これを最終的には何処に落ち着けたのかというと、
『因みに、僕はこの人が大好きです』
と、終わらせる。
好きだとか、良いだとか、ポジティブな言葉は、人に好印象を与えます。これも、ネガティブな罵り合いに発展しそうな場を鎮める効果があるのでしょう。
この後にも、少し書き込みがありましたが、それは荒れた状態とは言えない平和な内容になっていました。わたしもこのコメディアンが好きだとか、そういった。
その他にも、辛辣過ぎる批判に対しては『言いたい事は分かるけど、反感を与えるような批判の仕方は逆効果で、相手を助けてしまいますよ』と言って止めさせたりとか、明らかに迷惑をかける人間に対しては、『何かあったのですか?』と心配をするような言葉をまずは贈り敵対心を和らげておいて、『こんな事で捕まるのは馬鹿馬鹿しいから止めた方がいいですよ』と危機感を煽るような(その人は猥褻な言葉を列挙していたのです)忠告で、それを止めさせたりなんかしていました。
そういった内容を読み進める内に、わたしはこの人物に、更に興味が沸いてきました。一体、どんな人なのだろう?
そして、多少、不謹慎だとは思いつつ、その人が投稿している時間帯を調べてみたのです。すると、平日の昼間には投稿をしていない事が分かりました。少なくとも、自由業の人ではなさそう。投稿される時間帯は、休日を除いては、夕方から夜までと大体決まっています。学生か、会社勤めのサラリーマンかでしょうか。
この“ピープル・プール”という掲示板は、地域密着型インターネットの掲示板です。他の地域に住む人も登録が可能ですが、それでも利便性を考えるのなら、この人はわたし達の地域に住んでいる誰かだという可能性が高い。
そしてだから、わたしはもしかしたら、この人に会えるかもしれない、なんて淡い願望を持ってしまったのです。もっとも、地域密着型と言っても、市規模くらいの大きな範囲をカバーする掲示板なので、やっぱり無理だろうとほとんど期待はしていなかったのですが。
――でも。
なんとその人は、わたしと同じクラスにいたのでした。
吉田君。
彼は不思議なというかなんというか、マイペースな独特の雰囲気を持った男子生徒でした。
彼は神谷君という男子生徒とよく一緒にいて、この神谷君は、吉田君に比べればそれほど変わった印象を受けません。ただ、神谷君は神谷君で、ちょっと変わった所があって時折、不思議な事を口にしたりします。耳に届いてくる話だと、どうも霊だとか、そういったものの類を見る事ができるのだとか。
わたしは… 前にも書きましたが、そういう話が好きなもので、初めは、吉田君よりも神谷君に興味があって、この二人をよく注意していたのです。もしかしたら、不思議な会話をしているかも、と思って。
運よくわたしは、この二人と近い席だったので、時々、二人の会話に聞き耳を立てたりなんかしていました。
不謹慎な行為だとは分かっていたのですが、これは半ばわたしの癖みたいなもので、人に話しかける機会が少ない分、わたしはそんな事で人とのわずかな繋がりを保とうとしてしまうのです。
もしかしたら、消極的ながら、少しでも他人と同じ世界にいようしているのかもしれません。
すると、偶に会話の内容に、何か気になる単語が出てくるのです。しかも、それらを使うのは決まって吉田君の方でした。
自己組織化現象。
複雑系科学。
ネットワーク。
創発。
怪談… 風習。
それらは、わたしが気にしているネット上の人物がよく使っていた単語だったのです。自分の考えを述べる際に。もしかしたら、とわたしはそう思いました。そういえば、その人物のハンドルネームは“Y”でした。もしかして、吉田のイニシャルの“Y”なのでしょうか?
わたしはそう思った時に、自分でも笑ってしまうくらいに動揺をしました。棚からぼた餅というか、思いも寄らぬ所で、思いも寄らぬモノを見つけてしまったその不意打ちに、簡単に精神が揺れてしまったのです。
わたしはその時に、何故だか、その場所から逃げ出そうとしてしまいました。そんな行動を執れば、却って目立ってしまう事は分かっていたにも拘わらず。そして、間抜けにも椅子から立ち上がるのに失敗をしてしまって、椅子を倒してしまったのです。
当然、二人はわたしの事を見ました。わたしが慌てながら椅子を直す様を二人は黙ってみています。
そして。
その場からわたしが離れる刹那、神谷君が意味の分からないこんな台詞を言ったのでした。
「ふーん、なるほど。君は、謎の女子高生『田中かえる』な訳か」
は?
本当に意味が分かりませんでした。
謎の女子高生『田中かえる』とは、近頃ささやかれている半ば冗談のような噂話…… 怪談の類で、蛙を引き連れた正体不明の女子高生が近所に出没する、というものです。
わたしは確かに女子高生だし、それに、人との関わりを拒絶するようなところがあるから、他人から見れば、多少、謎な部分がある事は認めます。でも、決して妖怪と言われる程ではないはずです。
ただ、神谷君の口調は、わたしを馬鹿にしたものではなかったので、悪口ではないのかもしれません。だけど、悪口じゃないとしたら、一体何なのでしょう?
もしかしたら… 霊視?
噂の。神谷君の。
まさか、とその時はそう思いました。
その日の晩に、吉田君からメールが届きました(前にも書きましたが、地域内限定で相手にメールを送る機能が、地域密着型のインターネットには備わっているのです)。そこには昼間の神谷君の言葉は気にしなくていいといった事と、あるチャットのアドレスとパスワードが書かれてあって、そこにこんな文句が添えられてあったのです。
“気になるのなら、神谷君の発言の意味を、このチャットで詳しく説明する”
と。
気になる、というのならもちろん、わたしを『田中かえる』と言ったあの発言も気になりましたが、それ以上に私には吉田君自体が気になりました。もしかしたら、吉田君は掲示板“プール”のあの人物なのかもしれない。
わたしはそれを確かめたくて、そのチャットにいってみる事にしました。
指定されたのより、少し早い時間に入ったのですが、既に吉田君はそこで待っていました。律儀な人のようです。
しばらくが経つと、パソコン画面上に、文字が現れる。
『こんばんは。
来るのじゃないかと思ってたよ』
わたしは少し迷うと、こう返します。
『こんばんは。
ここは、誰かに見られたりする心配はないのですか?』
『誰かに見られて困るような会話をするつもりはないけど、でも、誰にも見られないはずだよ。時間限定で貸し出される、パスワードのついたチャットだから』
どう続けようか迷ったわたしは、それから神谷君の事を話題にしました。
『あの… 神谷君って、霊視ができるって噂で聞いたのだけど、まさか、わたしを田中かえるって言ったのは……』
本気でそう思っていた訳ではないのですが、繋げる言葉が思い付かなかったから無理矢理に書いたのです。ところが、吉田君はそれを肯定したのでした。
『いい勘してるね。その通りだよ
ただ、霊視なんかじゃないけどね。多分』
多分……
『どういう事ですか?』
『神谷君が見ているのは、多分、霊なんかじゃないって話だよ。もし、霊なのだとしたら、君は田中かえるになってしまうけど、そんなはずはないだろう?』
『はぁ…… 』
それは、そうなのでしょうが、でも、だとすれば何だと言うのでしょう?
『神谷君が見ているのは、人間関係なんだよ。少なくとも僕はそう思ってる』
『人間関係が見える?
すいません。よく意味が分からないのですが』
普通は分からないと思います。わたしは吉田君の回答を待ちました。
『例えば、誰かと誰かが敵対しているとする。すると、その雰囲気だとかが神谷君には視覚的なイメージとして知覚される……
そんな感じだと思ってくれれば、理解し易いかもしれない。ただ、そういった単純なものかと言うと、必ずしもそうじゃないのかもしれないって僕は考えているのだけど。だから、君の事を神谷君が田中かえると呼んだのは、興味深いって僕は思ってるんだ』
確かに、単純に人間関係で謎の女子高生『田中かえる』と言われたのなら、それは要するに悪口です。
『多分、神谷君が見ているものは、それよりももうちょっとだけ深いものだ。そして、それには創発現象が絡んでいる。と、僕は考えているのだけど…』
創発?
またその単語です。あの人物が書く内容によく登場する言葉。わたしはその単語の意味を尋ねる前に、思わずこう問い質してしまいました。
『……あの、もしかして、吉田君は掲示板プールによく書き込みをしている“Y”って人ですか? その人がよく“創発”って言葉を使っているのですが』
すると吉田君は、あっさりとそれを認めたのでした。
『なんだ、見た事あったの?
そうだよ、時々書いてる。あんまり、いい反応は返ってこないけどね』
『でも、吉田君は荒れた掲示板をよく鎮めたりしているじゃないですか。わたし、本当に凄いと思っていたんです』
少し興奮をしたわたしは、思わずそんな書き込みをしてしまいました。
『僕はなんとか治められそう、と思った時しか書いてないからね。手に負えない、と判断した時は書いてない。だから、結果的に凄いように見えているだけだよ、森さん。それに、よく失敗もするんだ。まだまだ、青いよ僕は』
吉田君はそう謙遜していましたが、鎮められると判断した時だけ書き込んでいるだとしても、それでも充分に凄いと思います。わたしには絶対にできないから。
『あの…… “創発現象”って何ですか?』
それから、ようやくわたしは、その事を質問しました。吉田君が興味惹かれているそれを少しは知ってみたいと思ったのです。
『一言で言うのであれば、無秩序の混沌の中から、秩序が出現する現象…… かな?
例えば、純粋に物理的な事には、リンゴだとかニンゲンだとかないよね? 原子とか分子だとかの領域にはさ。でも、分子なんかが化学反応を起こして、相互作用を繰り返すとそこに生命が誕生して、リンゴやニンゲンが出現する。
そういった、基盤となる分野には存在しないで、その上の領域ではじめて物事が出現する現象を創発と呼んでいるのだよ』
そう説明すると、しばらく間をためてから吉田君はこう続けました。
『そしてこの創発は、人間社会でだって起こっているんだ。様々な社会で生まれる文化的特性は、みんな、創発現象だって僕は考えている。人間達が相互作用して、社会を形作るとそこに自己組織化が起こって、様々なものが産み出されるんだ』
その時に、吉田君はアリを例え話に持ち出しました。
『これは何も人間社会が特別だって訳でもないんだよ。例えば、アリの社会にだって創発現象が観られる。
アリは… 自己組織化現象を利用して生存している代表的な社会性動物の一つなのだけどね。
森さんは、アリの巣に成長過程があるって考えた事がある?』
アリの巣に?
アリの事を真剣になって考えた事はありませんが、なんとなく、誕生と終わりがある事くらいは想像していたようには思います。
『誕生があって終わりがあるくらいは、なんとなく思ってましたけど』
『ふふふ。アリの巣は、もっと面白いのだよ。なんと、幼年期があって若い時期があって成熟があって老いがある。つまり、文字通り成長していくのさ。不思議なのはね、アリ達一匹一匹の寿命はそんなに長くないって事。古いアリは死に、新しいアリが生まれ続けてるのに、巣全体は物事をちゃんと学習して行動を変える。
もちろん、アリ達には言葉なんてないから次の世代に歴史を残したりもできない。では、どうしてこんな事が起こるのだろう?』
わたしはその質問には答えられませんでした。もちろん、これは返答を期待した問い掛けではないのでしょうが。
『アリ達は、その膨大にいる個体間の関係性の中にアリの巣の自己同一性を保持している。どうも、そう考えるしかなさそうなんだ。そして、これは僕ら人間の身体、いや、多細胞生物の身体全般に言える事でもある。
多細胞生物の身体を構成する細胞は常に新しいものに生まれ変わっている。にも拘わらず、僕らは同じ自分を保持し続ける事ができてしまえている。病原菌に対して免疫ができれば、それは半永久的に保持される。これは創発によって引き起こされる、重要な現象の一つだと僕は考えているんだ。直感的には把握し難くて、だから、見過ごされてしまう事が多いけどね』
わたしはそこまでの吉田君の説明を読みながら考えていました。吉田君は、これと同じ現象が人間社会にも起きているとそう主張していた。そして、神谷君の見ているものはそれじゃないかとも。
なら。
もしそれが本当で、神谷君がわたしを『田中かえる』だと言ったとしたなら、吉田君がわたしにメールを送った理由もなんとなく想像がつきます。
わたしがどんな人間なのか、絶対に吉田君は気になるはず。
『つまり吉田君は、人間社会の文化特性も人間関係の中に保持されていて、怪談やなんかもその一つだって言っているのですか?』
わたしが質問をそう投げかけると、ちょっと間ができました。吉田君が何を悩んでいるのかは分かりませんが、どうもわたしは彼のツボに触れてしまったようです。
文字だけの会話なので、相手の表情が見えない。その事がわたしを不安にさせました。
『その通りだよ、森さん。
確かに人間は言葉が使える。それで、次の世代に文化を伝える事ができる。でも、文化の特性をそれだけで説明できるだろうか?
僕は、それだけじゃ弱いような気がするんだよ。
人間は文化を創発する。創発されたそれは、人々の関係性の中に保持される。それが文化特性を保持できている大きな要因になっているのじゃないだろうか?
そして、面白い事に、自然に人々の間で生成される物語は、昔も今も、何故か圧倒的に奇談怪談の類が多い。
不気味な話。不思議な話。おそろしい話。
更に、そういった物語に登場するキャラクター… “妖怪達”はいつまで経っても、人々の間で親しまれている。河童。天狗。鬼。そんな事が起こるのは、それらが文化特性として、人間関係の中に保持されている存在だからじゃないだろうか?
こうやって考えてみると、古くからの妖怪を題材にしたメディアが、根強い人気を誇っている意味も分かる気がするんだ。それは、僕らの間に保持されている関係性の権化でもあるのかもしれないのだから…。
それを見抜く目ってのは、素晴らしい能力だよね』
関係性の権化……
わたしは、その部分に反応をしました。神谷君の見たもの。わたし。謎の女子高生『田中かえる』。
わたしは吉田君の説明が終わったのを見計らって文字を打ちました。
『あの。なら、謎の女子高生、田中かえるはどんな人間関係の象徴なんでしょうか?』
神谷君が、わたしをそう呼んだ理由は。
『それは僕にも分からないよ。でも、少なくともそんなに悪い事ではないような気はしている。田中かえるからは、そんなに悪いイメージは受けないだろう?
それに、神谷君が見えるものには、その人がどんな人物かって事も影響しているんだ。君が、どんな人間なのか。もしかしたら、今回は、そっちの方に注意してみるべきなのかもしれない』
……それから吉田君は、神谷君がどんなものを見ているのかについて、もう少し詳しく解説してくれました。
(もちろん、単なる推測に過ぎないのだそうですが)
神谷君は、人間のわずかな表情、動き、或いは匂いなどの、通常は見過ごしてしまうような微妙な情報を無意識の内に集め、それを視覚的なイメージとして捉える事ができる。だから、人間関係が直接的に見えている場所じゃないと、その力は発揮できない。
そしてだから、時にはその人間の隠れた特性を言い当てる事もある。
隠れた特性。
吉田君は、わたしの人間関係上の立場とわたしの特性が、神谷君にわたしを謎の女子高生『田中かえる』に見せたのじゃないか、とそれから自分の考えを述べました。
でも、そう言われても、謎の女子高生『田中かえる』をイメージできるような自分の特性なんて、少しも思い当たりませんでしたが。せいぜい、影が薄くて、あまり自分を主張しない程度でしょうか。