第三十四話 あなたと帰る夜
仮縫いとお直しを終えたドレスが届いてから、夜会の日を指折り数えていた。
ようやく迎えた当日、わたしは鏡の前で、もう一度身体の向きを変えた。
銀灰色の裾が柔らかく揺れる。
ひだの奥に隠れていた模様が、明かりを受けて浮かび上がった。
「ルシアン様がお見えです」
「ありがとう。すぐに行くわ」
まとめた髪に触れかけて、手を下ろす。
もう何度も確かめたのだもの。これ以上直すところなんてないはずよ。
応接室の扉を開けると、ルシアンが立ち上がった。
濃い色の上着の下には、銀灰色のベスト。
わたしのドレスと同じ模様が見えて、思わず笑みがこぼれた。
「ルシアン。お待たせしたわ」
彼はわたしを見つめたまま、返事をしない。
少し心配になって、そばへ進んだ。
「……どうかした?」
「綺麗で、言葉が出なかった」
そんなにまっすぐ言われると、今度はわたしが困ってしまう。
「ありがとう。あなたも、とても素敵よ」
差し出された手に自分の手を重ねる。
ルシアンはその指先に、そっと口づけた。
「最初に見せてくれて、ありがとう」
「約束したでしょう?」
「うん。迎えに来るのが楽しみで、少し早く着いてしまった」
そうだったのね。同じくらい楽しみにしてくれていたのだと思うと、頬が緩む。
玄関でお父様と合流すると、二人の装いを見比べて頷いてくださった。
「よく似合っている。では、王城で」
先に出たお父様の馬車に続き、わたしたちも邸宅を出発した。
***
王城の広間には、音楽と人々の話し声が満ちていた。
ルシアンの腕に手を添えて進むと、明かりの下でドレスの裾がきらりと光る。
「まあ。お二人で揃えていらっしゃるのね」
声をかけてくださったのは、公爵夫人だ。
足を止めて挨拶すると、夫人はわたしのドレスからルシアンのベストへ視線を移した。
「同じ織物でしょう? とても素敵だわ」
「ありがとうございます。二人で選びました」
「隣国で評判になったと伺って、お話を聞きたかったの。今度、領地で祝いの席を設けるのだけれど、家族でも揃えられるかしら」
「もちろんです。どのような装いをお考えでしょうか」
「それが、娘とは好みが違うものですから。私に合わせると、あの子には落ち着きすぎる気がして」
お嬢様の好きな色や、普段の服について伺う。
話しているうちに、そばにいらした侯爵夫妻も輪に加わった。
「同じ布を使うなら、皆が同じ色になってしまいませんか?」
侯爵夫人の問いに、わたしは自分のドレスへ手を添えた。
「広く使うと、わたしのように全体の色になります。お好きな色を主にして、共通の布を腰や袖に取り入れることもできますよ」
「それなら娘も喜びそうね。ぜひ相談に乗っていただきたいわ」
「ありがとうございます。違う色を合わせた見本も、ご用意いたします」
「領地へ持っていきたいのだけれど、間に合うかしら」
出発の日取りを伺い、仮縫いには王都でお越しいただけることを確かめた。
「職人の予定を確認して、お返事いたします。お嬢様にお会いできるのも、楽しみにしております」
夫人と後日の連絡を約束し、頭を下げた。
隣では、ルシアンも侯爵と隣国の取引について話している。
わたしに合わせて選んだベストを着て、いつもの落ち着いた声で受け答えをしていた。
***
夫人たちとの話を終え、お父様のもとへ向かった。
明日、職人の予定を確かめたいと短く伝えると、お父様は頷いた。
「こちらでも、お前を紹介してほしいと言われたよ。あとで挨拶をしよう」
「ええ。ぜひ」
「その前に、少し楽しんでおいで。せっかく二人で来たのだから」
ちょうど曲が終わり、踊っていた人たちが戻ってくる。
ルシアンがわたしに向き直り、手を差し出した。
「一曲、僕と踊ってくれる?」
「喜んで」
お父様に会釈して、広間の中央へ進む。
向かい合うと、ルシアンの手が背に添えられた。
次の曲が始まる。
一歩踏み出し、彼に導かれて向きを変えると、裾がふわりと広がった。
「さっき、僕の方を見ていたね」
「気づいていたの?」
「うん。何か伝えたいことがあった?」
「……似合っているなと思って、見ていたの」
彼が笑う。
わたしはその顔を見上げて、つないだ手に少し力を込めた。
「仕事をしているところも、素敵だったわ」
「そんなに褒められたら、足を間違えそうだ」
「あなたが?」
「君に言われると、ね」
冗談めかした声に、わたしまで笑ってしまった。
背に添えられた手は変わらず優しく、わたしの歩幅に合わせてくれる。
「今日、この服を着て来られてよかったわ」
「うん。二人で選んだ甲斐があったね」
曲が終わりに近づくのが惜しくて、わたしは次の一歩をゆっくり踏み出した。
そのあとは、お父様に紹介された方々と挨拶を交わした。
隣国のお店について尋ねられ、話しているうちに、夜はすっかり更けていた。
王城の玄関でお父様と別れ、ルシアンと馬車に乗り込む。
隣に座ると、肩から力が抜けた。
「疲れた?」
「少し。でも、とても楽しかったわ」
膝の上のドレスを整え、彼へ顔を向ける。
「夜会って、帰り道も自分の受け答えを気にしてしまうものだったの。今夜は、楽しかったことばかり思い出すわ」
「僕も、君と来られてよかった」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
ルシアンは微笑んだあと、少し間を置いた。
「実は、今夜は君の前のご主人も来ていたんだ」
「……アーヴィン様が?」
「うん。レインハルト子爵と呼ばれていてね。近くにいた方に確かめたら、爵位が変わったそうだよ」
「子爵……。そうだったの。知らなかったわ」
驚いたけれど、広間にいた彼の姿は思い浮かばない。
あの家の近況を、ずいぶん長く気にしていなかったことにも気づいた。
「君が夫人たちと話していたとき、少し離れたところにいたよ。君を見ていた」
「まったく気づかなかったわ」
「その場で知らせたら、気になって楽しめなくなるかもしれないと思って」
「皆様とのお話が楽しかったし、あとはあなたしか見ていなかったもの」
あ。と思って口元に手を当てる。
ルシアンは一度目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「……それは、聞けてよかった」
「だって、本当のことよ」
もう取り消せない。
熱くなった頬を隠すように俯くと、膝の上に置いた手を取られた。
しばらく、車輪の音だけが続く。
「エレノア。一つ、聞いてもいい?」
「ええ」
ルシアンが、つないだ手へ目を落とした。
「彼のことを、愛していた?」
すぐには答えられない。
自分を必要としてくれるのが嬉しくて、一生懸命支えようとしていた。
幸せな家庭を築きたいと思っていたのも、嘘ではないわ。
「……愛そうとしていたわ」
彼は顔を上げ、黙って聞いてくれた。
「夫になる方だったから、大切にしたかったし、わたしも愛してもらいたかったの。でも、今はもう、あの方に望むことはないわ」
会って何かを話したいとも、今のわたしを見てほしいとも思わない。
手を握ってくれている人の方が、ずっと気になる。
「気にしていたの?」
「今夜、彼を見たらね。僕の知らない君と、夫婦として過ごした時間があるんだと思って」
ルシアンは困ったように笑った。
「少し、妬いたんだと思う」
わたしは彼の手を、両手で包み直した。
いつも落ち着いている彼が、そんなことを考えていたなんて。
「今、一緒にいたいのは、あなたよ」
視線が絡み合う。そのまま、そらさずに続ける。
「今夜も、明日も。その先も」
今日も帰り着けば、おやすみと言って別れる。
次に会う約束をするのも嬉しいけれど、最近は、それでは足りないと思う。
「あなたは……わたしと、これからどうなりたいと思っている?」
ふうっとわたしが息を整えていると、
ルシアンは座席の上で、わたしへ身体を向けた。
「結婚して、君と暮らしたいと思っているよ。朝、起きたら君に会えて、仕事から帰ってきても、また会える。そういう毎日を、君と過ごしたい」
彼が、わたしの手を強く握り返した。
朝の食卓にルシアンがいて、わたしが向かいに座っている。
今日は何をするのかと話し、帰ってから、その続きを聞く。
わたしも、そうしたかった。
「あなたも、同じことを考えていたのね」
「エレノアも?」
頷くと、彼の目が大きくなった。
「一緒に夕食をとって、時間を気にせずお話ししたいの。おやすみと言っても、次の朝にはまた会えるでしょう?」
もう一度誰かの妻になることを、怖いと思っていた。
今は、彼との暮らしを思い浮かべるだけで、こんなに胸が温かい。
「わたしも、あなたと結婚したい」
返事がないまま見つめられる。
「……ルシアン?」
「ごめん。嬉しくて」
彼はつないだ手を持ち上げ、指先に額を寄せるようにして目を閉じた。
その仕草に、わたしまで胸がいっぱいになる。
やがて背に腕が回り、わたしも彼へ身を寄せた。
頬に、銀灰色のベストが触れる。
この布を一緒に選んだときには、今夜こんな話をするなんて、思っていなかった。
「ずっと、一緒にいたい」
耳元で告げられ、わたしは彼の上着をそっとつかんだ。
「ええ。わたしも」
抱きしめる腕に力がこもる。
馬車が邸宅へ近づくまで、わたしたちはそのまま寄り添っていた。
***
ベルフォード邸に着くと、ルシアンが先に降り、手を貸してくれた。
玄関には明かりがともっている。
今夜は、ここでお別れ。
足を下ろしても手を離せずにいると、彼がわたしを見た。
「近いうちに、改めて君に伝えたいことがある」
真剣な顔に、胸が跳ねた。
「……わかった。楽しみにしているわ」
ルシアンの表情が和らぐ。
わたしは一歩近づき、空いている手を彼の腕に添えた。
「今夜はありがとう」
「おやすみ、エレノア」
「おやすみなさい、ルシアン」
ゆっくりと指が離れる。
玄関へ向かう途中で振り返ると、彼はまだこちらを見ていた。
小さく手を振って、扉をくぐる。
部屋へ戻ってドレスを脱ぐのが、少し惜しかった。




