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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第八章 男たちの言い分

第八章 男たちの言い分

 翌朝、撮影は休みとなった。マリリンの体調は悪くなかったが、皮肉な話、キューカー監督が風邪を引いた。

 もっともマリリンは、一刻も早くハロルドたちに新事実を伝えたかったから、好都合だった。

 午前九時過ぎ、ハロルドとアダムがマリリンの部屋を訪れた。既にエヴェリンがマリリンの脇にいた。

 マリリンとエヴェリンから報告を聞いて、ハロルドが、やれやれと額に手を当てた。

「ご婦人方を危険な目に遭わせるなんて、何とも不本意だよ」

 褒められると思っていたマリリンは、少し当惑した。

「でも、大きな一歩でしょ。これで私たちの証言が、捜査を頓挫(とんざ)させる顛末(てんまつ)にはならないわ」

 ハロルドが大きく頷く。

「確かに、確かに。しかし、エヴェリン嬢の勇気には感服するね。点検口に一人で入っていったなんて。何が落ちているか、わかったものじゃないんだが」

 エヴェリンが、にこりと口の端を上げた。

「全然、大したことなかったわよ。蜘蛛の巣と釘さえ気を付ければね」

「でもこれで、犯人が女性でもなんとかなるとわかった。大いに前進したよ」

 ハロルドの言葉に、マリリンは目を開いた。エヴェリンが、なるほどと頷いた。

「あたしたちがどんなに犯人に近づこうと努力したって、容疑者から抜けられるわけじゃないのよね。それは、充分にわかってる」

 アダムが、しきりに頭を掻いた。

「すいません、いや、因果な仕事ですよ」

 ハロルドがアダムの肩をぽんと叩きながら、マリリンを見た。

「地道に目撃者を探します。梯子を持って、廊下をうろうろしていたら、不審に思う人間も多いでしょう。きっと誰か、覚えていてくれますよ」

「そうは言っても、当時の宿泊客は、もう家に帰ったでしょ?」

「フロントに記録が残ってますから、住所を当たっていきますよ」

 つくづく大変な仕事だと思う。一時かなり流行(はや)った、ハードボイルドものの映画の世界とは、全く違う。コツコツと、無駄を無駄と思わず行わなければならない。

 ハロルドが、部屋を辞すとき、マリリンに忠告した。

「もう危ない真似はしないでくださいね。これ以上の犠牲者が出たら、大変だ。しかも、それがマリリン・モンローだ、なんて顛末になったら、僕らは世界中からの非難に晒される」

 アダムがぽつりと付け加えた。

「僕らの命が、危なくなりますよ。ファンに殴り殺される」

 マリリンは口の端を上げ、「わかったわ」と請け合った。

 当然ながら、ハロルドの忠告を守るつもりは欠片(かけら)もなかった。

 マリリンはエヴェリンを連れ、ビバリーヒルズ・ホテルの20号室のドアを叩いた。しばらく間があって、寝間着姿のアーサーが顔を出した。

「ちょっと、熱があってね。あまり長く話してはいられない」

 これはマリリンたちの追及を逃れる方便なのだろうか? ここは単刀直入に尋ねたほうがいいかもしれない。マリリンたちに犯人逮捕はできない。できる行動は、犯人を追い詰めることだ。

 追い込まれた犯人は、完全なる証拠隠滅のために、必ず動く。

「キューカーも風邪なのよ。伝染したのかしらね」

「僕は、この部屋から、一歩も外に出ていないんだぞ。それに、ウィルス性の風邪ではない」

 ――一歩も出てないなんて。誰が信じるものですか!

 マリリンは平然を装い、アーサーに指示された通りに、大きなソファにエヴェリンと並んで座った。

「密室の謎が一部、解けたの。それを報告しようと思って」

 マリリンは手短に、点検口から入ったら、テープレコーダーを使って、エリックが部屋にいるかのように作為できた点を述べた。

 アーサーが興味深そうに、頬に手を当て、話を聞いていた。

「僕が、点検口から忍び込んだと? 君たちを待ち伏せしたっていうのか?」

「撮影関係者から、私たちが帰った時刻を電話で聞いていたら、待ち伏せできるはずよ」

 エヴェリンも非難の目で、アーサーを見ていた。

「実際に入ってみたけど、結構中は余裕があったの。貴方ぐらいの大柄な男でも、充分に中で行動できます」

 アーサーが、さもおかしそうに、忍び笑いを始めた。

「ふふふ、ふふふ」

 マリリンは、カッと頭に血が上った。

「何がおかしいのよ! 貴方っていつだってそう! 私を馬鹿にしてばかり」

「馬鹿にしているつもりは毛頭ない。僕は狭い空間が大嫌いでね。点検口なんて狭い場所には、とてもじゃないが、いられない。それに、体が汚れるのも嫌だね」

 エヴェリンが反応した。

「閉所恐怖症って意味? そんなの、自己申告で何とでも言えるよ。エリックを殺したいと心底から願っていたのなら、体が汚れるぐらい、屁でもないはず」

 アーサーが両手を上げ、待ったの姿勢を取った。

「いいか、部屋にエリックがいなかったのなら、一階下のマリリンの部屋にいたって説が更に有力になるだけだろう。マリリン、君は本当に真実を話しているのか? 君とエリックが口論になって、バルコニーから突き落としたんじゃないのか?」

 マリリンは堪らず、立ち上がった。

「私はエリックを愛していたわ! 愛する人を、殺すわけがないでしょう!」

 アーサーがまるで、言葉遊びを楽しむかのように、マリリンの言葉尻を掴んだ。

「愛していたから、殺したのかもしれない。エリックが何らかの理由で絶望しており、これ以上は苦しまないように、君が突き落とした。どうだい、こんな推理だって、できるだろうが」

 エヴェリンが、顔を赤くして、反論した。

「マリリンは、そんな真似しないよ! それにエリックには健康面でも何の問題もなかったはず」

「そうか。じゃ、その線は、消していいだろう。ならば、仕事面の問題を抱えていたんだな。心が壊れると、人は死に急ぐ」

 マリリンは、すぅっと息を吸った。落ち着かなければ。頭脳も喋りも、アーサーが遙かに勝る。

「貴方は、私が怪しいと主張するのね。なら私は、貴方が怪しいと思うわ」

 アーサーが愉快そうに、口の端を上げた。

「ほう、動機は?」

 マリリンは思わず、「えっ」と声を出した。動機だなんて……決まっているだろうが。

 そこで、はたと我に返った。エリックからマリリンを取り戻すためではないのか……?

 アーサーが駄目押しの言葉を出した。

「僕は、もう、君が誰を愛そうと、興味がなくなってきたんだ。エリックを殺したところで、僕には何の意味もない」

 横で、マリリンの体が、ぐらりと揺れた。エヴェリンは慌てて、マリリンの肩を支えた。

「マリリン、大丈夫?」

「……え、ええ」

 エヴェリンは今度は、アーサーを睨み付けた。

「何て酷い言葉を、妻に向かって吐くのよ! そもそも、マリリンの精神がここまで追い詰められた根本原因は、夫であるあんたに、あったんじゃないの?」

 アーサーが飄々(ひょうひょう)とした顔で、掌を上にした。

「マリリンの精神不安定の原因を、僕にしたい気持ちは、よくわかるがね。エヴェリン、君はマリリンが僕と結婚してから、スタンドインを務めるようになったのだろう? それ以前のマリリンだって、大いに問題はあったんだ。僕はむしろ、マリリンの気持ちを平和にしようと、心を砕いてきた人間だよ」

 エヴェリンは悔しい思いで、歯を剥いた。

「マリリンが苦しんできただろう現実は、わかってる。でも、傍から見て、あんたが精神的に、ぐじぐじと嫌がらせしなければ、こんなに酷くならなかったって!」

 アーサーが、ふぅっと大きく息を吐いた。

「マリリンと結婚するとは、その精神不安とも同時に対峙しなければならないという意味だ。僕はマリリンと結婚してから、一冊も小説を書き上げる結果が出せないでいる。マリリンを気遣い、マリリンに寄り添わなければいけなかったからだ」

「それはそうかもしれないけど――」

「でも、もういいだろう。マリリンはどうせ、ベッドで僕に満足していなかったし、だからこそ、いろいろな愛人を抱えたんだろうからね」

「なんですって!」

 掴みかかろうと、立ち上がったところで、マリリンがしがみ付いてきた。

「エヴェリン、もう止めて! アーサーの言葉にも、一理はあるのよ。私は、アーサーに迷惑を掛け続けた」

「何よ、負けを認めるつもり?」

 マリリンが蒼白な顔で、無理に口の端を上げた。

「勝ち負けじゃないわ。私を背負い込むと、皆が苦しむのよ。私たちにだって、いい時はあった。でも今は、私はアーサーのお荷物と言われても、何も言い返せないのよ。実際、私はエリックとの未来を、真剣に考えていたわ」

 ――何もそこまで、馬鹿正直に告白しなくたっていいのに……。

 マリリンはとことん、不器用だと思う。生きていく上でも、もっと気楽な道がいくらでもあるのに。何故わざわざ、自分を苦しめる方向に進みがちになるのだろう?

 マリリンが、ふぅっと大きく息を吐き、アーサーの目を見た。

「わかったわ。動機がないと言いたいのね。貴方が私に執着していない点は理解します。でも、自分の所有物を他の若い男に取られる、侮辱された思いならば、あるでしょう。プライドを傷つけられた男が、相手に殺意を抱く可能性は、大いにあるわ」

 アーサーが眼鏡の奥から、じっとマリリンを見ていた。やがて、小さく息を吐き、頷いた。

「確かに、そうだ。男には、無駄にプライドがある。僕も世の中の男同様、余計な感情は持っている。その点に関しては、否定しない」

 マリリンが何も言わず、じっとアーサーを見ていた。

 エヴェリンは訳が分からなくなっていた。アーサーは殺意を肯定したのだろうか? それとも単なる、一般的見解なのだろうか?

 やがてマリリンが訝し気に目を細め、口を開いた。

「つまり、貴方は容疑者の中から、消えてはいないのよね?」

「そうだ。君と同程度ぐらいの怪しさだがね。君は女の武器を使って、刑事たち二人を味方に取り込んでいるようだが」

 マリリンが諦めの息を吐いた。

「真犯人が捕まるまで、私の容疑は完全には晴れないでしょう。刑事さんたちだって、馬鹿じゃないわ。エリックが私の部屋にいた可能性は、濃厚なんだもの」

 アーサーの瞳に、一瞬ちらっと同情が見えた。

「僕としても、エリックには生きていて欲しかったよ。君の心を救える男が存在するのなら、今日にでも離婚して、君を差し出したいつもりだからね」

 エヴェリンは、驚いて、あんぐりと口をあけた。まさか、そこまで二人の仲が決裂していたとは思わなかった。

 ――今のマリリンの愛人は、イヴよね……。

 マリリンとイヴが、互いに離婚をし、再婚する道など、可能なのだろうか? すると、アーサーが驚くべき言葉を吐いた。

「でも、イヴは駄目だ。あいつは、恋は恋と割り切るパリジャンだ。シモーヌと離婚なんて、絶対にしないよ」

 驚いた話だった。アーサーはマリリンとイヴの仲にさえ、気づいていた。その上で、イヴにマリリンの心は任せられないと判断していた。

 エヴェリンは何だかよく分からなくなってきた。

 ――アーサーは、マリリンに対してまだ、情がある……でも、もう愛してはいない。

 アーサーがマリリンと自分の将来を真剣に考えた場合、マリリンの相手がエリックだったら、殺す真似は、しないのではないだろうか? 

 いや、そこまでアーサーを買いかぶってはいけないか……。

 マリリンはまだ、アーサーの言葉を気にして、言い返していた。

「私だって、イヴと本気ってわけじゃないわ! イヴは、ただ戯れに、私に手を出しただけよ」

「わかっているのなら、早々に関係を断つことだ。このまま関係を続けたら、マスコミに漏れる。決して良い事態にはならない」

 マリリンが、ぷいっと横を向いた。

「わかっているわ! 大きなお世話よ」

 アーサーが思い出したかのように、大きく息を吐き、額に手を当てた。

「話が終わったのなら、一人にしてくれないか。正直、体が辛いんだ。今日一日ぐらい、ベッドで横になっていないと、風邪が悪化しそうだ」

 もともとはマリリンとアーサー二人の部屋だろうに。もう二人は、一緒にいては(くつろ)げない関係になったのか。

 マリリンが、素直に立ち上がった。エヴェリンもマリリンに倣う。

「どうも、お邪魔様。お大事にね」

 挨拶のキスもない。アーサーは立ち上がりさえも、しなかった。この夫婦は、もう終わりだ。マリリンがつんと顎を上げ、歩き出す。

 マリリンに続いてエヴェリンも、体を縮こませて部屋を出た。

 部屋を出たすぐ目の前に、21号室のドアが見えた。アーサーから話を聞き終わったら、すぐにイヴに接触する行動を起こせる。

 でも、マリリンには限界を超えている振る舞いだと、エヴェリンは判断した。それに、情交関係にあるマリリンが、イヴに的確な詰問ができるわけがない。

「マリリン、このまま、エセックスハウスの部屋に戻って。少し休むといいよ」

 マリリンが不安げにエヴェリンを見つめる。

「貴女は、どうするつもりなの?」

「ついでだから、イヴに少し話を聞いてから、帰るよ。犯人じゃなかったら、別に危険はないんだしさ。あたし一人でも大丈夫だよ」

「呆れた。イヴが犯人じゃないって、どうしてそこまで楽観視できるのよ?」

 ――あんたと実際に寝ているからでしょうが――なんて言えないしなあ……。

マリリンこそ、殺人犯かもしれない男と、よくベッドを共にできるものだ。寝首を掻かれたら終わりだろうに。

エリック殺しに関して言えば、イヴはアーサーより怪しい。

自分の許を離れようとしたエリックと問題が起きた可能性は大きいし、弟子のハリウッド・デビューを嫉妬しての犯行、とも考えられる。

「アーサーの時とは、違うんだよ。あんたとあたしが並んでイヴに対峙するとするよね。あんたは平気で、疑念をぶつけられるの?」

 マリリンもさすがに、「それは……」と口籠った。でもすぐに首を横に振り、エヴェリンの手を掴んだ。

「貴女を一人で行かせられない。私は別にイヴを愛しているわけじゃないの。あちらも同じはずよ」

 一人で犯人かもしれない男と立ち向かわずに済むのならば、それに越したことはないが……。

 ――またクレイグに非難されるなあ……。ま、いいか! 知らせなけりゃいいんだし。

「わかった。一緒に行こう」

 マリリンと頷き合うと、エヴェリンは、20号室のドアをノックした。

 顔を出したイヴが、エヴェリンの顔を見て、驚いていた。更に、奥から、マリリンが現れると、余計に当惑の顔になった。それでも、素直に部屋の中に入れてくれた。

「二人お揃いで、何の話だい?」

「ちょっと今回、いろいろわかったから、報告しようと思ってさ」

 イヴが目を開き、「君がか?」と問い返す。エヴェリンとイヴは仕事仲間以上の関係ではなかった。

「いいじゃないの。この前、キスシーンを演じた仲でしょうが」

 マリリンが口の端を上げる。

「私の声を被せる予定なのよね」

 イヴがマリリンとエヴェリン用に、熱い紅茶を淹れてくれた。マリリンがストレートで、エヴェリンは砂糖を二匙入れ、口を付けた。

「いったい何の用なんだ? あまりに唐突な登場で、予想もつかない」

 エヴェリンは手短に、密室の謎の一部が解けたこと、新しい死亡推定時刻から、午前二時のアリバイは無効になった旨を話した。

「つまり、僕のアリバイは消えてなくなり、動機面から怪しいと睨んで、二人揃って尋問に来たのか」

 話が通じる男でよかった。もし真犯人なら、世界中が大騒動になるだろう。マリリンが犯人だ、と断言する真似と同様、世界に衝撃を与えるだろう。

 ここは、とことん、強気で行こう。ハロルドたち公僕は、他国の圧力に弱いはずだ。

「貴方は、エリックを羨んでいたでしょ?」

 イヴが顔中の筋肉を弛緩させ、哀れっぽい顔をした。

「僕がエリックを? 冗談じゃない。たかが付き人の一人じゃないか。エリックが秀でていた点といえば、他の付き人と違い、英語ができる程度の話だよ」

「貴方は、ハリウッド・デビューを企んでいますよね? このまま、映画が完成すれば、大きな成功を得るでしょう。そこから、全米デビューって展開も視野に入れている。それなのにエリックは、師匠を乗り越えて、一足先に全米デビューのチャンスを掴んだ」

「ちょっと待った!」

 イヴが大袈裟な身振りで、両手を上げた。

「君たち、何か勘違いをしていないか? 確かにハリウッド・デビューは、今回が初めてだ。成功させたいと思うし、成功する未来はわかっている。でも僕は何年も前から、アメリカのレコード会社と契約して、全米デビューをしているんだよ」

 エヴェリンは呆気にとられ、あんぐりと口を開けた。

「何年も前から……? 全然、知らないんだけど」

 イヴが心外そうな顔で、肘を膝につけた。

「ブロードウェイでは、何度も舞台に立っているんだ。マリリンやアーサーと初対面した場も、ブロードウェイの楽屋裏だったよ」

 ――覚えているわよ。あの時のマリリンは、あたしだったんだから!

「……てっきり、外国人タレントのツアー旅行かと思ってたわ」

 イヴが、何故エヴェリンが、まるで目の前にいたかのような感想を持つのかわからない様子だったが、あまり深く考えず、先を継いだ。

「ほうらね、アメリカにおけるシャンソンの位置なんて、こんなものさ。シャンソンは、独特の歌謡だ。英語に訳した歌より、フランス語のままのほうが、売れるんだ」

「そんなものなのかしら?」

「たとえば、アメリカ人が何気なくシャンソンを口ずさんでいる場面なんて、およそ思い浮かべられないだろう? フランス語でなければ、シャンソンの真の美しさは、表現できない。アメリカ人がシャンソンのレコードを買う場合、フランスのエスプリを感じたいと願うからなんだ」

 アメリカ人にとっての、カントリー・ソングのようなものか。エヴェリンは、ぽつりと呟いた。

「フランス人でもない、イギリス人のエリックが、フランスではなくアメリカでシャンソンのレコードを出す……。確かに、あまり売れなさそう」

 マリリンが眉を吊り上げた。

「エヴェリン、なんてこというのよ!」

 エヴェリンは、ぽりぽりと頭を掻いた。

「でもさあ、イヴの言う通りだと思わない? よくよく考えてみたら、エリックのシャンソンなんて、アメリカじゃ受けないよ」

 マリリンの目が、涙で潤んでいた。

「そんなわけ……ないわよ! それじゃあ、エリックが未来に希望を持っていた、とする精神状態が変わっちゃうでしょうが! 皆して、エリックが絶望で死んだと思いたいのね!」

 マリリンが、わっと泣き出した。エヴェリンはマリリンの背を摩り、慰めた。

「エリックは、自殺じゃないよ。テープレコーダーのトリックを使ってまで、エリックをあの部屋にいると思わせた男が、確実に存在するんだから」

 エヴェリンは顔を上げ、イヴを睨んだ。

「エリックは二時半以降に死んだんだ。貴方にはアリバイがなくなる」

 イヴは最後まで、余裕の姿勢を崩さなかった。付け入る隙は、全くなかった。

「そんなもの、皆、一緒だろう? 僕だけを目の敵にする真似は、止めてくれ」

 エヴェリンはマリリンを支える形で、部屋を出た。

 ――もう、どうして、こうまでマリリンの周りには、ろくな男がいないのよ!

 この世の至宝、マリリン・モンローに真に相応しい肉体と精神の持ち主には、お目に掛かれないのだろうか?

 とにかく、ビバリーヒルズ・ホテルになんて、いるもんじゃない。二人はエセックスハウスに帰り、マリリンの部屋に辿り着いた。

 エヴェリンはマリリンをそっと、ベッドに寝かせた。マリリンもエヴェリンの指示に素直に応じた。

「やっぱり、イヴと話をした点は、失敗だったわね」

 マリリンが、薄っすらと目を開ける。

「私、酷い勘違いをしていたわ。私が協力すれば、エリックの未来は洋洋と開けていくのかと思っていた。エリックは、追い詰められていたのよね」

 マリリンの目から、涙がこぼれ、顳顬(こめかみ)を伝った。エヴェリンも、どう慰めたらいいのか

が、皆目(かいもく)わからずにいた。エヴェリンにとって、マリリンの精神状態が一番の気懸かりだった。

「気にするなと言っても無理だろうけれど……でも、エリックは自分から死を選んだわけじゃないわ」

「そんなこと、わからないでしょうが! あの時のエリックの声は、テープレコーダーなんかじゃなかったのよ! 本当のエリックの声で、エリックは絶望していたんだわ!」

 エヴェリンは、しっかりとマリリンの右手を握った。

「それは、違うよ、マリリン。グラスは明らかに、点検口から投げ捨てられたものだった。テープレコーダーの声だったんだよ」

 マリリンがまだ、納得していない様子だった。

「でも、「うるさい! 僕を放っておいてくれ!」と言った人間は、エリックなのよ! 絶望していたから、そんな言葉も吐いたのでしょう! それを、犯人がテープに録音したのよ。エリックが絶望していた点は、確かなのよ!」

 エヴェリンは途方に暮れた。

 話がどんどんややこしくなっていく。エリックを殺した人間は、実在する。エリックの死が絶望による自殺ではない点だけが、唯一の救いだった。

 マリリンは両手を瞼に当て、しくしくと泣き出した。

「もう、嫌! 何もかもが嫌! 私もエリックの元に、旅立ってしまいたい!」

 エヴェリンは懸命に励ました。どんな存在があれば、マリリンは前を向いて生きてくれるだろうか?

「マリリン、よぉく考えて。あんたがエリックの後を追ったりしたら、それこそ、犯人の思う壺なんだよ。あんたの部屋からエリックが飛び降りたとされているよね? それってきっと、犯人が、あんたの精神に衝撃を与えようとして、わざわざそういう道にエリックを導いたんだよ」

「私の精神に、衝撃を……?」

 マリリンの頭に誰が浮かんだのか、想像は楽だった。

 アーサーとも、良い日々だってあったろうに。今や、マリリンを精神的に追い詰める真似をして、留飲を下げている、と思われている。

 エヴェリンは思わず、大きく息を吐いた。

 愛する人は死んでしまい、実の夫はマリリンの精神を傷つける。寂しさを紛らわすために関係を持った愛人は、マリリンの浅はかさを嘲笑う。

 そこで、ハッとなった。今エヴェリンがマリリンに納得させたように、犯人の目的が、マリリンの精神を傷つける動機も持っていたのなら? 犯人は容疑者の中から、絞られてくるのではないだろうか?

 アーサーは、やはり一番に怪しい。撮影班にいる共犯者は、誰だろう? 撮影の最初の

頃は、アーサーもスタジオに足を運んでいたから、利害の一致する人間を探す行動も、容易(たやす)かっただろう。

 イヴだって、容疑の外には置けない。エリックの未来が、イヴの言う通り、(いばら)の道だったとしても、師匠を裏切るも同然だったのだから。

 なんだか、急に疲れを覚えた。せっかくの休みだったのに、全然、気持ちは休めなかった。

 明日も休みだろうか? キューカー監督も、マリリンの度重なるドタキャンに憤慨しているだろうし、マリリンが明日の撮影からすぐに参加するかは、まったくわからない。

 ――ま、今日のこの状況を考えたら、また休みになるだろうけどね。

 ベッドのマリリンの肩が動いた。エヴェリンは、椅子をベッドに近づけた。

「どうした?」

「エヴェリンが、いなくなったかと思って」

 エヴェリンは、慈愛に満ちた笑みを意識した。不安にさせちゃいけない。

「いなくなるわけ、ないでしょうが。そうだ、私、今夜はこの部屋で眠ろうかな。ベッドが狭くなるけど、いい?」

 マリリンのホッとした顔といったら! 声にも浮き浮きが溢れていた。

「本当? 嬉しいわ! でも、明日の話は、しないでね」

「了解、了解。明日の話は、明日になってから決めようよ。じゃ、あたし、パジャマと替えの下着を持ってくるよ」

 部屋は、すぐそこだ。時間は掛からない。立ち上がろうとすると、マリリンが、ぎゅっと手を掴んできた。

「私は、一人じゃない……そうよね?」

 エヴェリンは、大きく頷いた。

「もちろんだよ、マリリン。あんたには、あたしがいる」

 正直なところ、エリックの登場で、自分の役目も終わったと思っていた。エヴェリンにとっても、エリックを殺害した人間は、絶対に許せなかった。

 でも……。

 ――いつまで、こんな騙し騙しの日々が続くんだろうか?

 マリリンも、疲れている。でも、エヴェリンだって、へとへとだった。マリリンのような人間のサポートは、一人ではとてもできるものではない。何人もの人間が、互いに補い合って、支えていかなければ。

 マリリンの周りには、あまりにも味方がいなかった。撮影スタッフは時間にルーズなマリリンを嫌っている。

 演技コーチのポーラはまた、娘のスーザンの問題で、マリリンから離れていた。マリリンも慕っていただけに、裏切られた気持ちでいる様子だ。

 プロの診察を受けたほうがいいのかもしれない。できれば、マリリンの診察医を、過剰に薬を与えるタイプではない医者に替えてやりたい。

 エヴェリンは二十世紀フォックス社に進言してみる決意を固めた。

 マリリンの神経衰弱に、撮影に入って初めて、医師から、負のお墨付きが付いた。

「ミス・モンローの精神的疲労を回復させるためには、一週間の完全なる休養が必要である」

 病み上がりのキューカー監督は、頭を抱えた。

「いったい、あの医者は、何様のつもりなんだ!」

 二十世紀フォックス社から派遣された特使が、苦しい説明をしたらしい。

「何でも、合衆国西部における、精神分析医のバックボーンだそうな」

「意味がわからん!」

「とにかく、彼に任せると、社が判断したんです。ミス・モンローの一週間の休養は、社が認めました」

 マリリンの新しい主治医が訪れた時、マリリンが体裁を気にしたため、ビバリーヒルズ・ホテルのアーサーとの部屋に迎え入れた。だから、エヴェリンは、ラルフ・グリースン医師をじっくり見たわけではない。

 四十九歳、既婚、ハリウッド住まい。年齢的に言えば、マリリンと釣り合うし、互いに家の行き来ができる。男に依存しがちのマリリンが、グリースン医師にどういう感情を抱くか、不安ではあった。

 エヴェリンは、エセックスハウスのロビーで、マリリンの帰りを待った。

 一時間が経過し、もう今夜はビバリーヒルズ・ホテルに泊まるのかと諦めた時、ふらりとマリリンが現れた。

 一瞬、マリリンから後光が差した気がした。心ここにあらずの顔で、ふわふわと宙を浮くように、頼りなげに歩く。エヴェリンは思わず駆け寄り、マリリンの体を抱き締めた。

「マリリン、どうしちゃったの! やっぱり医者に余計な話をされたんだね!」

 マリリンが、ぽかんとした顔で、エヴェリンを見つめる。

「良い先生だったわよ。とても信頼が置けると感じたわ」

「どんな話をしたのさ?」

「今、私を苦しめている存在は、何なのか、グリースンは教えてくれたわ。完全なる休養よ! これから一週間、私は映画とは離れた日々を過ごすの。事態は、きっと改善するわ」

 自分の遅刻癖のせいで、事態が悪くなっている自覚は、さっぱりない様子だ。グリースン医師は、甘やかせタイプだと直感した。

 ――マリリンの心が少しでも軽くなるのなら、一週間、撮影中止になったって、構わないよね。

 会社は時間超過で、製作費が掛かる展開は、どうにか避けたいだろう。でも、そんな問題、知ったことではない! マリリンを奴隷のように働かせて、無茶なスケジュールを組んで。

 マリリンもようやく、大義名分を得て、心が救われただろう。その点では、まあまあ合格点の医師なのだろう。

 もう一つ、合格点を得るために必要不可欠な問題――マリリンの薬物依存に関して、どういう意見を持っているのだろう?

「グリースン医師は、あんたの薬の件、何か言ってなかった?」

 マリリンが鬱陶(うっとう)しそうに首を横に振った。

「飲み過ぎだって。ほとんど中毒に近いって。ふふ、わかっていることなのにね」

「じゃあ、これからは薬を減らす方向で、治療を続けていけるの?」

「……そういう話だったわ。でも私は生きていく上で、どうしても睡眠薬が必要なのよ。説得してもわかってもらえないのなら、他の医者にしてもらうわ」

 やれやれ、薬を断たせる医師こそが、マリリンを親身に考える人間だろうに。マリリンが、弱弱しい笑顔を見せた。

「だって、私には、貴女がいるんだもの。エリックが生きていてくれたら、事態も大きく変わったものになっていったでしょうに……」

 マリリンが一度、ふっと俯き、また顔を上げた。

「ごめんね、エヴェリン」

 エヴェリンは意味が全然わからず、目を開いた。

「何よ、突然? それに、謝られるような問題はないはずだよ」

「いいえ、大有りよ。私はずっと貴女に依存してきた。エリックが死んでから、心の支えになってくれた。でも、凄く負担だった事実も、理解しているの。私は誰とも、なかなか仲良くなれないでいた。だから、貴女は失いたくない友達なのよ」

 エヴェリンは意識して「なーんだ、そんなことか」と笑ってみせた。

「気にしないでったら。昔から、こういう役回りなんだ。それに、あたしは、マリリンが好き。だから、幸せになって欲しいと思うだけだよ」

 マリリンが、諦めに息を吐いた。

「私、どうしてこうなんだろう。我儘で遅刻魔で、皆に迷惑ばかり掛けている。本当は、誰とも上手くやりたい。どんな問題も成功させたい。だから……薬を飲んでしまうの」

 マリリン自身、誰よりもわかっている。自分が置かれた状況が改善されていかないと、向かう先は破滅だと――。

 マリリンがエヴェリンの胸の中で震えていた。

「グリースンが、私は『家なき子』だって。支えてくれる家族もなく、孤独って意味よね、きっと」

 エヴェリンは、マリリンがグリースンを心の底から信頼してはいないと、理解した。それでも、グリースンに頼ろうとしている。エヴェリンに迷惑を掛けないよう……。

「あたしは勝手に心配してんの! 誰に頼まれたわけでもないし、やりたくないことなんて、やらない。お願いだから、信頼をまだ心底置けないうちから、グリースンに頼り過ぎないで。いい?」

 マリリンが、僅かだけ首を縦に振った。

 一週間の休みを貰ったからといって、精神が安定するわけもない。唯一の安らぎの眠りの時でさえ、マリリンには恐怖だった。

 夢の中に出てくるエリックが、名残惜しそうにマリリンを見ている。

「羨ましいな。僕もまだ、そっちの世界にいたかった」

 そんなことなら、立場を交換したっていい! エリックに生きていて欲しかったし、マリリン本人は、生への執着を喪失していた。

 夢も見ずに、永遠の眠りに就けたなら、どんなにいいか。

 そもそも、何で生きているのだろう? マリリンは生きていて、人に迷惑を掛ける以外に、どんな貢献ができているのか?

 ファンがマリリンの映画を望んでいる――いいや、マリリンの代わりなどは、いくらでもいる。

 マリリンが銀幕を去ったら、まるでデフォルメしたような肉体の持ち主の、ジェーン・マンスフィールドが、アメリカの新たなセックス・シンボルになればいい。

 いや、その前に、エヴェリンがいる。エヴェリンだって、ハリウッドにやって来た当初は、一流の女優を目指していたはずだ。それが、「マリリン・モンローと似たタイプだから」と目が出ず、スタンドインという日陰の身になった。

 今更ここでマリリンが去っても、いい歳になったエヴェリンが新進女優として活躍する未来はない。それでも……。

 ――私なんか、いないほうが、エヴェリンだって楽になる。

 マリリンが死ねば、アーサーが悲痛な顔でテレビカメラの前に出るだろう。偽りの仮面だが、一応は、マリリンの死に衝撃を受け、悲しみに暮れる真似ごとぐらいはしてくれるはずだ。

 イヴは、ただ、共演者が死んだ、と思う程度だろう。フランス男の代表にしては申し訳ないが、イヴのような男は、一人の女に一筋にはならない。マリリンだって、エリックを失った穴を、イヴで埋めようとしているだけだ。

 もう、嫌だ、何もかも。全て終わりにしたい。

 死という名の甘美な魔法が、マリリンを捕えかけていた。マリリンは逃れる努力もせず、ただ魔法使いの手に身を委ねていた。


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