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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第九章 刑事たちの思い

第九章 刑事たちの思い

 ハロルドはアダムと、宿泊客の家を一軒一軒、順繰りに訪ねては、不審者情報を集めていた。しかし、有力な情報は、なかなか得られなかった。

 その日は、やけに話の長いセールスマンの家を辞して、車に向かっていた。乗り込んだところで、腰を摩った。

「地道な捜査は、腰に来るな」

 アダムが呑気に、「まだ治らないんですかぁ?」と尋ねる。

「懐炉で温めると、少しはいいがな」

「懐炉といえば、死亡推定時刻をずらす目的で使われたんですよね」

 ハロルドが怪訝な思いで、アダムを見た。

「だから、何だ?」

「二時にアリバイを作って、殺害は、その後なんですよね。てことは、午後七時から午前二時までに、誰か不審者を目撃したとしても、意味はないんじゃないすか? 大事な時間は午前二時から六時。そんな時間に目撃情報なんて、あるわけないですけどね」

 ハロルドも重い息を吐いた。犯人は、皆が寝静まるまでの間、大いに自分の身を晒し、アリバイを作っただろう。その後、午前二時に一度、物音を起こし、最低でも三十分後に殺人を犯した。

「キーポイントは、午前二時だな。午前二時に確実なアリバイを作っておいて、その後、マリリンの部屋に潜むエリックと合流。何等かの形で、落下音を最小限にし、転落死させた」

「つまり、何です?」

「エリックは、少なくとも午後七時半から午前二時まで、マリリンの部屋に隠れていたんじゃないか?」

 アダムが驚きに仰け反った。

「ええええ? それじゃ、エリックは犯人と共犯って展開になりますよ」

「なったって、いいじゃないか。犯人とエリックは、非常に近しい関係があった。ただし犯人は、エリックと違い、相手に殺意があった。エリックは、まさか自分が殺されるとは思いもせず、犯人の指示に従い、マリリンの部屋に隠れた」

 アダムが、ポンと手を叩いた。

「なるほど! エリックは犯人と、何かを企んでいたんだ! でも、犯人が一枚上手で、エリックを騙し通していた! それなら、じーっとマリリンの部屋に息を殺して待機していた可能性は、大いにありますよ」

「とにかく、犯人は午前二時に、行動を起こしている。午前二時にマリリンの部屋で何があったか、突き止めるぞ」

 アダムが、「はいっ」と威勢よく応え、車のエンジンキーを入れた。

 ハロルドはさっそくマリリンの部屋に向かい、中を調べる許可を貰った。

 捜査の協力なら、なんでもする、とマリリンが快諾してくれた。ただ、その目に生気がなかった。まるで、どうにでもなれと考えているかのように。

 どうにでもなれ、じゃ、困る。マリリンには、どうにかしてエリックの死を乗り越えて欲しいし、そのために、真実を明らかにしたい。

 ハロルドとアダムは、部屋の隅々まで、誰か隠れられる場所を探していた。アダムが、ぽつりと呟いた。

「やっぱり、ベッドの下かなあ。他に、クローゼットという線もあるけれど、犯人と落ち合うためには、そっと扉を開けなければならない」

 マリリンが頬に手を当て、重心を右にずらした。

「私は、熟睡していたの。だから、ベッドの下でもクローゼットでも、気づかなかったと思うわ」

 ハロルドはバルコニーに出た。マリリンがそっと従いていった。

「これまで、このバルコニーを使った機会は?」

 ハロルドの問いに、マリリンが静かに応える。

「ないわ。部屋には、帰って、眠るだけ。ここからエリックが落ちたのかと思うと、足が竦んで、なかなか出られなかったの」

 ハロルドは黒い鉄の柵を熱心に調べた。

 柵は、男の腰の位置までしかなかった。柵は一部が僅かに錆びついて、桟の一つを外すぐらいなら、可能かもしれない。

 しかし、柵に何らかのトリックを仕掛けた痕跡は、見当たらなかった。

「ここから、男を一人、落とすのは……意外に楽かもしれないな。しかし……」

 マリリンが不安気に、ハロルドに問い掛けた。

「しかし、何?」

「午前二時の落下音の正体は、エリックではなかった。では、何だったのだろう?」

「犯人は、午前二時に私の部屋に、いたのかしら?」

 ハロルドは、しばし腕を組み、考え込んた。

 やがて、ハッと顔を上げて、頭上を見た。七階のバルコニーの底が見えた。

「七階も、ここと全く同じ状況だろうか?」

「七階って……712号室にエリックはいなかったんでしょ? じゃなければ、テープレコーダーを使ったり、点検口からグラスを投げつける必要はなかったんだから」

 何もあそこまで不自然な位置にグラスを投げつけなくても、エリックが声を出し、投げやすい場所にグラスを投げればいいはずだった。

「いや、しかし点検口を出入りすることで、密室の謎は、ほぼ解けました。部屋の鍵をローテーブルに置いて、点検口から脱出すればいいんですから。つまり、エリックを落とす真似を、何も貴女の部屋で行う必要はないわけなんです」

「でも、エリックの死亡時刻は、ずっと後なのよ?」

「そこは、まだ、謎は解けていません。でも、犯人は何かをしたんだ、絶対に!」

「じゃあ、私たちがドアの前にいたとき、エリックはどこにいたの?」

 ハロルドが、マリリンを無視し、アダムに声を掛けた。

「アダム、七階へ行くぞ! 七階のバルコニーに何も不自然な状態がなかったか、もう一度、確認だ!」

 ベッドの底に尻まで潜り込んでいたアダムが、「はい、痛ぇ!」と、お決まりのような声を出した。

マリリンが呆然と立ち竦む。

「意味がわからないわ。エリックは七階にいたの? それとも私の部屋に? 七階にいたとしたら、何故、私の声に応えてくれなかったの……?」

 ハロルドは、自然と早足になった。実際にバルコニーに出る前から、確信を覚えていた。

 ――712号室のバルコニーには、絶対に何か、巧緻なトリックがあったんだ!

 アダムが懸命に追いついてくる。

「ハロルド、待ってくださいよ! バルコニーが消えてなくなるわけじゃないんだから」

 いいや、わかったものではない。事件が起きてから、三カ月以上が経過している。犯人が証拠隠滅を謀ったとしても、何の不思議もない。

「頼む、何か証拠が残っていてくれ!」

 いったん一階のフロントに降りて、鍵を借りる。念のために確認をする。

「僕ら以外に、この鍵を取りに来た人間は、いませんよね?」

「……ええっと、ああ、いましたよ」

「なんですって!」

 ハロルドは、歯噛みした。一歩、遅かったか! だが、フロントの次の言葉で、ホッと安堵の息を吐いた。

「昨夜、610号室のミス・エヴェリン・モーティアルトが、夜に鍵を借りに来ました。何か問題だったでしょうか?」

 フロントは警察の雷を警戒して、首を竦めている。

「なんだ、彼女か。それなら、いいんだ」

 エヴェリンが昨夜、密室の謎を解明してくれたおかげで、今がある。ハロルドはフロントの手から鍵を奪い取ると、早足でアダムの前を通り過ぎた。

「どうしたんですか? 問題ありですか?」

「違う、何でもない。いいから行くぞ」

「はい!」

 それでも、嫌な思いは消えなかった。エヴェリンが解明した真実は、犯人が何らかの形で、ホテル側にいる人間だ、ということだった。技術屋として712号室に潜り込んだ経緯を考えて、事件が起きた翌日辺りに、また忍び込み、証拠隠滅した可能性だって、充分にある。

 ハロルドは神に祈りたい気持ちだった。

 ――頼む! 何かしら証拠が残っていてくれ!

 エレベーターに乗り込み、七階で降りるまで、ハロルドの貧乏揺すりは全く止まらなかった。

 鍵を穴に差し込み、カチリと動かす。部屋に入るなり、バルコニーに走った。

 アダムがハロルドの後ろを駆けながら、安堵の息をついた。

「よかった、バルコニーはあるじゃないですか。バルコニーごと、時限爆弾で地上に落下したのかと思いましたよ」

 ハロルドは、ぴたりと立ち止った。

「……今、何て言った?」

「……済みません。大袈裟でした」

「だから! 今、何と言ったんだ!」

 アダムが眉を寄せ、悲鳴を上げそうな、情けない顔をした。

「バルコニーが落っこちたかと思ったんですよぉお!」

「それじゃない! 今、時限爆弾と言わなかったか?」

「だから、謝ってるじゃないすかぁあ!」

「それだ!」

 六階のバルコニーを確認していた時から、期待していた問題があった。あの、低く、金属が腐食した柵の一部でも、欠落していてくれないか、と――。

 その隙間から、午後二時に何か重たいものを落とす真似ができれば、犯人が造り上げた不可解な状況の大半が、説明がつく。

 ハロルドはバルコニーに続くガラス戸を開けた。

 思っていた通りだった。712号室のバルコニーの柵は、右から二本目が一つだけ、欠落していた。実際に触れてみると、そう以前に欠けたものではないとわかった。切り口はまだ錆びていない。

 犯人が、故意に無理矢理、この柵だけ切り取った。技術者の振りをして、つなぎを着て作業をしていれば、たとえ他人目(ひとめ)についても、咎められる可能性は低い。きっと古い柵を撤去し、新しい柵を付け替える作業の途中だと思われただろう。

 問題は、午前二時に、この下に具体的に何が落ちたのか。

「アダム!」

「は、はいっ!」

 そこでハロルドは不覚にも、一気に立ち上がった。腰に激痛が走った。

「痛たたたたた」

「腰を揉め、ってことですか?」

「ば……馬鹿野郎……」

 ド素人に、渾身の力で腰なんか揉まれたら、二度と立てなくなるではないか!

 次に発する予定だった言葉は、勢いよく、「もう一度フロントに行くぞ!」のはずだった。ハロルドはゆっくりと、上体だけ前に倒し、背中を摩った。

 腰痛は、職業病だと思っている。しかし、この職業、腰痛を患っていると、いざというとき、非常に恰好が悪い。捜査の効率も悪くなる。

 よろよろと歩いて部屋に入ると、スローモーションで、ソファのなるべく柔らか過ぎない座面に腰を下ろす。

 額に浮かんだ脂汗(あぶらあせ)を拭い、何とか声を出した。

「も……もう一度……フロントに行く。その前に、ちっとだけ小休止だ……」

 ハロルドたちが去ってからも、マリリンは、しばし呆然自失していた。

 あの夜、ドアの向こうにエリックはいた。ハロルドたちが何を調べに行ったか知らないが、マリリンには、もう充分に、衝撃だった。

 エリックはマリリンの声に応えなかった。ドアを挟んで、すぐ間近に二人はいたのに。あの時から既に、マリリンとエリックの運命は、会い交わることなく、どんどん遠く離れていっていた。

 なんだか疲れた。途轍もない疲れだった。

 日常に疲れた、なんて程度の代物ではなかった。人生に疲れた。いや、人生に、絶望した……。

 マリリンは、ふらふらとベッドまで歩き、どっさりとマットレスに俯せに倒れた。腕を思い切り伸ばし、サイドテーブルに置いた薬瓶を掴む。

 体を回転させ、枕を頭の下に置くと、瓶の蓋を開け、錠剤を掌一杯に落とした。

 これだけ飲めば、しばらくは眠っていられるだろう。でも、いつか、起きなければならない時が来る。永遠に眠るには、どうしたらいいか。

 ――バルビツール系睡眠薬は過剰服用すると、死に至る……。

 掌の錠剤を口に含もうとして、躊躇した。もし、もしも、これで死ねなかったら、体に大きなダメージを残す。それに……もしかしたら、マリリンは、もう死んではいけない体なのかもしれない。

 掌を振り、大量の錠剤をシーツの上にばら撒いた。今度は電話を取り、受話器を持ち上げる。

 ――エヴェリン、どうか、部屋にいて!

 今、エヴェリンの声を聞けたら、命を軽んじる真似は止めよう。

 投げやりな気持ちのまま、ただただ自分が情けなかった。こんな賭けのような真似で、自分の寿命を決めるなんて。

 本当は死にたくなんてない。幸せでいられるなら、百歳を超えても生きていたい。エリックを失った今、マリリンの手に届く幸せは存在しなかった。

 ただ、一つだけ、小さな希望が消えずにいた。それをこれから、エヴェリンに打ち明けようと思う。

 コール音が続く。マリリンの目から涙が零れた。神さま、貴方は私が死んだほうがいいと思っているの? この世に、もう幸せなんて、ないと思っているの?

 受話器を下ろそうとした瞬間、エヴェリンの声がした。

「ごめんなさい、シャワーを浴びていたの」

 マリリンは、安堵のあまり、わっと泣き出した。

 ハロルドとアダムは、フロントで支配人を呼び出した。支配人なら、ホテル全体の雇用状況を把握できると踏んだからだ。

「この一月から短期でホテルに雇われた人間を探しているんです。たぶん、今はもう辞めているはずです」

 支配人が当惑しながら、雇用者名簿を捲った。

「この数か月で、臨時に雇用された人間は、おりませんが」

「それは、制服組の話じゃないかね?」

「はぁ、そうですが」

 ハロルドは、左手を腰に当てたまま、右手をフロントのデスクに載せた。

「犯人は点検技師を装い、点検口から客室に入ったんです。そちらの管理体制は、誰に聞けばわかりますかね?」

「少々お待ちください」

 支配人が一度、奥に引っ込んだ。やがて、別の名簿を持ってきた。先程以上に真剣に、ゆっくりとページを捲る。やがて、大きく落胆の息を吐いた。

「ご期待に添えず、申し訳ありません。点検技師も、臨時に雇った人間はおりません」

 その程度で諦めるつもりはなかった。そもそも、点検技師になんて、誰でも扮する真似ができる。それなりの工具を持ち、身形を整えれば、ホテルのボーイとすれ違ったって、見咎められるものではない。

 ハロルドには、もう一つ、切り札となる質問が残っていた。

「それでは、厨房は、どうでしょう? 一月に急に採用され、間もなく辞めた人間はいませんか?」

 点検技師から厨房の料理人に対象が変わった事実に、支配人が戸惑っていた。無理もない。

「厨房は担当がまた、別でして。でも、可能性は大いにあります。一月は団体客も多く、臨時に雇った人間も、いたはずです」

 アダムが、ぽかんとした顔で、ハロルドを見た。

「どういうことなんです? 厨房っていえば、皿洗いとか、給仕、料理人でしょ。今回の事件には全く関係がないんじゃないですか?」

 ハロルドは、ニヤリと笑い、ゆっくりと振り返った。

「それが、そうでもないのさ。点検技師として入り込む必要はない。だが、厨房に自由に出入りできる必要は、絶対にあったんだ」

 ハロルドはアダムと共に、支配人に連れられ、レストラン奥の厨房に向かった。

 ブロンドの髪に厳めしい顔のシェフらしき男が現れた。話は既に通っているようだ。

「一月は一人、臨時で入ってもらった奴がいましたよ。すぐ辞めたけどね」

「どんな男でした?」

 シェフが顎に手を当て、目線を上げた。

「白人ですよ。目は青、髪はブルネット。眼鏡を掛けていたけど、あれは伊達眼鏡だね」

「つまり、変装していた、と?」

 シェフが陽気に笑った。

「ホテルの厨房は裏方だからね。何か悪さでもして、マフィアに睨まれ、逃げてるんじゃないのか、って噂してましたよ」

 ハロルドは、確かに核心に近づいていると実感していた。

「似顔絵の作成に、協力していただきたいのですが」

 シェフが快諾した点は、言うまでもない。

 三日後、沈着冷静なマックが珍しく、興奮して、刑事部屋に駆け込んできた。

「ハロルド、大当たりだ! 午前二時にエセックスハウス前の路上に停車していたトラックが、わかったぞ!」

 ハロルドは痛み止めを呑んだばかりだった。それでも、椅子から飛び上がりそうになる体を、懸命に理性で堪えた。

「どんなトラックだった?」

 マックが手帳を開き、親指を舌で舐めて、ページを繰った。

「エセックスハウスにリネンやカーテンを洗濯して、運び込む業者だ。午前一時から三時の間、問題の箇所に停車していたと、運転手が証言した」

 アダムが興奮して立ち上がり、ハロルドの背中を思いっ切り叩いた。

「やりましたね、ハロルド! やっぱり二時の落下音は、何かがトラックの荷台に落ちる音だったんですよ!」

 背中を叩かれたから、腰が無事なわけではない。

「……お前なあ、背骨と腰骨が繋がっている事実を忘れるなよ」

「す、済みません、つい、興奮しちゃって」

 誰だって、興奮したくもなる。密室から二時に落下したものが、エリック・ドノバンの体ではないと、証明されたも同然なのだから。

 ただ、ハロルドは冷静だった。ここで興奮して、詰を甘くしては、犯人からの返り討ちに遭う。何としても、証拠を固め、犯人に突きつけなければ。

 できれば、映画の撮影が終わる前に。

 ハロルドは、マックに向き直り、ゆっくりと尋ねた。意識しなければ、今にも椅子から立ち上がり、廊下に駆け出していきたいところだった。しかし、腰痛悪化で、そうもいかない。

 マックに頼んだら確かだとは信じてはいた。だが、できれば自分の手で直接、解明したかった。

 まあ、いい。事態の進展に変わりはないのだから。

「それで、何か変な荷物は入っていなかったか?」

 マックが、よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに、ニヤリと笑った。

「予定にはなかった、簀巻(すま)きのカーペットが入っていた、とよ。当初は、似たような荷物ばかりなんで、気づかなかったらしい。警察の聞き込みを受けて、再度、中身を徹底的に調べたそうだ。そしたら、案の定、余計な一ピースがあった、というわけさ」

「その、簀巻きのカーペットの重さは? 大きさは?」

 マックが、「まあ、待て」と、右手を上げ、ハロルドを制した。焦らすように、ゆっくりと再び手帳を捲る。

「部屋全体を覆うような、大きなカーペットではないんだ。簀巻きにして立てかけた高さが、四フィート十インチ(約百五十センチ)。重さは百ポンド(約四十五キログラム)ほどだった」

「トラックは確かに、712号室の真下に位置していたんだな?」

「ああ、運転手と現場に行って、確かめた。なるほどと思ったよ。そこから資材の搬入口に進むんだ。トラックは、エセックスハウスに出入りする時には、必ず、あの位置に駐車する」

 ハロルドは思わず、拳を振り上げた。

「さっそく、現場検証だ!」

 と、勢いよく立ち上がる。またしても、腰に激痛が走った。

「畜生、あの藪医者、痛み止めがちっとも効きやしない!」

 マックがアダムに手招きし、ハロルドに忠告した。

「現場検証は、俺たちでやる。お前はここで、もう一つのすべきことをやっておけ。どっちも重要な問題だ。これで、犯人を挙げられる」

 ハロルドは、スローモーションで椅子に座ると、悔しい思いで、テーブルにあった鉛筆を中央からへし折った。

「ああ、わかった。もう一つの問題は、俺には、なかなかに難しい話だがな」

 アダムが気楽な声を出した。

「刑事のくせに、電話で相手と話す聞き込みは、苦手ですもんねえ」

「うるさい! 早く行け! 結果は、一つ漏らさず報告するんだぞ!」

 アダムが大袈裟な身振りで、敬礼した。

「アイアイサー!」

 マックとアダムの背を、憎々しい思いで見送ると、大きく息を吐き、デスクに向き直った。

「なあに、殺されるわけじゃない。ただ、言うべきことを言うだけだ」

 ハロルドは重たい気持ちのまま、受話器を取り上げた。

「マリリン、大丈夫?」

 エヴェリンは、ずっと眠っていたマリリンを見守っていた。薄っすら目を開けたところで、問い掛ける。

「何か、欲しいものはない? 少しでも何か口に入れたほうがいいよ?」

 マリリンが、弱弱しい笑みを浮かべる。

「ありがとう、エヴェリン。でも、今のところ、何も食べたくないわ」

 エヴェリンは、わざと陽気に見える顔を作り、「そっか」と呟いた。

「食べたくないんじゃ、仕方ないよね」

「安心して。もう金輪際、死にたいなんて、思わない。しっかりと前を向いて生きていくと、決意したのだから」

 その点は、エヴェリンも疑ってはいない。ただ純粋に、体の調子が心配だった。

 気がかりな点を、率直に質問してみる。

「アーサーとは、離婚するの?」

 マリリンが静かに目を閉じた。何かをじっと考えている様子だった。

「……とりあえずは、しないわ。離婚は、とてもエネルギーのいる問題よ。今の私には、そんな問題以上に、大事な現実を抱えている」

「……確かにね」

 そこで不意に、マリリンが話題を変えた。

「貴女の田舎って、どんなところ?」

「ケンタッキーよ。なぁんにもないところ。あ、でも、生活するのに気楽かな。物価も安いしね」

 マリリンが真剣な眼差しで、頷いた。

「気楽に生活できる点は、大事よね。それに、ハリウッドは物価が高すぎるわ」

 エヴェリンは思わず、小さく笑った。

「そうだね。何度か帰ろうかと思った。でも、その度に、何の冒険もしない人生でいいのか、って、自分を叱咤したんだよ」

 マリリンが、小さく首を横に振った。

「私はもう、冒険なんて、たくさん。でも、帰る田舎がないのよ」

「マリリンはずっと、ハリウッドで生きてきたんだものね」

「年頃になったら、皆、女優やモデルに憧れる土地よ。違う州で生まれていたら、全然、違った人生が待っていたでしょうにね」

 エヴェリンは、堪らない思いで、マリリンの手をぎゅっと握り締めた。

「マリリン、大丈夫だよ。その……いろいろ問題はあるけど、きっと上手くいく」

「そうあって欲しいわ」

 スタンドインになったばかりの頃は、マリリン・モンローになれたらどんなにいいかと思ったものだった。

 今は、金を貰ったって、実のマリリンになろうとは思わない。なんと悲しい運命を背負った女性なのだろう。どうして神さまは、マリリンをいたぶるように、運命を翻弄するのだろう。

 不意に電話が鳴り、マリリンを制止して、エヴェリンは受話器を取った。電話の主は、ハロルドだった。なんだか後ろがやけに騒がしく、ハロルドの声が聞きとり難かった。

「今、どこにいるの? 凄い騒音なんだけど」

 ハロルドも懸命に声を出しているようだ。

「実は、ロス空港にいるんです!」

「何でそんなところに? 捜査に進展があったの?」

「はい! それでなんですが、明日、マリリンに是非とも、スタジオに来ていただきたいんです」

 エヴェリンは送話口を手で塞ぎ、マリリンに告げた。

「捜査に進展があったんだって! 明日、スタジオに来て欲しいって」

 マリリンが慌てて、上体を起こした。

「本当? 犯人がわかったの?」

 エヴェリンは、マリリンの言葉をそのまま、大声で伝えた。

「犯人がわかったの?」

「ええ、わかりました! 今日、ロンドンから客人を迎え、明日、全ての真相をお知らせします!」

 ハロルドは空港で、午後五時のブリティッシュ・エアウェイズから吐き出されてくる乗客を、じっと見ていた。

 ここで会えなかったら洒落(しゃれ)にならない。大きな鞄をカートに載せて引いてくる旅行客の一人一人を、じっと凝視する。

 緊張からか、顔が強張(こわば)っていたのかもしれない。一人の老婦人から、あからさまに嫌な顔をされた。

 ポケットから手帳を取り出し、書き留めたメモを見る。

「身長五フィート(百五十二センチ)、体重百ポンド(四十五キロ)、白い髪にブルーの瞳……」

 妙な符合だ。エリックのバルコニーから落ちたカーペットと、身長も体重も、ほぼ同じだった。

 ハロルドは目印にと、客人の首と自分の首に、赤いバンダナを巻いている。

 ――犯人が簀巻きのカーペットを用意した時、ちらりとも頭に、身代わりと想定しなかっただろうか?

 背筋が、ぞくりとした。マリリンとエヴェリンの身近に、確実に犯人は存在する。二人を危険な目に遭わせないためにも、早急の解決が必要だった。

 やがて、小柄な白髪の女性が、赤いバンダナを巻いて、戸惑い顔で現れた。

 この女性だ! 間違いない!

 ハロルドは、右腕を大きく上げた。左手で赤いバンダナを掴み、振った。

「ロサンゼルスにようこそ! ミセス・ベル・ドノバン!」

 ベルが戸惑いの顔で、ハロルドに近づく。

「貴方が、ハロルド・テイラーさん? ロス市警殺人課の?」

「そうです。わざわざ、こちらまで来ていただいて、大変、恐縮です」

 ハロルドはベルの手をしっかりと握り、固い握手を交わした。

 ベルが疲れた様子で、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。

「いいんですのよ。私も真実が知りたいと思い、やって来ました。不安だらけの旅だったけれど、貴方の顔を見て、ホッとしたましたわ」

 ハロルドは、まず申し訳ない思いで、詫びた。

「本来なら、貴女の荷物を持つべきでしょうが、今、酷い腰痛に悩まされているんです。申し訳ありません」

 深々と頭を下げたハロルドに、ベルがぎゅっと右手を握り締めてきた。

「どうぞ、お気になさらずに。私が遠路はるばるロスに来た理由は、息子エリックの死の真相を知るためです。刑事さんは、だいたい犯人の見当はついているんですの?」

 ――ここは自信があるところを、見せてやらなきゃな。

 ハロルドは余裕の顔を意識して、大きく頷いた。

「はい。でも、まだ証拠がありません。そこで貴女のお手をお借りしたいわけなんです」


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