3
夕食はとうに片され、間もなく消灯時間となる。シズクは来そうになかった。
ついに消灯時間となり、電気が消えた。部屋は暗く、窓も閉められていたため、音はほとんど締め出されていた。
すっすっすっ、と廊下を看護士が見回る音がする。僕は布団を頭まで被り、目をぎゅっと閉じた。
足音は部屋の前でやみ、次いで扉が開かれる音がした。戸惑いながら、さっさと出ていってくれればいいのに、と思いながら相手の気配を窺った。
――――
……?
不思議なことに、すぐには扉の閉まる音がしなかった。扉はそれから一度は閉まったものの、部屋の中には人の気配が残った。
足音が僕の方へ近付いて来た。僕の心臓は不安に駆られて騒いだ。掛け布団の中、心臓の音と足音だけが音源だった。
誰かが寝台の横に立った。じろじろ見られているのが解る。看護士はこんなことをするだろうか?
刹那、掛け布団を掴まれた。神経がそれを認識するのと同時に、布団は引き剥がされた。声は出せないし、身動きも出来ない。暗がりの中、誰かの影が僕を見下ろしている。その影が顔を近付けて来た。
淡く甘い匂いがした。
あっ! と声を出しそうになり、それはその人の手が僕の口を塞いだことによって封じられた。
「あたしよ。シズクよ」
――シズク。
彼女は僕の左側に立っていた。窓から差し込んだ月光がシズクの姿を現した。
「どうして?」
「こんな時間にしか、抜け出す暇がなかったの」
耳元でシズクは囁いた。顔を向けると、鼻先に彼女がいた。
「シズク、君はいつも近すぎるよ」
「そう? ゴメンなさい」
そう謝るが一向に離れようとはしない。すぐにそんなことはどうでもいいか、と思い直すことにした。
「まあいいや。それより、シズク。質問してもいい?」
「何かしら、惺?」
シズクは妖しく笑んだ。
「シズクはもしかして、僕がここへ来る前から僕を知っていたんじゃないの?」
「どうして?」
質問の意味が解らない、そんな顔が月光の中に浮かんだ。
「だって君が初めて僕を訪ねて来たときの成り行きが、不自然だったもの」
僕の言葉にシズクは目をぱちくりさせた。でもすぐに微笑した。
「あたしは惺が運び込まれるのを見ていたの。病室がどこなのかもすぐに解ったし、それにあたしは独りだったから」
風に吹かれる花のような儚い笑みを浮かべた。
「あたしは独りになってしまったから、まあ、寂しいし、暇だったしね」
シズクは悪戯な笑みを浮かべた。だが、目は何も見ていないかのように虚ろで、それだけがセリフと表情から隔たっていた。
「なぜ、シズクはそんなに笑えるの?」
月光が雲に隠れ、シズクの表情も隠れた。シズクの影がしゃがんだ。僕の左手が、二つの手の温もりに包まれた。その手の甲が人肌に触れた。頬に当てられている。
僕らは無言で互いの目を見合った。微かな息遣いで空気が揺れ、沈黙が払拭された。
「なんでだろうね」
手に冷たい何かが触れた。それは液体で、間もなく僕の肌へ染み入った。彼女の隠した悲しみや孤独が、僕へと流れ込んできた。
「惺。辛い、淋しい、悲しい、怖い、耐え切れない……助けてよ、辛いんだよ……胸ならとうに引き裂かれてしまったよ。血が滲み出して、あたしだけじゃ止められない……」
シズクの声は震えていた。それまでの気強さはなくなり、ただただ弱かった。しかし、その一言一言は僕にづかづかと突き刺さった。
不動なる望み。
――こんなシズクを今まで見たことない。
何かが、頭をよぎった。レーザーが脳を貫通したというか、閃きが一時瞬いたというか……記憶が頭をよぎったような――
「シズク、君は……」
それ以上言葉が続かなかった。心だけが寒空の下にいるようで、言葉が生まれなかった。
「惺は友達よね」
シズクの声は掠れていた。
僕に否定する理由はなかった。それどころか、そうであることはすでに決まっていたことに思えたため、奇妙な感がした。
「僕はシズクの友達さ。僕にとっては掛け替えのない――」
「あたしにとっても掛け替えのない」
友達――
「あたしたちは生き残りなの。生かされてしまったの」
シズクは立ち上がり、僕の手を優しく戻した。ふたたび光を照り返す月が顔を見せ、シズクの顔にも光を分けた。彼女は一笑の中に流涕した。じゃあね、と言った。
静かにドアを開けてシズクは出て行った。その後姿は闇に撒かれた光の粒子みたいに、音もなくいつの間にか消えてしまった。




