13
退院する日の午前中、僕はもう一度シズクのもとを訪ねることにした。正確な時刻で言えば八時一三分。
今日も天気は世界を灰色に染め上げ、窓から見える桜の木は風でしなっている。暴風。そのうち雨が降ったり雷が鳴ったりしそうだ。
廊下の窓から空を眺めているとシズクの病室についた。『ウタズミシズク』のネームプレートを確認し、ドアをノックした。中から声が返ってきて、僕はドアを開けた。
「今日も来てくれたんだ」
昨日とは違い、彼女は元気そうだった。
「今日来ないわけがないだろう」
椅子を寄せて座り、シズクと視線を合わせた。彼女は先日と同じ姿勢で本を読んでいる。
「ねえ、本当に退院するの?」
「してほしくない?」
「してほしくない」
迷いもせずにシズクは返した。
「どうして?」
ちゃんとした理由が知りたかった。わけもなく、知りたかった。
「それは……」
シズクは俯く。
彼女が口を開くまで、僕は待った。
「……ねえ、惺。伯父さんは優しい?」
どんなことを言うのだろうと身構えていただけに、肩透かしをくらった。
「伯父さんのこと? なんで?」
「なんとなく」
いぶかしんだが、ちゃんと答えることにした。
「伯父さんは、とても優しいよ」
そう答えると、シズクは朧月みたいに淡い微笑を浮かべた。
「そう。それなら良かったわ」
――なんなんだろう……。
「ところで、惺は退院したらどこに住むの? 家族はみんな亡くなってしまったんでしょう?」
「伯父さんの家に住むみたい。まずは僕の家で必要そうなものを見るらしいけど」
シズクはふーんとなんだか納得した。
「それなら、大丈夫ね」
目が笑っていない笑みを浮かべた。
シズクの元にはわずか一〇分ほどいただけで病室へ戻った。まだ伯父さんは来ていない。そのかわり看護士のお姉さんがいた。
「もう、どこ行ってたの?」
お姉さんは怒っているんだか笑っているんだか良くわからない様子で言った。
「伯父さんが持ってきてくれていた服に着替えなさい」
それだけ言うと、お姉さんは部屋を出ていった。寝台の上に畳まれた洋服が置かれていた。言われたとおり着替えることにした。
あいかわらず世界は風が吹き荒んでいた。しばらくすると雨粒も混じりはじめた。
なかなか伯父は現れなかった。予定よりも二時間遅い一一時に伯父さんはやって来た。肩がすこし雨で濡れていた。
「遅くなってゴメンね。渋滞していたんだ。それじゃあ、行こうか?」
伯父さんに続いて病室を出た。先生や看護士の人たちにお礼をしてから、伯父の車に乗り込んだ。先生たちは玄関まで来て見送ってくれた。
シズクの部屋には寄らなかった。寄れなかった。時間的にも精神的にも。
「じゃあ、まずは惺の家に行くよ。惺が必要なものを取りに行こう。それから伯父さんの家に行くよ」
僕は頷き、シートベルトをしめた。
家までのあいだ、とくに会話はしなかった。ラジオから流れてくるニュースで、台風が近付いていることを知った。季節外れの台風みたいだ。
家には病院から一〇分ほどで着いた。家は近かった。歩いてもそう掛からないだろう。
細い道にならんでいる家だった。それほど大きいわけではない。周囲の家と比べても大差ない。というより、外見は似通っている。
表札には『渡』と彫られていた。つまり僕は渡惺。
車を降り、伯父さんの差す傘の下に入って玄関へ向かった。
伯父さんは鍵を開けると、僕を先に入れてくれた。
玄関を入ってすぐ右に階段があった。正面にはフローリングの廊下が伸び、リビングへと繋がっていた。廊下の壁に、ドアが二つあった。靴を脱いで上がった。その二つのドアの先は脱衣所とトイレだった。
「とりあえずリビングへ行こう。何か飲んで一服だ」
靴を脱ぎながら伯父さんは言った。伯父さんを待ってリビングへ入った。リビングは和室と台所に繋がっていた。入って左手に台所。右手に和室だ。部屋の中心にテーブルがあり、椅子も四つ揃っていた。
「椅子に座っていなさい」
言われたとおり椅子に座った。伯父は台所へ行き、冷蔵庫の中を見た。
「リンゴジュースがあるけど、飲むかい?」
首肯した。
伯父は紙パックのリンゴジュースをコップにうつし、僕の前に置いた。
「ありがとうございます」
礼を言ってすぐに一口飲んだ。
澄み切ったような甘さが口に広がった。
「おいしい」
「そうか。良かった」
伯父さんは笑う。
僕は続けて飲んだ。そのあいだに伯父はお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。
それを見ていると、うとうとした。
――眠い……。
なんだろう。安心したのかな? 瞼が重くなった。伯父さんの背中を最後に見て、僕は机に突っ伏した。伯父さんが僕の名を呼ぶ声がして、眠いと答えた、と思う。本当に眠くて、答えたのかどうかわからなかった。




