ドロー大会! ずっと私のターン! 2
椿は生まれたての子鹿のように脚をプルプルさせてはいたが、何とか一人で立っていた。不安だったがブラシを持つと逆にバランスがとれて安定した。選手たちの足元には短距離走のスタート位置にあるような、二つ並んだ蹴り台がある。横から秋日子による説明が入る。
「ストーンを放つことは『デリバリー』と言うの。まあ投げるよりも運ぶ感じだからね。そしてこの蹴り台が『ハック』。コレを蹴って低い姿勢で滑り出し、ハウスに向け石を放つ。ストーンの上部には曲がった取っ手がついてるから、それで回転をかけていく。ちなみにアイスが溶けていくほどストーンは曲がらなくなっていくわ」
そこまで言うと、パイプ椅子に座った星先生に目配せした。
「では、私から?」
「それがいいだろう」
秋日子はゴムで手早く後ろ髪を縛った。立ったまま前屈し、ブラシを左手に、右手は足元のストーンの取っ手に軽く添えた。投球姿勢。
「じゃあ、見てて」
顔を上げ、真っ直ぐ遥か先のハウスを見つめている。そのままストーンを一旦ハックまで引き寄せ、ハックを蹴った勢いで押しながら滑り出した。氷の表面とストーンが擦れてゴリゴリと激しい音を立てる。
滑らかにストーンに続くように片膝を立て、もう一方の足は甲までぺったりと氷につけた。
右手でストーンの取っ手に微かに力を入れると、まるで宇宙空間でモノが漂うように滑らかに回転し始める。手を離れたストーンはクルーリクルーリゆっくりと自転しながら弧を描き、ハウスに向かっていく。
エミリの脇腹をくすぐってふざけている遥夏へ、星先生が呼びかけた。
「見ておけ。あの姿勢。あのデリバリー。最も基本に忠実なものが、実は最も美しい。シンプルイズビューティフルーー」
ストーンは静かにハウス最中央のボタンに止まった。
「アンドストロング、だ」
一方、当の秋日子は不満げな様子でストーンを回収に向かう。
「少し氷を読み違えたわ。アイスの溶け具合が不安定なのよ。もう少しだけ前に置きたかった」
「あっと、秋日子!」
遥夏が何か企んでいるような、ニヤついた顔で呼び止めた。
「ストーンは退けなくていいよ。あたしにゃ関係ないから」
秋日子はやれやれと肩を竦め、ハウスの脇で立ち止まる。遥夏はハックに立つと、俯いて誰にともなくブツブツ呟きだした。
「……いや……バカ……」
椿とエミリは緊張して耳を傾ける。
「さて、遥夏ちゃんのちょっといいトコ見てみたいー! そーれ、いやん、ばかん、うっふーん、にゃー」
あまりにもくだらない言葉。そのまま気だるげな様子でストーンに手をかけると、ハウスを――そしてその中央にある秋日子のストーンを一瞥した。星先生はどことなく嬉しそうである。
「次に出るショットは遥夏の十八番にして、基本のドローショットで最高難易度の技だ」
遥夏は秋日子とは対照的にだらしない身のこなしだったが、それがいちいち洒落て見えた。耳のピアスが反射した時、椿は猫のようだと思った。
「本人もニャーニャー言ってるし」
滑り出した遥夏が左手でストーンの取っ手に微かに力を入れると、まるで宇宙空間でモノが漂うように滑らかに回転し始める。手を離れたストーンはクルーリクルーリゆっくりと自転しながら弧を描き、ハウスに向かっていく。
遥夏のショットは秋日子と全く同じルートを辿ったが、早く減速し始め、まるで吸い付けられるようにピッタリと秋日子のストーンに寄り添って停止した。
「バンザイ!」
エミリが歓声をあげた。
「どうだ?」
星先生は椿に尋ねる。
「はい、まるで一部コピペしたかのように同じ動きでした」
「冷静な分析だな。さて、あのショットを『フリーズ』と言う。カーリングは敵味方交互にストーンを投げる競技だ。敵にフリーズされると、その石を弾き飛ばそうとしても先の自石がストッパーになって邪魔になる。厄介な技だ」
遥夏は意気揚々と立ち上がり、どや顔でウインクする。が、秋日子に肘で小突かれた。
「ホラホラ、さっさとストーン片付ける! それに、これはあくまでドローショット戦。ハウス中央に一番近いのはあくまで私なのよ」
はいはい、と返事してまた機嫌を悪くさせる。ブラシでストーンを押して端に寄せる。
「さあ、次は――え?」
気づけば猛烈な勢いでストーンが秋日子のすぐ足元に迫っていた。遥夏が抱き寄せてなんとか避ける。高速で風を切りながらハウスを素通りし、シートの端に置いていたストーン止めの丸太をバキ折ってめり込んだ。青ざめる二人。
「ウェイト(スピード)がカーリングってレベルじゃねえぞエミー! そりゃ大砲だ!」
「アッハッハー! スイマセン、カイシャクお願いします!」
エミリは氷上に正座した。目を閉じて覚悟している様子。
「うん、それはそれで困るかな!」
まともに当たっていれば足首の骨を折っていたところである。
「大変なことに気づいたわ……!」
秋日子が遥夏の腕の中で神妙な面持ちをしている。
「ハルカってけっこう胸大きいのね。カップはD?」
「……他に言うことありませんかねー。お礼とか」
「これは由々しき問題だわ。今までアイスが使えなかったからエミーのショット見るの初めてなのよ」
星先生に爆笑されているエミリを見て、二人同時に白いため息を吐いて戻る。秋日子は笑いながら謝るエミリを軽く流して、椿に次のショットを促した。
ジッと見つめてくるエミリ。妙な威圧感で緊張させる星先生。ニヤニヤ笑いの消えた遥夏。あまり良い雰囲気とは言えなかった。椿は準備をしつつも、何のためにこんなことをしているのか疑問に思えてきた。
ほとんど練習しない、などという都合のいい話は彼女たちを見ている限り噂に過ぎないだろう。自分は本当に入部するのか。何が決め手だろうか。ただ暇な時の行き先が欲しい、というだけなら練習にはついていけないだろう。嫌いな氷にわざわざ近づくことはない。入部はやめておくべきだ。しかしもしかして妹とメールすることと並ぶほど価値があるとしたら? この緩やかな絶望に覆われた人生を何とかできる一片の希望なら? つまるところ――決め手は、自分にとってカーリングが楽しいか? それに尽きる。そのためには。
椿はハックに足をかけた。
姿勢を低くするとひんやりとした冷気で顔が強張る。嫌な氷。記憶の底から這い出る感情で気が滅入る。
しかし。
「やるしかないんだ」
誰にも聞こえない小さな声で、自分に言い聞かせた。椿の目は鋭く前を見つめた。ストーンを引き、体重をかけ一気にハックを蹴る。が、すぐにバランスを崩して顔から氷に突っ込んだ。
――これ、メチャクチャ難しいじゃない!
「私、カッコわる……」
顔が赤くなって思わず照れ笑いが出た。
だが同時に椿は心の何処かで、これはそんなに難しいことだろうかとも思う。一度自転車に乗れたなら、後は練習はいらない。身体に任せるだけだと。これはその類だと本能的に知っている。
「あー、すまん。最近はカーリング流行でデリバリーは基本できる奴が多いからいきなりドローショット大会にしてしまった。全くの初めては皆がそういうものだから気にすることはない。何度かやってみな。秋日子のデリバリーを詳しく思い出してトレースしてみろ」
星先生の言葉に従って思い出しながら、全員が注目する中、何度も挑戦するがうまくいかない。
「転ぶのを怖がって腰が引けてるぞ。重心は滑る方の足に乗せろ。前のめりになるくらいだ。手放す時はこれ以上なく優しく、『愛』で」
愛とは無縁そうな筋骨隆々の星先生は真顔で説明した。いいかげん空気が辛くなってきた頃、ようやく一回成功した。
ストーンは前の三人が使わなかった右側のエリアを進み、ハウスのかなり手前にある最初のラインにも届かずに止まってしまった。秋日子はストーンをさっさと脇に寄せながら告げる。
「ハウス手前のあれーーホッグラインって言うけれどーー届いてないストーンは無効扱いで、公式戦では場に残されもしないから気をつけて」
「……はい」
肌寒くなってきた。黒雲からチラチラと粉雪が微かに舞い始めている。遠く、森で雪がドサリドサリと落ちていく。椿はじっとそれを見る。
二巡目。
秋日子は全く同じ中央左寄りルートを使ったが、あまり曲がらずボタンの左側で止まった。
「おかしいわね……」
「そんなに曲がらニャいのかニャーっと!」
ストーンを片付けた遥夏は、今回も秋日子と同じルートを使い、やはり曲がらず秋日子のストーンが止まった所とほぼ同じ場所へ止まった。測ると、遥夏の方が僅かに中央に近かった。
「今度は弱く……弱く……実際弱く」
と言いながらデリバリーしたエミリはそれでも速かったが、今度は丸太に突っ込む手前で止まった。星先生は腕を組んだまま黙っている。
「さて」
椿のデリバリーである。氷に触る際のフラッシュバックを無理やり抑え込む。動悸。過呼吸。茹だった頭。しかし震えはない。緊張もない。程よく力が抜けている。
「今度こそ」
ストーンを押し出して右足に体重を乗せて滑り出す。今度は少しの不安定さもなく上手くできる。秋日子のデリバリーをトレースするのではなかった。脳内の「自分」をトレースするのだ。身体に眠っていた過去の自分を。昔、自分が生死を賭けて氷を見極め、渡っていたことを思い出すのだ。
あの日は黒雲たちこめる曇天模様、そして異常な大暴風雪だった。凍死しかねない状況さえ燃料にして情熱は燃え上がった。氷を読む。大好きなことを、見つけてしまった。
「あ、楽しい」
それは塞いだ記憶と直結して封印されていたが――ここに来て、ようやく目覚めたのだった。
そして唐突に椿は自分の人生の大前提を悟ってしまう。何処にいても落ち着かない、何処にいてもアウェイで過ごしてきた自分にとって、いつも避けてきた大嫌いな氷の上こそが本来の居場所であったこと。荒縄できつく締め付けられていたような動悸が、呼吸が、血流が、弛緩していく。
「呼吸をするのと同じだ。どうしてできないかじゃなく、できることに気づくかどうか」
椿はストーンの持ち手を僅かに捻り、回転をかける。
――これ以上なく優しく、「愛」で。
ストーンは中央右側から大きくカーブを描き、先程のホッグラインを越えたところで止まった。ハウスに入ってすらいない、端的に言えば今回も失敗。ミスショット。しかし椿の中に小さな青い炎が宿った。埃に塗れた歯車がギシギシと音を立て始めた。久しぶりに腐った感情が消え去り清浄な風の吹く丘に立っているような気分になる。ヘルはもうどこにもいない。
「なるほど」
星先生は煙草にカシャボッと火をつけた。唇から出る濁った煙は粉雪や吐息の白さに溶けていく。
結果、二巡して最も中央にストーンを置いたのは遥夏だったが、秋日子はそんなことよりも椿に尋ねたいことがあった。
「どうして私や遥夏と同じ中央左寄りの簡単なラインに投げなかったの? あなただけ一巡目も二巡目も中央右寄りだった」
椿は目を泳がせながら困った様子で答える。
「ええと、あそこの氷はヌメってて『最高のショット』にはならないからです」
秋日子は目を細めてフ、と鼻で笑った。
「初心者のあなたにわかるの?」
この本心が透けて見えるような秋日子の表情は、ある意味椿を安心させる。これまで出会ってきた人々と同じ――見慣れた顔だ。
「合ってるかどうかはわかりませんけど。中央左側はホッグライン――でしたっけ――まではいいけどそこからハウス前半エリアは陽射しが何回か当たって溶けてきてダメです。だから途中から曲がりにくくなります。もっと駄目なのはエミーが使った中央のホッグライン奥。近づくのもよくないでしょう。いかにも『あいつ』が好きそうな――いや。なんとなく嫌な感じがしますし。となると右側しか残ってません。とはいえ、そこもホッグライン手前とハウス後半エリアは溶けてきて滑りにくいんですけど、誰も使っていないラインなので比較的溶けてないし粉雪が降ってきたんで、あと一回くらいならなんとかなるかと」
前髪と眼鏡の奥に隠れた秋日子の目が鋭くなり、ずずいっと顔を寄せた。
「あなた、どうして今までそれを言わなかったの」
椿は慌てて手を振った。
「や、や、ええと、や、ええと、聞かれませんでしたから」
秋日子は唇を歪ませ、苦笑いする。動揺で動きがぎこちない。
――シートを手前から見て、ホッグラインまで・ハウス前半・ハウス後半、と三分割。それを更に左・中央・右と三分割。つまり九分割してその全ての状態を把握してるっていうの? 天候や気温やそのエリアを何度使ったかまで見逃さず? 七冬さんはハックの位置からほとんど動いていない。そんな遠くから? そんなことが可能だというの?
「あ、やっぱり間違ってました?」
――そして、自分がどれ程のことをしているかわかっていない! それが最も腹の立つ!
「いえ、なるほど結構。合っているわ」
じっと聞いていた遥夏が笑いながら横から口を挟んだ。
「秋日子、正直に言いなよ。そこまで細かくアイスの状況を読めるのはこのチームには誰もいないから、正確には合っているかいないかもわかりません、ってニャー」
秋日子は顔を真っ赤にして遥夏の腹に肘鉄を入れた。ぐほ、とうずくまった。
「ある程度合っているのはわかるの!」
「合っているぞ。私の読みと同じだ。まだ初心者なのに大したもんだ」
星先生が――身長差でなんとなくそうしたのだろうが――椿の頭を撫でようと大きな手をあげた。椿はビクンと反応して、頭と腹を押さえて身体を引いた。
「いや、褒めてるんだが……」
「す、すいません……うぐ!」
白けた空気が流れていたたまれなくなった瞬間、椿は押し倒されていた。
「ツバキ=サン! やっぱり実際スゴイ級カーラーですね!」
エミリが胸に飛び込んできた、というよりタックルだった。二投連続ミスでも落ち込むことを知らないハイテンション娘。椿はその美しい金髪を撫でたが、急に恥ずかしくなってエミリを引き剥がした。
「私はカーラーじゃないって。入部するか決めてないんだから」
「えっ! このアトモスフィアで入部しないなんてオニ・ビヘイバーですか!」
どうやら自分は受け入れられているらしかった。
「お前さんはカーリングに向いてるよ。明日、入部届けを渡すから放課後、職員室においで」
穏やかな声。頭の中で何度もリフレインする。
お前さんはカーリングに向いてるよ。
カーリングに向いてるよ。
向いてるよ。
椿の奥で熱いものがジンワリ広がり全身に巡っていった。
日もトップリと暮れた帰り道、バスを待ちながら椿は携帯を開いた。
「もう携帯直ったかな? あのさ、突然だけどテレビでカーリングよくやってるけど、見ることある?」
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