今にも割れそうな氷の上で 4
放課後になると、椿の足は躊躇しながらも部室棟へ向かっていた。キャスケット帽を目深に被る。人付き合いは得意ではなかったが、自身が好感を持ったにしろ怒りを覚えたにしろ――とにかく椿と対面して彼女の引き起こす不幸を気にしていないのは、この学校ではあの二人しか知らなかった。
吹雪は止んでいた。
体育という名の雪かきにしか使われないという、本来の使用意図を見失ったグラウンドを横目に坂道を上る。両脇に寄せられた雪は固くあまり状態が良くない。踏むと足を取られそうなので濡れた轍を進む。
部室棟は体育館の横にあり、二階建ての比較的新しい建物である。外付けの階段は足元だけ除雪され、手摺にはまだコンモリと雪が積もっている。
「ええと、部室の場所は――」
ヒュッ!
瞬間、目前の階段で氷柱が砕けていた。もう一歩先にいたら首筋に突き刺さっていた位置である。見上げると、軒下に大きな氷柱が並んでおり――屋根の上にヘルがいた。チラリと見えた口元は笑っていた。無視して足を踏み出す。
地図を思い出しながら階段を上り、扉を開け廊下を進み、最奥左手の部室の前に立つ。
ドアノブに札が掛かっている。
「この門をくぐる者、一切の高望みを捨てよ」
そんなに私達に期待されてもこまりますぅ……というようなことなのだろうか。意味はよくわからなかったが、深呼吸する。ドアの向こうから甲高い声が聞こえてくる。ノックする。
「どうぞー」
狭い部室に五人の女子がいた。お互いのヒジがぶつかり合うような近さで、中央の机に並ぶ湯呑と菓子を囲むように座っている。視線を走らせると、遠藤遥夏とエミリ・スプリングヘッドに目が合った。
「うぃっす。やっぱ来たんだ。あたしのカリスマに惹かれちゃったかニャー」
「ドーモ。ツバキ=サン」
そしてドアに近く、大和撫子を絵に描いたような黒髪ロングのマジメ系メガネ娘が足を組んで座っていた。目つきが鋭い。勉強できそう、性格キツそう、男にもてなさそう、というのが椿の抱いた第一印象である。
「あの……どうも。七冬椿です」
「ノックして入ってきてくれるのはあなただけね。おかげさまで私の後頭部はハゲずに済みそうだわ」
不敵に笑いかけてきたが、椿にはなんのことやらわからない。目が笑っていないのであまり歓迎されていないのだけはわかったが。
「さ、空いている席に座って」
エミリが満面の笑みで自分の隣のイスをポンポンと叩いた。言われるがままに座る。左隣は知らない女子の二人組だった。挨拶しようとしたが、会話に夢中といった態度で窓際へ行かれてしまった。上手な避け方だった。
秋日子が、皆さん、と呼びかけた。
「初めまして。私は部長代理の大正秋日子。本当の部長は二年だけどその人は今は来ていないの。本日は稲高カーリング部お茶会にようこそおいでくださいました。僅かではありますがお菓子とお茶をご用意しました。歓迎します」
秋日子はまるで用意した台詞を読み上げるように優雅かつ淀みなく挨拶をした。眼鏡が白く反射している。
「カケツケ・ワンカップ」
エミリから湯呑を受け取る。
「これは、お茶会は任せろってエミーが買ってきたモンだよ」
お茶会のイメージは人それぞれである。いかれた帽子屋とウサギが飛び跳ねることもあろう。それに比べれば日本茶と煎餅だろうがお茶会には違いない。飲むと、冷え切った身体に奥深い香りの緑茶が浸透していった。
「おいしいよ。エミリさん」
「エミーと呼んで下さい」
突然隣から破裂音と悲鳴がした。椿の心臓は飛び上がった。
「あつつつあっちぃ!」
女子二人組がパニックに陥っていた。
椿は割れた湯呑を見るや、咄嗟に目の前にあったタオルを取って差し出す。奪うように取られた。
「どうしたの?」
一人が顔を歪めてタオルで内腿を押さえている。もう一人が答えた。
「お茶を冷まそうとして、寒い窓辺の方に置こうとしたらいきなり湯呑が割れたの。お茶が沢山入ってたら大変なことになってた」
秋日子が割れた湯呑を拾う。お茶が入っていたとは思えないほど表面は白く凍りつき、指先が一瞬くっつくほどである。
怪現象。
「不吉な……」
一同が押し黙った。目は口ほどに物を言う。全員がジッと椿を見た。
二人組が慌てて席を立った。
「あ、あの私、この娘保健室に連れていきます。そのままおいとましますんで、お気遣いなく続けてください」
秋日子は目を閉じ心配そうな顔で頷いた。が、不意に重要事項を思い出して顔を上げる。
「あ、連絡先――」
と言った頃にはもう二人の姿はなかった。秋日子は頭を抱えた。
椿は先程まで二人がいた場所――冷気漂う窓際を泣きそうな顔で睨みつける。しばらく、小声で呪詛のように独り言を漏らした。残った三人はそのただならぬ姿をただ呆然と見ていた。
椿はハッと我に返った。
「あ、私も帰ります。私のせいで、なんだかすいませんでした」
入り口へ向かおうとすると、秋日子が肩を掴んだ。椿の身体が硬直する。それは火傷するかと思うほど熱い手だった。
「いいのよ、別に。ただ一つ聞きたいんだけど。その……本当に不幸へぶ」
ドアが勢いよく開き、秋日子が吹っ飛ばされた。メガネが飛んで遥夏がキャッチする。
「アイス、もう使えるぞ! 整備も終わった。今は雪も降ってない」
顔を出したのは三十代前半の女性教師。ウェーブのかかった長い髪。椿も顔を知っている。身長一八一センチの現代文・古典担当の通称「巨人の星」こと、星明里である。カーリング部の面々は一斉に挨拶した。
「ん? お前さんは」
女子高生ごときにはまだまだ及びもつかない豊満な肉体。他人にあまり興味がない椿も、見上げたところに並ぶゴージャスかつタワワな二つの迫力に目がいってしまう。
「例の七冬椿か。さあカーリングをやろう」
言いながら、片手でヒョイと秋日子を引っ張りあげた。椿は俯いて帽子を目深に被った。
「いえ、私は――」
「よーし、早速恒例のドローショット大会でもやるかニャー」
「思い立ったがサンクスギビング!」
突然、椿は遥夏とエミリに両腕を掴まれて連れ去られてしまった。まるで連行されている犯人のようである。二人はズンズンと廊下に出た。
「逃がさないから」
遥夏が小さく耳打ちした。
「でも、私なんかがいると不幸に――」
ムグ、と人差し指で口を塞いで遮られた。
「この部のモットーは『この門をくぐる者、一切の高望みを捨てよ』。ここにきた者は誰にも高望みをしてはいけない。誰にも期待してはいけない。独立独歩、自主自立。あんたにもね。そう、わかりやすく言い換えると『ああ!? そんな鬱展開知るかよ!』だ。歓迎するよ、七冬椿」
あーれーと連行される椿の声は次第に小さくなっていった。
部室に残った秋日子は、星先生と一緒にブラシとストーンを取り出していた。
「な、委員長にカーリング部がラクラクだって噂を流させて良かっただろ」
「しかし、七冬さんが来なければ確実に他の二人は入部していたと思います」
秋日子はこの巨大な教師に、物怖じせずに意見した。
「なに、『七不思議』程度にビビるような奴は、ここぞという時にショットをミスるもんさ。使えない。なんせカーリングは――」
星先生は一つ二十キロあるストーンを片手で二つずつ――計八十キロを軽々と持ち上げ、四本のブラシを両腕で挟んだ。
「精神と頭脳の競技だからね」
じゃあその腕力は何なんですか、と言いたい気持ちを押し込め、秋日子は細々した器具を入れたカートを押して大きな背中についていく。
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