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足を踏み入れた瞬間に感じる、多大な本による圧力。
目前には新しく入った本、というポップと共に、小説やHow-to本が十種類ほど並べて置いてあり、奥の棚には日本十進分類法に基づいて整理された本が所狭しと身を置いている。
都島柊路はこの場所、図書室──自身が所属している文芸部の部室でもある──が好きだった。
自分の未だ知らない物語がいつでも手に取れる位置にあるという自由感、大量の知識に囲まれているというこの感覚、さらにいえば、図書室特有の、自分自身の空間に没頭できる感覚が好きだった。
刹那、目に飛び込んできたのは学校指定のセーラー服と、彼女の持つ文庫本。
換気のために小さくあけられた窓から吹き込む風が薄手のカーテンを持ち上げ、春の麗らかさはを孕んだ心地よい日光が彼女の髪を照らしている。
少しの暖かみを孕んだその茶髪からミルクをたっぷりと垂らした紅茶を連想する。
彼女の見た目から、そんなまろやかな、万人受けのする物を連想してしまい、少しだけ笑ってしまった。
彼女はどちらかというと、好き嫌いが別れるタイプの人間だろう。誰にでも好かれると言うより、彼女と関わりのある中でも少数しか彼女のことを好きになれない。その要因は分かりきっている。彼女の癖が強いのだ。有り体にいえばキャラが濃いってことなんだろうが。
「随分楽しそうね」
凛とした声が柊路の鼓膜を揺らすと同時に、視線と口角を上げただけの微笑みが向けられる。
言外に、人の顔を見てニヤつくなんて失礼じゃあないかしら?という意図が込められている気がするのは気のせいだろうか。いや、彼女のことだ、きっとそうだろう。
「なんとなく、ミルクたっぷりの紅茶が飲みたくなって」
ここで素直にすみません、と謝ってもよかったのだけど、きっとこう返した方が楽しいという予感のもと返事をする。
「……そう」
ほら、彼女は俺の意図を測りきれず、一瞬だけ、少し意外そう表情をして見せた。
やった、彼女を出し抜けた。そう、笑いかけた瞬間だった。
彼女は自身の髪を一瞥したあと、ああ、と小さく呟いたあとに「面白いことを言うのね」と視線を寄越してきた。
ついでに、というように持っていた文庫本を閉じ、表紙をこちらに見せてくる。
『斜陽』という文字を認識した瞬間、少しの優越感が霧散し、彼女の意地悪さを再認識する。
斜陽、皆さんご存知、太宰治の作品だ。
「あなたが書いたものだと思って手に取ったのだけど」
「そんなわけないじゃないですか……というか、俺、太宰は『人間失格』しか読んだことないですからね」
「知ってるわよ」
ふふ、小さく笑みを零している彼女は、きっと俺と出会った時のことでも考えているのだろう。
「最初にあなたを揶揄ったときの、虚をつかれた表情は傑作だったわ」
「それはしょうがないでしょ」
少なくとも今までの人生で、都島柊路が津島修治と音が同じだといって揶揄ってくる人なんていなかったのだから。
はぁ、とわかりやすい溜息をつきつつ、両手をあげる。
降参だ。俺を揶揄うためにわざわざ『斜陽』を引っ張り出してきていたのだ、勝てるわけが無い。
「ふふ、よろしい。それじゃあ、配架よろしくね」
彼女の得意げな表情を見るのと同時に、もう一度、溜息が込み上げた。
ここまでを見てくれた方ならもうわかるだろう。彼女──篠原結姫──はなんとも癖の強い人間である。
良いように彼女を紹介せよ、と言われれば誰もが彼女のことを才色兼備だと形容するだろう。白い肌に、艶のある白茶色とでもいうのだろう髪。大きな目を少しふせれば、長いまつ毛が肌に影を落とす。頭の回転は早く、学力を測る方法でお馴染みの定期考査でも毎度上位にくい込んでいる。
しかし、この紹介が意味を持つのは、彼女を『良いように』紹介した時のみである。
いかんせん彼女は分かりづらい。自身の尺度で物事を見ているが周りに対する説明はゼロ。多くを語らない、といえば寡黙な感じがするのだろうが、彼女を知っているこちらの身からすればただただ無愛想なだけである。
さらに言うならば、彼女は超がつくほどのマイペース人間だ。相手の思考、知識量構わず物事を発するのだから彼女と話している最中に首を傾げる人も多い。
そして人の好き嫌いももちろんある。そりゃあ人間なのだから好き嫌いはあるだろうと思う人もいるかもしれないが、彼女の場合は好き嫌いが露骨に態度に出るのだ。
そういった彼女の特性でどれ程の迷惑を被ったか……。
ここまで説明しておいてなんだか、篠原結姫を言い表すには、彼女は複雑すぎるし、俺はまだまだ彼女を知らなさすぎる気がする。
なんてことを考えていたら、利用者の少ない我が高校の図書室での配架は直ぐに終わってしまう。
ふと、彼女が座っている読書スペースに目を遣る。
彼女は既に太宰の紡ぐ世界へと旅立っているらしく、真剣な横顔が見えた。
まったく、傍から見ればすごく絵になる人だ。
声をかけるのも忍びなく思い、適当に目の前の本を手に取り彼女の隣に座る。
他の学校の文芸部の活動がどういったものなのかは知らないけど、うちの学校では、本の貸出や整理など図書館の運営も文芸部の活動の中に入っている。ただし、先も言ったように、この知の集結している場所は人気がなく、運営に関する仕事はほとんどないに等しい。
それじゃあ部活動として成り立たないではないか、と思われるかもしれないが、そんなことも無い。
暇な時間はこうやって自由に本を読む。先達の中には世の中の人達が想像する文芸部の活動のように執筆していた人もいたらしいが、今在籍している人はもっぱら読書だ。下校時刻までそれぞれの手の中に収まる大きな世界に没頭している。
手の中の文庫本を開く。
見慣れた印字。物語を紡ぐ記号の一つ一つに愛しさと安心感を覚える。
柊路はどちらかというと小説を好む。ミステリーやサスペンス、ロマンスもたまに。近代小説も読むが現代小説に特に惹かれる。文法や語彙的にとっつきやすく、最近では様々な仕掛けがあるのもお気に入りだ。
今手元にあるのは、最近映画化された恋愛小説。
教室に佇む高校生と開け放たれた窓から見える青空が、陳腐だけれど青春の輝きなんてものを想像させる。
この小説の作者の、別の作品を呼んだことがある。
豊富な語彙、秀逸な比喩表現、思わず唸ってしまうような展開が印象に残っている。
さあ、今回の物語は一体どんなものなのだろう。
期待を込めて読み出し、体感的に十分が経過しただろう時、急に隣から足をつつかれ「あなたの出番じゃあないかしら?」と声が聞こえた。
「え?」
現実世界に浮上すると同時に、咄嗟に篠原結姫の発言の意味を捉えかね、隣を見遣る。
彼女の視線は図書室の入口──さらにいえば、そこで立ち往生している女子生徒に向けられていた。
その女子生徒は、視線を不安げに彷徨わせ、かと思うと両手で握っている紙へと意識を落とす。
……なるほど。確かにこれは今この場にいる人間として、という意味なら俺の出番かもしれない。
一息付き、文庫本を机に置いたまま立ち上がる。
人見知りが入っていそうな彼女を威嚇しないよう、柔和でありそうな笑みを浮かべ、近づく。
「あの、部活動見学でしょうか」
彼女は、話しかけられるとは思っていなかったのか、少しだけ肩を強ばらせたあと、味方を得たとでも言わんばかりに安心した表情をして見せた。
体を斜めに傾け、彼女の視界を広げてやる。圧倒的な包容力を放っている本たちを彼女の眼鏡レンズ越しに視界に入れ、ダメ押しにもう一度微笑みかける。
「ようこそ、文芸部へ」
そこでようやく、この小動物のような少女は警戒心が解けたのか、持っていた紙がしなった。
そこには、『部活動一覧』と大きな見出しが掲げられていた。
まったく。小さく息を吐きつつ、ここから離れたところで悠々自適と旅をする先輩へと睨みをきかせる。
自分が必要に迫られない限りは他の人をこき使うような、横暴な先輩め……!
確かに、篠原結姫よりかは一見好感の持てる柊路が対応した方がいいのだろうが、それでも、良いように使ってくる彼女にも、彼女に対し一つの文句も言っていない自分にも、小さな怒りを覚えてくる。
……が、仕様がない。なにせこの文芸部、部員が少ないのだ。少しでも多くの新入生を勧誘することが急務となっている。
図書館内を案内しながら、簡単に部活動の紹介をする。
図書館の運営を任されていること、今在籍している部員は基本的に読書に勤しんでいること。もちろん、執筆等も自由に行っていいということも。
根が真面目なのであろう身長の低いこの女子生徒は、頷き、時折声で相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
話が一段落した時だった。
「あ、あの!」
意を決したように、彼女は女の子らしい少し高めの声を発した。
「さっきから気になってたんですけど……あの先輩も文芸部の方なんでしょうか」
彼女の視線の先を見ると、こちらのことを気にしている様子もない篠原結姫がいた。
ついぞ一言も話さなかったな、なんて思いながら頷く。
「そうだよ。少し無愛想な人だけど、悪い人じゃないよ」
「すごく綺麗な人ですね」
「そうだね」
自分から彼女の幻想を崩す必要はないだろうと、同意するままでに留めておく。この子が文芸部に入るなら、最後には横暴なお姫様の本性に気づいてしまうのだろうけど、少なくとも、自分から新入生を獲得する機会を逃す手はない。
でも、急かしてプレッシャーを与えるのも良くないだろう。
「これで一通りの説明は終わったけど、どうかな、興味ある?」
相手の反応を見ながら、言葉を選んでいく。
彼女はまた、自信なさげな表情に戻り、視線を俺から外しながら言葉を紡いだ。
「……あの、私、小説を書きたいんです。でも、一人だけで書くには自信がなくて……」
なるほど、執筆希望。
しかし現在執筆している部員はゼロ。
小説の書き方を教えられる人間は、この部には所属していない。
……彼女の入部は諦めた方がいいだろう。
ふと、彼女は覚悟を決めたように顔を上げた。
真っ直ぐな瞳が、俺を射抜く。
「私、文芸部に入ろうと思います! あの、だから、私が小説を書いたら、感想を聞かせてくれませんか……!」
予想外の返事に、思わず笑いが込み上げた。
咄嗟に口の前に手をやり、笑いを堪えようと試みる。
この小動物のような少女は、見た目に似合わず随分思い切りがいいらしい。
「えあ、迷惑でしたか?!」
俺の笑いをマイナスなものだと勘違いしたのか、彼女は眉を下げて胸の前で忙しなく両手を動かしている。
「ううん、全然迷惑じゃないよ。それじゃあこれから、文芸部としてよろしくね」
祝、今年初めての新入部員だ。
激励の意味も込めて、手を差し出す。
すると彼女は、はにかみながら白く小さな手で俺の手を掴み、威勢のいい返事をした。
「はい! これからよろしくお願いします!」




