8
茂みを挟んで、人間とオークが向かい合う。
レインはゆっくりと剣の柄へ手を掛けた。
相手も槍を握り直す。
互いの距離は十歩ほど。
一歩踏み出せば届く距離だった。
森を渡る風だけが、二人の間を吹き抜けていく。
レインは息を殺した。
ここで目を逸らせば隙になる。
相手も同じことを考えているはずだった。
若いオークは槍先をわずかに上げ、こちらの出方を窺っている。
張り詰めた空気の中――
「セレス。灰枝の森の者よ」
若いオークは目を見開いた。
「……エルフか」
「ええ」
セレスは静かに頷く。
そして一拍置いて言った。
「’誇り’あるあなたの名は?」
若いオークの表情が変わる。
槍を握る手から、わずかに力が抜けた。
「……その呼び方を知っているのか。」
オークは目を細め、槍を少し下げる。
「俺はクーキン。」
「竜鱗氏族の里長の誇り。」
「薬師の誇りを持つ者だ。」
レインは思わず目を見開いた。
先ほどまで槍を向けていた相手が、今は真っ直ぐセレスを見ている。
警戒は残っている。
それでも、明らかに空気が変わっていた。
セレスは隣のレインへ目を向ける。
「レイン」
「あなたも」
その一言で、レインの脳裏に父の声が蘇る。
――無礼のないようにな。
レインは剣の柄から手を離した。
そして、クーキンを真っ直ぐ見返す。
「……レインです」
「辺境の町から来ました。」
クーキンはしばらくレインを見つめていた。
やがて、ゆっくりと槍先を地面へ下ろす。
肩の力も抜け、その場で小さく息を吐いた。
「……よかった。」
思わず漏れたような声だった。
レインは思わず首を傾げる。
「え?」
クーキンは少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺は薬師なんだ。」
「槍は持っているが、戦う方はあまり得意じゃない。」
「本当に斬り合いになったら、困っていた。」
セレスは小さく頷いた。
「それなら、なおさら聞かせてほしいわ」
「どうして薬師のあなたが、一人で森の歩いているの?」
「薬草採りにしては、他に誰もいないみたいだけれど。」
クーキンの表情から笑みが消える。
握っていた槍を見つめ、静かに口を開いた。
「……里で病が出た。」
クーキンは静かに語り始めた。
四日前。
竜鱗氏族の里で、突然眠り続ける者が現れた。
最初は一人。
だが翌日には二人。
さらにその翌日には里長までもが倒れた。
クーキンは里長の息子だった。
薬師として、あらゆる薬草を試した。
熱ではない。
毒でもない。
呪いにも見えない。
何一つ効かなかった。
そこでクーキンは氏族の最長老を訪ねた。
竜鱗氏族で’占星の誇り’を持つ老人だった。
星を読み、風を読み、季節の巡りを読む者。
最長老は夜空を見上げたまま、一つだけ告げた。
『東より、新たな森の風の恵みあり。』
それだけだった。
「東の森は、人間と出会う。」
「だから俺たちは、よほどのことがなければ近づかない。」
クーキンは静かに続ける。
「だが、里を救える可能性があるなら行くしかなかった。」
「何か手掛かりになるものでも見つかればと思って。」
クーキンはセレスを見た。
「でも、あなたを見た時……」
セレスは小さく手を上げた。
「続きは後で聞くわ」
クーキンは口を閉じる。
「レイン」
セレスは隣へ視線を向けた。
「事情は分かったわ」
「今日は予定を変えましょう」
レインは少し驚く。
「予定を?」
「ええ」
「今日はもう少し歩いて野営にしましょう」
レインはクーキンとセレスを見比べる。
少し考えたあと、小さく頷いた。
「……分かりました」
セレスも頷き返す。
「ありがとう」
そして改めてクーキンへ向き直った。
「その代わり、今度は私たちの事情を話す番ね」
「私たちも眠り病を追っているの。」
「その先で、ドラゴンに会う予定よ。」
クーキンは息を呑んだ。
「……ドラゴン、だと?」
森を渡る風が、三人の間を静かに吹き抜けた。
セレスは二人を促すように軽く手を振ると、野営に適した場所を探すため、西へ歩き出した。
日が傾き始める頃。
三人は獣道から少し外れた開けた場所で足を止めた。
レインは周囲から乾いた枝を集め、手際よく焚き火を組み上げる。
火打石を打つと、小さな火花が枯れ葉へ落ち、やがて赤い炎が静かに燃え上がった。
ぱちり、と薪が鳴る。
森は夕暮れを迎え、昼間よりも冷たい風が木々の間を抜けていた。
レインは焚き火へ一本薪をくべる。
その火を囲むように、レイン、クーキン、セレスの三人が腰を下ろした。
薪の爆ぜる音だけが静かな森へ響いていた。
やがてセレスが火を見つめたまま口を開く。
「ということで竜鱗氏族の里を助けるためには明日の朝のメモライズが必要なの」
クーキンは「ああ」と頷いた。
「なら今夜はゆっくり休まないとな。」
そう言ってレインへ視線を向ける。
「お前も同じだったんだな。」
「親父が倒れて、慌てて森を走り回る仲間だったか。」
レインは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「そんな仲間は、あまり増えてほしくないですけどね」
「違いない。」
クーキンも苦笑した。
レインは焚き火へ薪をくべながら口を開いた。
「聞いてもいいですか」
クーキンが頷く。
「なんだ。」
「最初にセレスさんが、『誇りあるあなたの名は』って聞きましたよね」
「あれには何か意味があるんですか」
クーキンは少し目を丸くしたあと、穏やかに笑った。
「ああ。」
「あれは戦う相手には言わない。」
レインは顔を上げる。
「え?」
「名を名乗り、誇りを問う。」
「それは『お前を一人の者として知りたい』という意味だ。」
「だから、あれを交わした相手とは、少なくともこちらから槍を向けることはない。」
レインは感心したように頷く。
「そういう意味だったんですね。」
「それと、『長の誇り』とか『薬師の誇り』っていうのも、人間にはない考え方で」
クーキンはどこか嬉しそうに笑う。
「我らオークの氏族にはまず生まれの誇りがある。」
「だが、それだけじゃない。」
「薬師なら薬師、狩人なら狩人。」
「自分が生き方として選び、胸を張れるものを誇りとして名乗る。」
焚き火の灯りが届く辺りをゆっくりと歩き、一周する。
やがて元の場所へ戻ると、小さく息を整えた。
「――サークル・ウィンド・マジック」
淡い風が三人を中心に静かに巡り始める。
木々の葉がささやくように揺れ、やがて風は何事もなかったかのように森へ溶け込んだ。
レインには何が変わったのか分からない。
そんな様子を見て、セレスは説明する。
「これで獣は近づきにくくなるわ」
「近づくものがいれば、風が知らせてくれる」
レインは感心したように頷いた。
「便利ですね」
セレスは答えず、レインから差し出された携帯食を受け取る。
一口だけかじると、近くの木の幹へ静かにもたれ掛かった。
「私はもう休むわ」
「明日は朝一番でメモライズをするもの」
そう言って目を閉じる。
それ以上は一言も話さなかった。
レインとクーキンは顔を見合わせる。
「……もう寝たんですか。」
レインが思わず小さく呟く。
クーキンは苦笑しながら肩をすくめた。
「薬師にも朝が勝負の日はある。」
「魔法使いも似たようなものなんだろう。」
レインは眠るセレスへ目を向ける。
規則正しい寝息が、焚き火の向こうからかすかに聞こえてきた。
起こさないように、二人は自然と声を潜める。
レインは携帯食を口に運びながら、小さく口を開いた。
「薬師って、すごい仕事ですよね。」
クーキンは少し首を傾げる。
「そうか?」
「ええ。」
レインは素直に頷いた。
「兵士は剣を振るうことしかできません」
「怪我をしたら、助けてもらう側です」
「町でも、薬師や医者がいなければ、俺たちは何もできない」
クーキンは少し照れくさそうに笑った。
「そう言われると悪い気はしないな。」
「でも薬師も万能じゃない。」
「治せない病もある。」
クーキンは焚き火へ視線を落とす。
「今回みたいにな。」
レインも静かに頷いた。
「……だから、ここまで来たんですよね」
クーキンは小さく笑う。
「ああ。」
「治せないって諦めるのは、薬師として一番嫌だからな。」
少しの沈黙のあと、クーキンが口を開く。
「レイン。」
「お前の親父さんは、どんな人なんだ。」
レインは焚き火の向こうを見つめながら答えた。
「町の兵士です。」
「真面目な人でした。」
「剣も仕事も、いつも『まず自分が手本になれ』って言う人で。」
少しだけ口元が緩む。
「子どもの頃は、よく叱られました。」
「でも、本当に困った時は、誰より先に動く人です。」
クーキンも頷いた。
「そうか。」
「うちの親父も似たようなものだ。」
「里長だからいつも偉そうだし、俺には厳しい。」
「薬師になりたいって言った時も、ずいぶん反対された。」
レインは少し意外そうに目を丸くする。
「反対されたんですか。」
「ああ。」
「戦える息子になってほしかったんだろうな。」
クーキンは苦笑した。
「それでも最後には『好きにしろ』って背中を押してくれた。」
焚き火の火が小さく揺れる。
レインは静かに笑った。
「……人間もオークも、父親はあまり変わらないんですね。」
クーキンも声を立てずに笑う。
「違いない。」
「……セレスは凄いな。」
レインも頷いた。
「俺も昨日会ったばかりなんです」
「でも、気が付けば頼っていました」
「何を考えているのか分からないことも多いですけど」
クーキンは小さく笑う。
「ああ。」
「ああいう者は、時々いる。」
「言葉より先に、行動で信用させる者がな。」
火は少しずつ小さくなっていった。
森を渡る風が、結界へ触れて静かに揺れる。
明日はオークの里。
その先には、竜が待つ山。
レインは燃える薪を見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
焚き火だけが、小さく夜を照らしていた。




