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翌朝。
まだ朝靄の残る時間だった。
レインは背負い袋を担ぎ、ダンカンの宿の扉を開ける。
食堂には朝の静けさが残っていた。
窓から差し込む淡い光の中、セレスが一人で席についている。
膝の上には一冊の本。
長い耳をわずかに揺らしながら、静かに頁をめくっていた。
レインが宿へ入ると、窓際の席にセレスの姿があった。
朝日を受けながら、一冊の本を閉じるところだった。
「おはよう」
セレスはそう言って本を膝の上に置く。
「ちょうど終わったところよ」
「終わった?」
レインが首を傾げる。
「メモライズ」
当たり前のように答えた。
「魔法の準備ですか」
セレスは少し満足そうに頷く
「ええ」
「今日使う術を忘れないようにするの」
「頭が澄んでいる時にだけできる」
「魔法は覚えれば使えるものだと思っていました」
「それは違うわ」
セレスは即座に否定した。
「覚えるだけなら誰でもできるもの」
「問題は、それを扱うことよ」
「だから皆、何十年も学ぶの」
「朝ごはん持ってきたよ!」
明るい声とともに、厨房の方からアイナが現れる。
両手には木の盆。
焼きたてのパンと卵料理、それに湯気の立つスープが載っていた。
「出発前なんだから、ちゃんと食べてから行ってね」
アイナはそう言いながら二人の前に皿を並べていく。
焼いた卵の香りがふわりと広がった。
レインは思わず腹の虫が鳴りそうになるのを感じた。
「うまそうだ」
「うん」
アイナは満足そうに頷く。
「山に行くんだから、倒れられても困るしね」
そう言って空いていた席へ腰を下ろした。
「今日はどこまで行く予定なんですか」
レインが尋ねる。
セレスは少し考えてから答えた。
「まずは森を抜ける」
「そのあと山ね」
レインは頷いた。
「森だけでも二、三日はかかると思います」
兵士の見回りで歩く範囲とは違う。
山へ向かうなら、竜鱗森をかなり奥まで進まなければならない。
だがセレスは首を横に振った。
「二日」
「え?」
「私がいるもの」
当たり前のような口調だった。
「獣道を使うし、迷わない」
「休憩も最低限でいいわ」
レインは少し驚く。
昨日会ったばかりだというのに、その言葉には妙な説得力があった。
「じゃあ二日で山ですか」
「ええ」
セレスは頷く。
そして窓の向こう、西の山へ目を向けた。
「問題はそのあとね」
「竜ですか」
「ええ」
セレスは頷いた。
「山へ着けば会えるとは限らないもの」
「探す時間は分からないわ」
レインは少し顔をしかめた。
「山の中を探し回るんですか」
「いいえ」
セレスは首を横に振る。
「呼びかける予定よ」
「呼びかける?」
「魔法で」
あまりにも当然のような口調だった。
「返事があるかは相手次第だけれど」
「少なくとも、当てもなく歩き回るよりは早いわ」
セレスがそう締めくくる。
「なるほど……」
レインは感心したように頷いた。
その横で、アイナも「ふんふん」と何度も頷いている。
だが話の内容よりも気になるものがあったらしい。
視線はレインの足元に置かれた背負い袋へ向いていた。
「それにしても」
アイナは身を乗り出す。
「結構荷物あるんだね」
そう言いながら袋の横を軽く押した。
「重そう」
「重いぞ」
レインは苦笑する。
「食料も水も持っていくからな」
「へぇ……」
アイナは感心したように頷きながら持ち上げようとしてみる。
「うわ、本当に重い」
両手で持ち上げかけて、すぐに元の場所へ戻した。
「こんなの背負って森を歩くの?」
「慣れてる」
レインは笑った。
食事を終えるころには、朝日が町を照らしていた。
セレスは空になった器を机の端へ寄せると、静かに立ち上がる。
「行きましょう」
レインも頷いた。
背負い袋を肩へ担ぎ、借り受けた剣の位置を確かめる。
アイナが二人を見送るように立ち上がる。
「気を付けてね」
「うん」
レインは短く返した。
その隣で、セレスも小さく頭を下げる。
二人は宿を後にした。
朝の町を抜け、ほどなくして詰所へ辿り着く。
レインは深く息を吸い、治療室の扉を押し開けた。
ーーーーーー
治療室へ入ると、昨日と変わらぬ薬草の匂いが鼻をついた。
レインの視線は真っ先に父の寝台へ向かう。
トーマスは昨日と同じように横たわっていた。
呼吸は安定している。
だが目を覚ます気配はない。
その隣の寝台にも人影があった。
レインはそちらへ目を向ける。
「先輩……」
昨晩、自分と組むはずだった兵士だった。
医者の話どおり、眠るように横たわっている。
昨日は父のことで頭がいっぱいだった。
だがこうして見ると、昨夜のうちにここへ運び込まれていたのだろうと納得する。
セレスは二人の寝台を見比べた。
そして小さく頷く。
「やはり同じね」
レインが振り返る。
「分かるんですか」
「ええ」
セレスは短く答えた。
「始めるわ」
レインは一歩下がる。
セレスはまずトーマスの寝台の傍らへ立った。
額へ手をかざし、静かに起動語を口にする。
「――レジスト・マジック」
淡い光が指先から零れ、トーマスの身体を包み込む。
光はゆっくりと胸の辺りへ吸い込まれていった。
セレスは続けて隣の寝台へ向かう。
同じように手をかざす。
「――レジスト・マジック」
再び淡い光が広がった。
二つの寝台の上で、静かな光だけが揺れていた。
レインは思わず父の顔を覗き込む。
「親父……?」
返事はない。
やはり駄目だったのか。
そう思った時だった。
トーマスの指先がわずかに動く。
「っ!」
レインが身を乗り出した。
閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
焦点の合わない目が天井を見上げる。
「親父!」
声に反応するように視線が動いた。
そしてレインを捉える。
「……レイン」
掠れた声だった。
それでも確かに意識はある。
レインの胸に熱いものが込み上げた。
「大丈夫か!?」
トーマスは答えない。
代わりに、ゆっくりとセレスへ目を向けた。
長い耳。
銀の髪。
旅支度の姿。
そしてレインの背にある荷物。
それらを見て、何かを悟ったように目を細める。
「……そうか」
小さく呟く。
「山へ行くんだな」
レインは息を呑んだ。
「どうして……」
トーマスはかすかに笑う。
「お前の親だからな」
そして途切れそうな声で続けた。
「レイン」
「無礼のないようにな」
その言葉を最後に、再び瞼が閉じられた。
トーマスの瞼が再び閉じる。
だが先ほどまでとは違う。
呼吸はわずかに力強くなり、顔色にも僅かな血の気が戻っていた。
レインは父の顔を見つめたまま動けない。
本当に目を覚ました。
短い時間だった。
それでも確かに父の声だった。
セレスはそんな親子の様子を静かに見守っていた。
隣の寝台でも、小さく呻き声が漏れた。
先輩兵士の指先もわずかに動いている。
やがて小さく頷く。
「十分ね」
近くの机へ歩み寄ると、置かれていた紙とペンを手に取った。
さらさらと短く何かを書き付ける。
『双方回復を確認。しばらく安静に』
それだけを書き残し、ペンを置いた。
「医者が来れば分かるでしょう」
レインはようやく顔を上げる。
セレスは既に旅人の顔に戻っていた。
「行きましょう」
「時間はあまりないわ」
レインは父を見る。
そして、最後に聞いた言葉を思い出した。
――無礼のないようにな。
「はい」
今度は迷わず頷いた。
二人は静かに治療室を後にした。




