第10話 レオポルト・バンダームとエリーゼ
【レオポルト・バンダーム視点】
私は、窓辺に立ったまま、夜空を見上げ続けた。
深い藍に染まる空。
きらめく星々。
そのどれもが、はるかな記憶を呼び起こす。
思い出すのは、まだエリーゼが幼かった頃だ。
──母を亡くして、すぐのことだった。
泣きもせず、うつむいたままのあの子に、私は何も言えなかった。
強くあれ、とは、とても言えなかった。
泣くな、とは、もっと言えなかった。
あの子は、ただ、小さな拳を固く握りしめ、唇を噛みしめていた。
肩を震わせながら、必死に涙を堪えていた。
「……エリーゼ」
名前を呼んだだけで、あの子は私を見た。
赤くなった目で、必死に笑おうとした。
「だいじょうぶ、です……」
その声は震えていた。
今にも泣き出しそうだった。
それでも、あの子は笑ったのだ。
私が支えなければならないはずの娘が、私を支えようとした。
その姿が、痛かった。
胸が張り裂けるほどに、痛かった。
だから、私は心に誓ったのだ。
この子を、絶対に守ると。
どんな犠牲を払っても、幸せにすると。
それから私は、必死に働いた。
領地の立て直しに奔走し、王家に繋ぎを作り、財政を立て直すためにありとあらゆる策を講じた。
誇りも、過去の栄光も、すべてかなぐり捨てた。
だが、その間も、エリーゼは一人で耐えていた。
笑って、家臣たちに礼を言い、民に微笑みかけ、兄リカルドの代わりをしようと背伸びしていた。
私はそれを知っていた。
知らないふりをしていた。
「強くなれ」と、言葉ではなく、態度で求めてしまっていた。
「……すまなかったな、エリーゼ」
誰に届くわけでもない謝罪が、夜に溶ける。
君は、母を亡くしたその日から、少女であることを許されなかった。
父である私のせいで、幼さを捨てさせられた。
それでも、君は一度も私を責めなかった。
ただ、前を向いて、ひたすらに歩き続けた。
そして、今。
新たな試練が君の前に立ちはだかっている。
王家の命令。
政略結婚。
見知らぬ異国の血統との、未来。
君は、それすらも受け入れようとしている。
「……強いな」
改めて、私は呟いた。
あまりにも、強すぎる。
だが、それが、私には恐ろしかった。
人は、耐え続けることで、壊れてしまうものだ。
無理に無理を重ねて、心を凍らせ、誰にも何も求めなくなる。
私は、そんな未来をエリーゼに歩んでほしくない。
たとえ、バンダーム家がどうなろうとも。
たとえ、私が笑われようとも。
私は、君の心だけは、守りたい。
──そうだ。
バンダーム家の繁栄も、王家への忠誠も、
すべては、君のためにあったのだ。
君の笑顔を、君の幸せを守るために。
ならば。
君が無理をして笑う必要などない。
泣きたいなら泣けばいい。
逃げたいなら、どこまでも逃げよう。
私は、父親として、君のそばにいる。
「……エリーゼ」
私は、静かに扉へ向かう。
夜の廊下を歩き、エリーゼの部屋の前で足を止めた。
扉の向こうからは、かすかな衣擦れの音だけが聞こえる。
もう眠っているのだろうか。
──いや、きっと、眠れずにいる。
今夜、君は、すべてを一人で背負おうとした。
王子との婚姻を受け入れると決めた。
家を守るために、自分を差し出す決意をした。
私は、それを黙って見過ごしていいのか。
胸の奥で、何かが激しく叫んでいる。
私は、そっと拳を握った。
ノックするべきか、迷った。
だが──
「エリーゼ」
声は自然に出た。
力強く、まっすぐに。
すると、扉の向こうで、微かな気配が動いた。
すぐに扉が開かれることはなかった。
それでも、私は話し続けた。
「君は、バンダーム家の誇りだ」
「だが、それ以上に、私の大切な娘だ」
「君が何を選んでも、私は君の味方だ」
「君が涙を流すのなら、私がすべてを背負おう」
「君が笑うためなら、私はどんな敵とでも戦う」
「だから──」
言葉が震えた。
「だから、どうか……君だけは、君自身の幸せを諦めないでくれ」
しばらく、沈黙が続いた。
夜風が廊下を抜け、冷たい空気が頬を撫でた。
そして、そっと、扉が開いた。
そこに立っていたのは、
あの日と変わらない、小さな少女だった。
必死に大人びた顔をして、肩を張り、背伸びして──
それでも、目には涙を溜めている。
「……父様」
かすれた声で、エリーゼが呼んだ。
私は、何も言わずに、両手を広げた。
エリーゼは、一瞬だけ戸惑った。
だが、すぐに、まるで小さな子供のように、私の胸に飛び込んできた。
小さな身体が震えていた。
押し殺した嗚咽が、震える肩越しに伝わってくる。
私は、そっとその背中を抱きしめた。
「……すまなかったな」
「ずっと、無理をさせていた」
エリーゼは、何も言わなかった。
ただ、静かに、静かに泣き続けた。
私は、それを責めない。
慰めない。
ただ、黙って、抱きしめ続けた。
今夜だけは、父と娘に戻ってもいいだろう。
領地も、家柄も、王家の思惑も、何もかも忘れて。
私は、心から祈った。
この子が、これから歩む未来に、どうか光が降り注ぐことを。
どんな困難が待ち受けていようとも、この子が、希望を失わないように。
エリーゼ。
私の誇り。
私の宝物。
──私は、君を愛している。
その思いを、言葉ではなく、抱擁に込めた。
そして私は、心に刻んだ。
これからも、何があろうとも、この手で、君を守り続けると。
夜は深まる。
だが、この胸に灯った温もりだけは、決して消えることはなかった。




