第五章 慟哭の三日目 ⑥
「……神代くん」
僕は思わず、柊から背を向ける。
我慢しきれず、瞳からボロボロと涙が溢れてしまっている。
こんな顔、彼女には見せられなかった。
柊は、小さく息を吸って、
「――甘えないで」
凍えるような冷たい声で、そう言い放った。
吹雪が、頭の中の雑念を全て吹き飛ばしたみたいだった。
思考が真っ白になった僕へ、柊は突きつけるように言葉を重ねていく。
「やらなければならないのでしょう。だったら、つべこべ言っていないでとにかく走り続けるべきよ」
「……手厳しいね」
「そうかしら。至極真っ当なことを言っているだけだと思うけれど」
それは、強者の視点だ。
自分で解決する力があるから。走り続ければ、活路を見出せる眼があるから。言えることだ。
僕には、それは出来ない。
どれだけ振り絞っても、困難に真正面からぶつかれない。
「……昔のあなたは、勇敢で聡明だった」
当たり屋に絡まれていた柊を助けた僕。
でも、その記憶はどこにもない。
「けれど、今はもう、正直見てられないわ」
突き落とされるようだった。
わかっているのに。
僕が一番よくわかっているのに。
「わかってるよッ!」
頭が、カッとなった。
気がつけば、吐き出していた。
これは、どうしようもなく八つ当たりだ。
だけど。そうとわかっていても、止められなかった。
「柊の知ってる僕は、今の僕じゃない! でもどうしようもないじゃないか! 前の僕が何してたか、僕は知らない! 覚えてたのは自分の名前だけだ! スポーツは? 勉強は? 性格は? 何が得意だった? 何が好きだった? 全部だ! 全部わからない!」
ばっと振り返り、柊を睨む。
彼女は、底なしに冷めた目で僕を見あげていた。
「……なん、だよ。その目」
柊の瞳は、一切揺らがない。
ただ。「クズ」と言外に蔑まれているようだった。
「……僕に、昔の恩を返すために協力してくれたのは感謝してる。だけど、昔の影を勝手に重ねるのは、やめてくれないか」
「……」
「君の理想を押し付けないでくれ。僕はもう、君の知る僕じゃないんだ」
あぁ、本当はこんなこと、言う資格なんかないのに。
こういうところも、きっと似ていないんだろうな。
何もない僕は、こうやって醜く喚くことしかできない。
本当、どうしようもなく、最低で。
「僕には、君の期待に応えることはできないよ……」
思わず、崩れ落ちた。
もう、ダメだった。
不条理な運命に飲まれ、今の自分を全て否定されて。
ここまでして、果たして僕は生きなければならないのだろうか。
試験を終えて。特待生になれなくて。呪いで死んだとして。
別に、それでもう、いいんじゃないか。
これ以上、無様に醜態を晒したくない。
と、ここで。
重苦しい空気を読まないように、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
「あ、届いたみたい」
柊が反応して、玄関へ向かう。
「注文しておいたのよ。私の切り札」
彼女は扉を開ける。
闇の中に浮いているように立っていたのは、帽子を深く被った女性だった。
目元は確認できない。
服装も、受験生と同じジャージだ。注文したものを届けてくれる係の人だと言うのはわかったが――見覚えのある点が一つ。
帽子にしまい切れなかった髪の先。
室内灯に照らされて赤く揺らめくそれは、きっと初日に見たものだ。
この人物の正体は、最初にルール説明をした赤川先生だろう。
赤川先生と思しき女性は、ビニール袋を差し出しながら、
「ベルノを支払って下さい」
会話をする気はないようだ。あくまで、物品を渡しに来ただけの存在ということらしい。
「あ、半分は神代くんにも出してもらおうかしら」
「……え、」
「先生。それは可能ですよね?」
僕の同意を待たずに、柊は赤川先生らしき人物へ問いかける。
「両者の合意があれば、可能です。購入のキャンセルはできませんが、共同での支払いや、支払い者や受け取り先の変更は問題ありません」
「ありがとうございます。……あぁ、でもそうか。神代くんはベルノをケチってるんだったわね。合意は無理か。仕方ない、私が全て負担するわ」
恩着せがましく言うと柊はスマホを取り出し、『ベルノ』をタップ。
そのあと出てきた『ベルノ送信』から、幾らかの金額を入力しているようだ。
赤川先生(?)もスマホのような端末を差し出し、チャリーン、と決済音が鳴った。
「確認しました。では、これを」
ビニール袋を柊へ手渡すと、女性は無言で暗闇の中へ消えていった。
「先生も大変ね」
飄々と言いながら柊は、受け取った袋から注文の品を取り出す。
手のひらサイズの紙箱だった。彼女はさらに封を開け、中から黒光りする円盤状の物体を取り出した。
「……それは?」
「朱肉よ」
「……あ、さっき消しゴムでハンコ作ってたのって、もしかして」
「あら、察しが良いわね」
柊は、先ほど作った消しゴムハンコに、コピー用紙・ボールペンを机に置いた。
「契約書を作るの。これで、話がこじれて共倒れという最悪のパターンは避けられるわ。契約書さえあれば、お互いに約束を反故には出来ないという保証ができるものね」
確かに。未成年が作った契約書に効力があるのはわからないけど、嘘をつけば詐欺には当たるかもしれない。
そうなれば、試験は失格の可能性が高い。
それだけあれば、拘束力としては十分のはずだ。
あぁ……柊はすごいなぁ。
僕はこんな方法、まるで思いつかなかった。
だって僕は、いかに自分が矢面に立たないかをまず考えてしまうから。
「じゃあ私、お風呂いただくわ」
ふぁさ、と銀髪を揺らして柊は脱衣所へと消えていった。
その声に、僕はまともに返答することができなかった。




