04
「アスモデウスなんて流行っているでしょ? 心配だわ」
道中、なにげなく話題を振るとテレサは大きく反応した。やはり彼女の元に来る患者たちの中には本気で興味を抱く者も少なくないようだ。
「私もドュンケルの森の入口周辺に薬草を取りに行くんですけどね、若いお嬢さんと遭遇したこともあって。そんな迷信は嘘で素敵な青年は現れないから早く帰りなさいって注意したわ」
「先生こそ、あそこは人気も少ないですし気をつけてくださいね」
ジェイドが声をかけるとテレサはおかしそうに笑った。
「大丈夫よ。行き慣れていますし、こんなおばさんですから。ベテーレンもあるから獣が出る心配もないわ」
「ですが、半年ほど前にあそこで……」
テレサの言い分にセシリアがつい口を挟んだ。前を歩いていたテレサが一瞬、セシリアを無表情でじっと見つめる。グレーの双眸に捉えられ、セシリアの胸がざわついた。
テレサはふっと笑みをこぼす。そして再び前を向いた。
「ええ、たしかに。半年前、あそこでひとり貴族の娘さんが亡くなっているわ。名前はたしかクレア・ヴァッサー」
どこかぼやっとした雰囲気のあるテレサだが、このときの彼女は声にも口調にも硬さがあった。そこへジェイドが切り込む。
「彼女の遺体を所見したのは先生だとお伺いしたんですが……」
まさかの情報にセシリアは息を呑んだ。改めてテレサのうしろ姿に視線を送る。テレサはちらりとこちらを振り向いてから、すぐに前に向き直りゆるやかに口を開いた。
「この話、他言しないでくださる? とくにアルノー夜警団の方には……」
セシリアの心臓が早鐘を打ち始める。嘘をつくのには慣れているし、動揺も隠し通せる。ただ、続けられるテレサの言葉がなんとなくいいものではないのはわかっていた。
「彼女は獣に襲われて亡くなった。それは事実よ。でも発端は自分の首に刃を当てたからなの」
ジェイドは目を丸くしたが、セシリアは眉ひとつ動かさない。テレサの声には感情が混じっておらず淡々としていた。わざとそうしているのかまでは察せられない。
「その血の匂いに誘われ獣がやってきたのよ。ベテーレンの香りを獣は嫌うけれど血の匂いが花の香りを上回ったんでしょうね」
だから出血した首だけに噛み跡があった。他の箇所が荒らされていなかったのは花の香りが勝ったからか、獣の呻き声に気づき発見が早かったからか。
これで遺体の気にしていた謎が解ける。だが、そうなると新たな疑問が湧いた。
「……どうして彼女はそんな真似を?」
聞いたのはジェイドだ。セシリアも静かにテレサの返答を待つ。テレサは歩調を緩めつつ、やはり顔は前を向いたままだ。
「どうやら待ち合わせをしていた恋人に別れを告げられたみたいなの。そのショックで、自棄になったんでしょうね」
ジェイドもセシリアもつい眉をひそめた。雲の厚みが増し辺りが急激に暗くなる。水気を含んだ空気がじっとりと肌に張りついた。
「婚約者がいるのにも関わらず別の男性と……というだけでも醜聞なのに、さらに相手に裏切られて自刃なんてあまりにも可哀相だって彼女の両親に頼まれたの。だからアルノー夜警団には獣に襲われたという内容で報告したわ」
虚偽の申告は咎められるものだ。とはいえ一概にテレサの行動を責めることもできない。重い沈黙が一同を包んでいると、いつのまにか目的地にたどり着いた。
「さぁ、ここよ」
テレサは努めて明るい声で告げ、セシリアとジェイドに笑顔を向けた。セシリアも気持ちを切り替える。テレサが扉を叩くとややあって人の気配を感じた。
「はい。……ブルート先生でしたか、お待ちしておりました」
中から年配の女性の使用人が顔を覗かせ、テレサを見て納得の表情を浮かべる。そしてすぐさま別の人物が間に入るようにして出てきた。
「こんにちは、ブルート先生!っと、マイヤー先生?」
ドリスだった。セピア色の髪は大雑把に左下で束ねられ、彼女の動きに合わせて髪先が揺れる。動作が大きいからか、どちらかといえばお転婆で快活なイメージをセシリアは抱いた。
レモンイエローのシンプルなドレスがよく似合っている。
ドリスから注目を受けたジェイドは軽く笑いかけた。
「突然、悪いね。にしても俺を知っているのかい?」
「ええ。診てもらった経験はありませんが、ウリエル区の人間ですもの。それに先生、なかなか男前だって評判ですよ。今日はどうされたんですか?」
「ブルート先生の元で色々学ばせてもらおうと思ってね。こちらは助手のセシリア」
はしゃぐドリスをかわしジェイドはセシリアを紹介した。
「初めまして、セシリアと申します。まだ勉強中で医学に関しての知識はほとんどありませんが……」
「初めまして、ドリス・レゲーよ。姉さんはあまり外出できないから話し相手が増えるときっと喜ぶわ!」
屈託ない笑顔をドリスは浮かべた。
セシリアは不躾にならない程度にドリスを観察する。年は十六と聞いているが、年齢の割には幼い感じがした。一方、人懐っこい雰囲気はどこか憎めない彼女の魅力だ。
噂では痩せたと聞いたが、元の彼女を知らないとこればかりはなんとも言えない。ただ年相応の体型で、彼女も細身だ。
室内に招き入れられ、テレサに続きジェイドとセシリアも中に足を踏み入れる。屋敷の大きさや玄関に飾られている絵画、骨董品からなかなか裕福な家なのが窺えた。
「ドリス、お客様?」
ふと階段の上の方から声がかかり、セシリアはそちらに意識を向ける。そして現れた人物を視界に捉え、大きく目を見開いた。
「あら、エルザ。今日はいつもより調子が良さそうね」
テレサの発言で確信に変わる。ドリスは明るく答えた。
「ブルート先生と今日はマイヤー先生もいらしてくれたの。それから彼の元で医学を学んでいるセシリアさん」
「セシリア……」
確認するように女性が呟いた。どことなく妙な空気を察知したドリスがセシリアと彼女を交互に見遣る。やがて女性がもう一度セシリアの名前を呼んだ。今度は確信を込めて。
「……セシリアちゃん?」
セシリアはやや伏し目がちになり、小さく答えた。
「……お久しぶりです」
最後に会ってから何年ぶりになるのか。忘れるはずがない。彼女はエルザ・クレンマー。ルディガーの元婚約者だった。
エルザは懐かしさに顔を綻ばせ階段を下りてきた。
「すっかり大人になって……。驚いたわ。こんなところで会えるなんて」
赤みがかった茶色の髪は相変わらず綺麗で腰まである。部屋着にカーディガンを羽織っている姿は儚げで記憶の中の彼女よりもよっぽど艶っぽく思えた。
脈拍が乱れるのを感じ、セシリアは自分を叱責する。なにをこんなにも動揺しているのか。対するエルザは、再会をひとしきり喜んだあとで、やや切なげに顔を歪めて聞いてきた。
「あの人は……ルディガーは元気?」
さらにセシリアの心は揺れる。そして返答に迷った。
エルザはどこまで知っているのか。少なくとも自分がアルノー夜警団に入団し、ルディガーの副官をしているとは思ってもいないだろう。ましてやここで自分の正体は伏せている。
彼と昔馴染みだからとして聞いているなら「知らない」「会っていない」と答えるのも手だ。早く返事をしないと不信感を抱かせる。
そのときジェイドが強引にセシリアの肩を抱いた。
「ふたりが知り合いだったとは驚きました。積もる話もあるでしょうが、先に診察にしませんか?」
「そうよ、エルザ。まずは部屋に行きましょう」
テレサが苦笑して促す。
「ごめんなさい。彼女、古い知り合いの昔馴染みというか、妹みたいな存在でつい懐かしくなって」
エルザは恥ずかしそうに答え、客人たちの相手をドリスに託した。さすがに女性の部屋に大勢で押しかけるのも無礼だと判断し、診察はいつも通りテレサひとりが行う。
客間に案内されたジェイドとセシリアは隣同士にテーブルにつく。その真向かいにドリスは着席した。ややあって使用人からお茶が出され、いい香りが部屋に立ち込める。




