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酒神の祝福  作者: 椎名みゆき
第二章 砂の帝国
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1


 ───様!



 まどろみは、男に優しく残酷な夢を運んでくる。



 ───様、見てください!中庭のお花がこんなに綺麗に咲いたんですよ!



 記憶の中の少女はいつも笑っている。

 抱えた花束は確かに綺麗だったけれど、男の目には幸せそうに芳香を嗅ぐ少女の笑顔だけが焼き付いていた。


 少女の表情がころころと替わる。


 笑ってみせ、拗ねてみせ、時には泣いてみせて、そうしてまた笑っている。


 けれど次の瞬間、少女の顔は苦痛と恐怖に歪められた。


 夢は、男が目を逸らすことを許さない。



 ───やめてくれ


 逃げ惑う少女を無数の手が押さえつける。


 ───やめろ、彼女を離せ…!


 きらりと鋭利な刃物がきらめいて、次の瞬間。

 その柔らかな胸に、いつもせわしなく鼓動を刻む彼女の心臓に、深々と突き立てられた。


 絶叫したのは彼女だったか、自分だったか。


 ───呪われよ…!


 己の顔を掻き毟り、膝から崩れ落ちながらも男は怨嗟の声を上げた。


 ───もはやこの地に祝福はない!


 滅びを前に逃げ惑う人々を、男は哄笑して嘲った。崩壊する世界を、ただ一人歓迎した。



 そうして───



 男はただ一人、生き残った。







 ようやく意識が浮上して、男は薄暗がりの中でゆっくりと身を起こした。喉がからからに渇いている。

 傍の水差しに手を伸ばしつつ、部屋の隅にひっそりと控える人影へ冷淡な声をかけた。


 「…誰が入室を許した」


 「申し訳ございません…!ひどく、魘されておいででしたので…」

 

 カタカタと震える黒衣の人物には目もくれず、水差しから直接喉を潤す。顎を伝って零れ落ちる水を無造作に袖で拭うと、ようやくほの暗い視線を下僕に向けた。


 「…まぁいい。首尾はどうだ」


 「は、主上の計画通りに…。既に『餌』も仕込みが済みましてございます」


 深々と叩頭する下僕に、男はくつりと笑ってみせた。


 「さて…そろそろ使徒殿をお招きせねばな…」


 熱砂巻き上がる外とは裏腹に、この部屋にはぞっとするほど冷たく重い闇が満ちていた。










 カザン帝国の城の一角には、宰相の私室、もとい趣味の実験室がある。

 高価なガラスを惜しみなく使ったビンや実験器具がところ狭しと並び、昼夜を問わず何かしらの液体がコポコポと音を立てる怪しげな部屋。

 そんなところへここ数日通い詰めているのが『救世の使徒』『最後の錬成師』たるカンナギ・ミコトその人であった。


 「うーん、まぁこんな感じで大丈夫そうかな…」


 大昔の記憶となりつつある科学の実験を思い起こしながら、何とか組み立てたガラス器具たち。一応の目論見通り、ぽたりぽたりと落ち始めた雫を確認して息をつく。今は加熱・冷却など部分的に補ってもらう程度だが、原理を理解してもらえれば全て魔術で行うことも可能になりそうだという。


 (大いに期待してます…)


 「─の、ミーコ殿?」


 「え、あ、はいっ?!」


 ここまでの苦労を思って魔術師たちに内心祈りを捧げていたミコトは、不意に真後ろから声を掛けられて飛び上がった。勢いでよろめいた体を、屈強な腕が抱き留めてくれる。


 「─っと、申し訳ない。一応入室の際に声をかけたのだが…」


 「あ、あれ、ローワンさん!私全然気づかなくて…すみません!」


 「熱中しておられたようだったので気配を殺していたのだが…逆に驚かせてしまったようだ」


 耳元で囁かれて思わず赤面したミコトは、あたふたと慌てて体を起こした。彼のフェミニストっぷりにはいい加減慣れてきたが、それでも心臓に悪いことには変わりない。

 そんなミコトの様子を知ってか知らずか、卓上のガラス器具へと視線を移したローワンは首を傾げている。


 「宰相閣下からなにやら『実験』をされているらしいと伺っていたのだが…これが?」


 「あはは、実験というほどのものでもないんですけどね。見よう見まねでデュラルムを蒸留しているところなんです」


 「蒸留…?」


 「何かお呼び出し、ですよね?興味がおありでしたら道すがらお話しますよ」




 この世界(ガルディア)においてはほとんど薬として扱われる(グラース)である。当然のことながら、その効能を高める研究は長く行われていたという。


 「ラグナートさんから色々とお聞きしたんですが、やはり酒の効能は酒精(アルコール)の強さに比例すると考えた方が多かったそうなんです。そこでいわゆる『煮詰める』実験が多くなされてきたそうなんですけど…」


 「うまくはいかなかったのだな」


 「はい」


 皇帝陛下のお呼びとあって、ミコトは加熱を止めてローワンと二人、執務室へ歩みを進めていた。


 「ジャム作りみたいに水分を飛ばして濃縮するときには、煮詰める方法で大丈夫なんです。ただ、今回取り出したい酒精というのは、加熱すると水よりも早く飛んでいってしまうので──あ、それがなんでかなんてことは、聞かないでくださいね」

 

 常識として学んだことほど、その本質を語るのは難しい。ミコトはローワンに目配せしつつ釘を刺して、話を続けた。


 「さっきの装置みたいに、先に出てきた酒精を集めるような仕組みが必要なんです。この操作を蒸留と呼んでいます。ちなみに薬効を高める目的はもちろんですが、この蒸留によって新しい種類の酒を得ることができるんですよ!」


 ミコトの主な目的がどちらにあるのかは言わずもがなで、興味深げに話を聞いていたローワンも苦笑した。彼女がどれだけの情熱を『酒』に注いでいるか、そろそろ彼にも分かってきた。


 リキュールが、ブランデーが、ウイスキーがと未知の単語を熱心に語るミコトを見る目を、どこか眩しげに優しく細める。


 しかし一方で、これから執務室で語られる内容を思ってローワンは内心嘆息した。


 この方が、純粋に『(グラース)』に注力できる、そんな世であれば良かったのだが──と。






 蒸留が上手くいけば、酒の種類も楽しみ方もぐんと幅が広がってくる。ミコトは期待に胸を躍らせた。

 オランダ語で『焼いたワイン』を意味するbrandewijn、すなわちブランデーは、白ワインを蒸留して原酒を得る。ウイスキーも、言ってしまえばビールを蒸留して得られるものである(かなり乱暴な説明ではあるが)。


 極め付けには、カクテルに欠かせないスピリッツ、そしてリキュールを作ることができるのだ。


 毎日シェイキングの練習は欠かさないが、やはり舌と腕が鈍ってしまいそうで恐ろしい。そして何より、美味しいカクテルが飲みたくてたまらないミコトである。


 (ブランデーならやっぱり樽も必要だよね。でもこのデュラルムは糖度高めでブランデーには向かないかも…というかそもそも熟成に最低五年はいるだろうし、完成には立ち会えないのがある意味喜ばしいのかな)


 まったく不透明な自分のこれからに思いを馳せつつ、それでもどこか高揚した気分だった──が。



 「地下牢に入れていたゴームが死んだ。…殺された」



 執務室へ入るや否や告げられた言葉に、そんな浮ついた気持ちは吹き飛ばされることとなった。



 ──数多の運命の歯車が、互いに巻き込み合って廻りはじめる。

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