表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
酒神の祝福  作者: 椎名みゆき
第一章 最後の錬成師
22/34

10

 チチチ…

 

 鳥の囀ずる声が、不意にミコトの意識を眠りの底から引き上げた。静かな部屋では、やけに大きく響く。


 「う、ん…?」


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、神話と思しき絵画が飛び込んできた。金銀の煌めく糸を使って刺繍で描かれている。うっすら射し込む朝陽に照らされたそれを見つめることしばし、自分の置かれた状況を思い出してミコトはようやく覚醒した。


 ここは賓客たるミコトに宛がわれた客間。その寝室に鎮座する、豪奢な天蓋つきベッドの上であった。


 (しつこいようだけど、やっぱり夢じゃないのよねぇ…)


 嘆息しつつのそりと身を起こしたミコトは、何とは無しに昨日のことを思い返していた。


 が、すぐに引き剥がしたばかりの羽根布団(恐ろしく手触りのよいカバーがかけられている)を勢いよく被って簑虫と化す。


 「ああああ思い出しちゃったよ…!」


 ミコトにとってはなんの変哲もない赤ワインを飲み干し、啖呵を切ってやったのも十分恥ずかしかったが…それだけではない。

 あの時は緊張でどうということも無かったけれど、きっと──というかまず間違いなく──自分は少し酔っていた、と思う。


 そうでなければ、ローワンさんにあんなこと…!


 ミコトの脳裏では、忘却の彼方へ蹴り飛ばしたいという自分の願望とは裏腹に、昨日の記憶が鮮明に甦っていた。








 残り一本のうちいくらかは研究用に使ってもよいと許しを得たラグナートは、嬉々として(どこにしまっていたものか)サンプル瓶を取りだし、カップに残っていた赤ワイン──生命の水(アクアビテ)も合わせて舐めるように移し替えはじめた。こうなるともう周りのことは何も分からなくなるらしい。


 そんなラグナートを相変わらず置き去りに、まずは休めとアルザスが皆に退室を促して、三人はその場を辞した。


 そして、廊下には奇妙な沈黙が落ちる。


 不穏な空気を感じとったのか、マクシミリアンは執務が残っていると足早に去った。後の展開を考えれば、非常に賢明だったと言えるだろう。

 扉横に控える近衛は瞬き以外身じろぎもしない。…その内心はどうあれ。



 「…ローワンさん」


 「ミーコ殿?」



 様子を伺うように覗き込んだローワンは、ぐりんと据わった目で睨み付けてくるミコトに思わず閉口した。



 「歯、くいしばってくださいね」


 「は、」



 べっちん。



 さしもの近衛たちも、目を見開いた。『騎士』たるローワンにうら若き──少なくとも彼らにはそう見える──乙女が突如張り手をかましたことも十分驚くに値したが、なによりも…。



 「なんでよけないんですか」



 そう、彼ほどの武人がまさかまともに喰らうとは。自分から手をあげておいて不満げなのもどうかと思うが、彼らも乙女──ミコトに概ね同意した。

 当の本人は苦笑しながら己の左頬をさすっている。


 「私が至らなかったのだから、お怒りなら甘んじて受ける」


 「…なんでおこってるのか、わかってます?」


 「あぁ。貴女は、私が自ら傷を負おうとしたことに憤ってくださるのだな。…また泣かせてしまうよりは、怒ってもらえる方がいい」


 「わたしりっぱなおとなですから!ほんとはそんなかんたんに泣きませんから!」



 立派な大人は癇癪なぞ起こさないものだが、酔っぱらいに道理は通じない。面倒くさいことこの上ないだろうに、何故かローワンはどこか嬉しげに見えた。その上、


 「すまなかった。私の軽率な行いは、むしろあなたを傷つけてしまいそうだ。…拳で殴ってくれなくてよかった。あなたの手の方が骨を傷める」


 などとミコトの手の方を心配する始末であった。それにミコトは目眩がするような心地がして…いや、本当に目眩を起こしてくにゃりとローワンの胸に倒れ込む。


 「ろーわんさんの…ばか…」


 「?!ミーコ殿?どうし──」









 「バカは私だよ…」



 がっくりと肩を落として嘆息する。酒好きとは言え、何もウワバミな訳ではない。それなりの度数のアルコールをラッパ飲みしてしまえば、酔いも回るはずである。

 また始末の悪いことに、朧気ながら記憶が残っているのも忌々しい。あの後またローワンに抱えられてここまで来たことを思うと、鬱々とした気分にならざるを得ない。


 (二日酔いにならなかっただけマシかな…)


 遠い目をしたところで、寝室の扉がノックされた。反射的に応えを返すと、しずしずと二人の侍女(メイド)が入室してくる。



 「使徒さま、お目覚めでしょうか。恐れながら朝のご支度をお手伝いさせていただきます」



 二人はアーニャとマルスと名乗った。ヴィクトリアンメイドに良く似たロング丈のエプロンドレスは黒で、仕事着らしく使い込まれてはいたが清潔に整えられている。ホワイトブリムの種類が異なるのは、メイドの格で使い分けられているからである。

 実際にアーニャの方は初老、マルスはまだ少女ぶりが抜けない年頃で、アーニャは細々とした指示をマルスに与えていた。



 「ご気分は如何でしょうか。昨日はご体調の優れぬ様子でございましたね」


 「大丈夫です!その、ご迷惑をおかけしました…」


 「とんでもございません。回復なされたようで何よりでございます。お腹もお空きでしょうが、使徒さまはご入浴も好まれるとお伺いいたしました。先に湯殿を使われますか?」



 本当に着の身着のままで寝ていたので、これには遠慮なく頷いた。

 アーニャの導きで隣の浴室に入り、中央神殿よりは無論小振りながら、石材を使った立派なお風呂を堪能する。着替えに用意されていたのはオフホワイトのロングワンピースで、シンプルながら衿や袖もとにレースが施された上質なものだった。上衣としてショート丈の紺のボレロも差し出される。

 勝手の分からない化粧も完全にお任せして、また部屋を移ると既にマルスが朝食の用意を整えて待ち構えていた。


 一般庶民のミコトには過剰なまでの待遇に戦々恐々としつつ、なんとか二人には『ミーコ様』と呼ぶに留めてもらう。そうして食後のお茶をいただいたところで()はやって来た。

 入室を断るわけにもいかず、向かい合って視線をさまよわせる。面と向かって昨日のことを蒸し返す気は更々無かった。



 「体調は回復されたと伺ったが…ご気分はいかがか」


 「おかげさまで…非常に爽快な朝、です」



 あからさまな嘘だったが、正真正銘の大人であるローワンは『それはよかった』と苦笑で受け流した。


 それにしても、とミコトは直立するローワンをちらりと盗み見る。先程からマルスが逆上せた表情でローワンに見とれ、アーニャから非難めいた視線を寄越されているが、無理もない。


 …カラビニエリ、と呼ばれるイタリアの国家憲兵がいる。ミコトもワイン漁りで行ったイタリアで目にしたことがあるが、彼らの制服は非常に見栄えがするのである。ローワンの装いは、それに良く似ていた。


 (うーん…これは反則すぎる…)


 思わず唸るほどの男振りである。黒地に赤でラインの入った上下は彼の体躯にぴったりと誂えられ、胸元にはいくつかの階級を示す褒章が飾られている。腰には革のベルトで長剣が吊るされており、極めつけに赤いマントまで羽織っていた。

 昨日までは正に旅装だったのだろう、無造作に下ろされていた鋼色の髪も今日は整えられて、大人の男の色を滲ませている。


 イケメンと制服の親和性には、もはや感心させられる。今日の予定について話していたローワンの声をほとんど聞き流していたが、話し終えたらしい彼の一声でようやく我に返った。



 「──では、まずは神殿へ向かうということでよろしいか」


 「え、あ、そうですね。ガルド様も神殿で交信できるようなことを仰ってましたし…」


 「トゥーラの支度をさせている。問題なければすぐにでも出立しよう」



 ガルディアへ飛ばされて早四日、ミコトはようやくガルド神の元へと辿り着こうとしていた。





 中庭に降りてトゥーラと一日ぶりの再会を喜んだミコトは、強硬な主張の末にマントでの簀巻きを回避した。横座りでローワンの腕に囲われることにはなったが、次回は乗馬服でも出してもらおうと決意を新たにする。

 そうして飛び出した異界の空は、今日も青い。眼下に見下ろす首都の街並みは、赤茶色の屋根と白壁で埋め尽くされ、人影は砂粒ほどにしか見えない。


 堅牢無比なるガルディアの守護、カザン帝国が首都モンタナールは、なだらかな起伏の丘に囲まれた盆地の中に広がっている。大小いくつもの通りが中心部から放射状に延びる様は、巨大な車輪のようにも見えた。



 「神殿は首都の外れにあるが、トゥーラならば四半刻もかからない。…しばらくは難しいだろうが、落ち着かれたら街中へもご案内できるだろう」


 「わ、それは是非…!」



 ここは異国どころか異界である。怖いもの見たさもあるが、異文化には興味があった。


 (まぁ主にお酒とかお酒とかお酒とか…)



 「そういえば、こちらってアルコール…お酒は無いんでしょうか。生命の水が作れないってことは醸造技術が無いとか…?」


 「『(グラース)』ならば種類がいくつかあるな。あまり旨いものではないが、大なり小なりの回復効果があるので重宝されている。無論生命の水(アクアビテ)の効能には及ばないが」


 ローワンはあまり酒──グラースを好まないようである。こういう人を見ると自分の技量でお酒の美味しさに目覚めて欲しいと疼くものがあるが、この場はなんとか宥めておく。

 パンを食べる文化がある以上、おそらく発酵の概念はあるものと思っていたが、やはりエールや果実酒の類いは作られているという。嗜好品というよりは便利なエナジードリンクとして認識されているようではあるが。



 「だがこれから向かう神殿で作られている『デュラルム』は旨いと評判だな。カザンの名物で、他国では高値で取引されている」


 「へぇ…!すごい、楽しみです!」



 ぐるりと街を回り込むようにして、王城のほぼ反対側に位置する一際小高い丘の上を目指す。



 「あれが神殿…?」



 ローワンが指し示す先には、石造りの重厚な建物がいくつも佇んでいる。その外観は、中央神殿とは似ても似つかぬ素朴なものであった。

 ミコトの困惑を予想していたローワンは、その背後に広がる広大な畑を示してみせる。



 「あれらは全て神殿の管轄する果樹園…『レザン』の畑だ。カザンで産出される『デュラルム』の全てはこの神殿で造られている」


 (だってあれって…!)



 高度を落とし始めたトゥーラの背からは、先程よりも畑の様子がよく見える。

 濃い緑の葉に半ば覆われるようにして、黄金色にも見える鈴なりの果実がたわわに実っているのが分かった。ミコトはこの果実をよく知っている。



 「レザンは神が遣われしもう一つの慈悲の果実。ゆえにその(グラース)をデュラルム…神の涙と呼ぶ」



 ミコトの眼下には一面のレザン──白葡萄畑。この神殿は、まさに白ワイン(デュラルム)のワイナリーなのであった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ