2
しばらく歩いて神殿の外へ出ると、そこはなんと雲の上だった。無骨で巨大な岩山の上に、いっぱいいっぱいの面積を使って純白の神殿が建造されている。結界があるということで息苦しくなったりはしないらしいが…。一体どうやってこんな神殿が建てられたのか、疑問に思うだけ無駄だと早々に諦める。
「神殿だけでなく、ほとんどの大国の王城は雲の上に存在しております。ただ如何せん不便ですので、実際に政治が行われる居城はもっと地上に近いところに置かれているのが一般的ですわ。この中央神殿にも、今回のような『門』の儀式や祈りの際にしか訪れませんの」
「翼を持つ騎獣を使役できる者が限られているのもそのためだ。正式な国交の使者は雲上の城から入国するのが慣例だからな」
「雲の上を飛行できるのは特権階級の方のみ、っていうことですね」
二人の説明に、緊急ヘリポートみたいなものかしらと納得する。
あまりにも巨大で神殿の裏に回るのは骨が折れそうだが、裏手からは『巨人の壁』の先端が時折見えるという。
(森でも半死半生だったのに、そんな山越えなんかしたら死んでたわ…)
ぞっと身を震わせた尊を見とがめたローワンによって再びマント簀巻きの刑にあったりもしたが、ここでは割愛したい。
さて肝心のお風呂である。微笑ましげに二人のやり取りを見守っていたイシュトが権杖をさっと振ったや否や、そこは質素ながらも格式ある建物の一室だった。ここも神殿の一部である居住区で、先の説明にあったように地上近くに建立しているものだという。
そこで各々は神官見習いという少年少女に預けられ、「どうぞごゆるりと」というイシュトの言葉を背に湯殿へと向かったのだった。
ここに危険はないと頭では分かっていたが、ローワンやトゥーラと離れるのには少しの不安を伴った。なし崩しに羽織ったままのマントの下で、落ち着きなくトートの紐をにぎにぎしてしまう。ローワンもどこか案じるように目線を寄越したが、さすがに湯殿に付いてきてもらう訳にもいかない。
尊を先導する白の長衣を纏った少女は、アージュと名乗った。イシュトの時もそうだったのでに薄々察してはいたが、どうやら神職に入ると姓は名乗らなくなるものらしい。彼女からすれば名誉な役回りなのだろう、頬を紅潮させて遠慮がちに度々振り返るので、尊は微笑ましい気持ちになった。
「アージュは今いくつなの?」
「こ、今年で十二を数えます…!」
「まだそんなに小さいのに…立派に働いて、偉いのね」
「いえっ!と、とんでもないことですっ!」
耳まで真っ赤にしたアージュは、しかしすぐに肩を落としてしまった。
「わたくしより幼くして身寄りを無くし、日雇いの駄賃でその日暮らしをする者も…餓えや病気で命を落とす者も大勢おりますので…」
「ご、ごめんなさい、無神経なことを…」
「!そんな、恐れ多いことでございます!わたくしこそ余計なことをお耳に…!」
土下座せんばかりに謝罪してくるアージュを必死で宥める。どうにか顔を上げたアージュは、少しそばかすの散った顔を綻ばせて言った。
「わたくしはとても幸運だったのです!身寄りは無くしましたが、『錬成師』の適性を見いだされて神殿に召し上げていただけましたので!」
(アルケミスト…?)
疑問が過ぎったが、「どうぞこちらへ!」と促されてしまい、聞き返すことは叶わなかった。
アージュが尊を招いたのは、すのこ張りの床が特徴的な六畳ほどの一室。この入口には鍵が掛かるらしく、カウチや籠、タオルらしきものが用意されていることから脱衣場の役割を果たすらしいと推測する。
「お召し物はこちらの籠へお入れくださいませ。僭越ながら、お着替えをご用意いたしますので」
「助かります!これ、恥ずかしながら昨日から着替えてなくって…」
このままでローワンやトゥーラに密着していたことを思うと、今さらながら羞恥に駆られる。なんとかお互い様ということで堪えてもらいたい。
「よろしければ、湯殿の方もご案内させていただきます」
恐らくこちらでは勝手が違うこともあるだろう。尊はそう思って、ありがたくアージュの後に続いた。
履きっぱなしだったパンプスを揃えて──今さらながら神官たちは裸足だった…土足で良かったのだろうか?──奥の入口、扉がわりとおぼしき厚手の布を捲る。
───のれんをくぐると、そこは天国だった。
尊は、冗談抜きで感動していた。正直、タライにお湯を汲んでさぁどうぞ、もしくは良くてもサウナ式の浴場かと想像していたのだ。
もわりと押し寄せる熱気と湯気、時折混じる清涼な風が心地よい。
「まさかの露天風呂…!!」
おそらく、あの神殿を頂く山の中腹か麓にこの建物はあるのだろう。岩をそのままくり抜いたと思しき黒くゴツゴツとした空間は、一部がぽっかりと開いて外の景色が一望できる造りになっている。外はまだ昼頃で明るいが、見渡す限り大自然が続くばかりであった。
「お気に召しましたでしょうか?」
「えぇとっても!まさか温泉に入れるとは…あ、いや沸かしてあるのかな?」
「ここは我が国フロイツが神山の麓近くに位置しております。とは言え普通の人間が登ってこられるほど低くはございませんし、ここには不可視の結界が張られておりますのでご安心くださいませ。…オンセン、とは無知ゆえ存じ上げないのですが、こちらのお湯は山の湧水を熱したものになっております」
そう言ってアージュは長いトングのようなものを手に取ると、浴槽から淡く赤色に光る石を取り出して見せた。これは火の力が込められたものらしく、原理は謎だが適度にお湯を沸かしてくれるらしいので何も文句はない。ありがたいことに石鹸やオイルの類、海綿なども備えられており、尊はわくわくしながら脱衣所へと戻った。
お着替えを準備して参ります、とこの場を辞したアージュを見送って、鼻唄交じりに衣服を脱いでいく。下着だとかなんだとか心配は尽きないが、まずはあの天国(露天風呂)を堪能せねばならない。申し訳程度に畳んで籠へ入れ、一番上に祖父のキーチャームも置いておく。
そして再び天国へ。
少々勢いのあるシャワー(浴室の隅に垂れた紐を引くと、壁上部の穴からガコンと出てきた筒からぬるま湯が落ちてきた)に驚きつつ簡単に体を洗い、ようやく尊は疲れた体を浴槽に沈めた。
「…ふあー…」
思わず声が漏れる。束ねた薬草らしきものが沈められたお湯は、ほのかに爽やかな香りがしてとても心地よい。洗い場の床と浴槽内は丁寧に石が磨かれており、縁に体を預けてもゴツゴツしない。
(…主神さまとやら、この温泉に浸かるために飛ばされたなら許してやってもいいんだけどな…)
急転直下に次ぐ半死半生、奇想天外摩訶不思議。
怒涛のような一日?から解放された尊は、脳内思考までゆるゆるとさせながら、全身を脱力させて漫喫するのであった。
後に「お風呂くらいで誤魔化されそうになるな、自分!!!」と地団駄踏むことになるのだが、それはまた別のお話である。




