30 そうね、やっぱり、あれかな……
イコマはチョットマの瞳を見つめ続けた。
相変わらずギラついているが、一点に静止して、時折瞬きをする。
チョットマの歌の先生、一つ目のお姉さんが、心に沁みる歌の数々を唄ってくれている。
Ah Ah
だから、だから、そばにいて
誰もが固唾を飲んで見守っている。
お!
チョットマ!
瞳が揺らいだ。
と、ゆっくりまぶたを閉じ、そして開いた。
瞳が動き、イコマと目が合った。
「……パパ……」
「気がついたか」
頬が動き、少しだけ微笑んだ。
「先生……、ありがとう……」
一つ目のお姉さんが、ああ、あなた、いつも、わたしのそばに、と唄いながら唇をチョトマの頬に押し付けた。
「さあ、チョットマ。聞いてただろ」
チョットマがわずかに頷いた。
「楽しかったことを聞かせてくれ」
「うん……」
しかし、チョットマは苦しそうに顔をゆがめた。
「まだ無理か?」
「ううん……」
ユウの唇が、大丈夫と動くのを確認して、イコマは続けた。
「最近あった出来事を。楽しかったことを思い出すんだ。いいね」
「わかった……」
チョットマの唇が見る間に赤みを帯びてくる。
「ゆっくりでいいよ。他のことは考えず、その時のことだけ思い出して」
今度は少し強く頷いた。
楽しかったこと……。
そうね、やっぱり、あれかな……。
たどたどしい話し方だったし、時折顔を歪めるが、チョットマは話し出した。
オペラ座の仮面舞踏会。
楽しかった……。
マスカレード。
パパが、誰かと踊っておいで、って送り出してくれた……。
パパは踊れないって言うから、私が先に誰かに踊り方を習って、パパに教えてあげなくちゃ。
勇んで貴賓席を飛び出したんだ。
三階の通路を右に歩いて行った。
来た道とは違うけど、その方が面白いものがあるかもって、なんとなく。
大抵の席はカーテンを下ろしてあったけど、下ろしてない席はチラチラ見ながら。
でもね、奥に行けば行くほど、奇妙な人たちが陣取ってて。
一体全体どうやってブースに入ったのかと思うほど巨大なクマ。
死体じゃないかと思うほどガリガリに痩せた人がいたり。
どんどん奇妙になって。
ブース全体に氷のようなものが詰まってたり、ドロドロの液体がかろうじて人の形を作ってたり。
だんだん気味が悪くなってきて、戻ろうかと思った。
でもね、ここで引き返したら東部方面攻撃隊の名折れ、でしょ。
これしきのことで逃げ帰ったら、ンドペキやスジーウォンに申し訳ないし。
いつの間にか、階下から聞こえてくる音楽やざわめきも、なんとなく遠くに聞こえるよう。
でも、ちゃんと現実の世界にいることはわかってたし。
それにしても、長い長い通路だった。
もう宮殿の外まで出てしまってるんじゃないか、って思うほど。
途中から貴賓席の中を見るのはやめて、走ったわ。
でね、とうとう最後の貴賓席の前まで来たの。
通路の先は下に降りる階段。そう思ってたら、違った。
上に登る階段だった。
どういうこと?
しかも、不思議なことに、数段先は暗闇が詰まっているような感じ。
見えないのよ。
さすがにこれはまずい、って思った。
戻らなきゃ、って。
と、最後の貴賓席のカーテンが開いた。
えっ。
顔を出したのよ。




