第35話 母が来ただけなのに、なぜか「全部知っている人」が現れました
剣術大会の喧騒が、ようやく収まりかけた頃。
アルヴェイン公爵邸に、一台の馬車が到着した。
静かに。
だが確実に。
門番が一瞬だけ息を呑む。
――予定にない来訪。
だが。
名前を確認した瞬間、態度が変わる。
「……お通ししろ」
それだけで、全てが通る。
屋敷の空気が変わる。
レオニードが、すぐに気づいた。
「……来たか」
「誰?」
エリシアが聞く。
一拍。
「母上だ」
沈黙。
エリシアの顔が固まる。
「え、今?」
「タイミングが良すぎる」
レオニードは立ち上がる。
“偶然”ではない。
ありえない。
――応接室。
扉が開く。
そこにいたのは、一人の女性。
落ち着いた佇まい。
静かな気配。
だが。
その場の空気を“支配している”。
「お久しぶりです」
穏やかな声。
リリアーナが、ぱっと顔を明るくする。
「お母様!」
駆け寄る。
その動きは、完全に“娘”。
いつもの無自覚な強さはない。
ただの、家族。
「元気そうね」
母が微笑む。
優しく、自然に。
だが。
その視線が、一瞬だけレオニードとエリシアを捉える。
――理解している。
それだけで十分だった。
「急にどうしたの?」
リリアーナが聞く。
「少し、様子を見に」
簡単に答える。
だが。
その言葉の意味は、重い。
「……」
レオニードが静かに言う。
「把握しておられるのですね」
「ええ」
即答。
迷いがない。
エリシアが小さく呟く。
「……全部?」
「ほとんど」
否定しない。
つまり。
――理解している。
この状況を。
構造を。
危険性を。
「ならば」
レオニードが言う。
「対処法を――」
「ないわ」
遮る。
穏やかに。
だが、断定的に。
沈黙。
エリシアが苦笑する。
「やっぱりか」
「ええ」
母は頷く。
「制御はできない」
「干渉も無意味」
「……じゃあどうするの」
エリシアが聞く。
母は、リリアーナを見る。
優しく。
「そのままでいいの」
それが答え。
レオニードの眉がわずかに動く。
「……理由を」
「簡単よ」
一拍。
「“そういうもの”だから」
説明ではない。
定義だった。
リリアーナは首を傾げる。
「何の話?」
母は微笑む。
「あなたの話よ」
「私?」
「ええ」
一歩近づく。
「あなたはね」
優しく言う。
「“選ばれた”のではないの」
空気が変わる。
エリシアが息を止める。
レオニードも動かない。
「“上に立った”のよ」
その一言で。
すべてが繋がる。
黒竜。
現象。
感情トリガー。
すべて。
――結果。
「……」
レオニードが小さく呟く。
「因果が逆転している」
「その通り」
母は頷く。
「力があるから影響するのではない」
「影響する存在だから、力がある」
エリシアが震えながら言う。
「……最悪の定義」
「でも安心して」
母は穏やかに言う。
「悪いものではないわ」
リリアーナは、まだ分かっていない。
「難しい話ね」
そう言って笑う。
母も笑う。
「ええ」
「だから、考えなくていいの」
それが結論。
そして。
最も重要な指示。
「普通に過ごしなさい」
リリアーナは頷く。
「それならできるわ」
即答。
迷いなし。
レオニードとエリシアが、同時に思う。
――それが一番難しい。
だが。
それが唯一の正解。
「一つだけ忠告するわ」
母が言う。
「何?」
「強い感情には気をつけて」
一拍。
「特に、“寂しさ”」
空気が、わずかに揺れる。
エリシアが息を呑む。
――黒竜。
完全に一致する。
母はすべて理解している。
「でも大丈夫」
続ける。
「あなたには、もう一人いるでしょう?」
リリアーナが少し考えて。
「エリシア?」
「ええ」
母は頷く。
「繋ぎ止める役割」
エリシアが固まる。
「……私?」
「そうよ」
一拍。
「あなたがいれば、暴走しない」
責任が、静かに置かれる。
だが。
重すぎるものではない。
自然な位置。
エリシアは小さく笑う。
「……了解」
覚悟を決める。
レオニードが静かに言う。
「私は」
「あなたは」
母が先に言う。
「“外”を管理しなさい」
一拍。
「世界側の調整」
役割が確定する。
全員の位置が揃う。
そして。
リリアーナだけが、変わらない。
「お母様もお茶にする?」
その一言に。
母は優しく微笑んだ。
「ええ、いただくわ」
それは。
すべてを理解した上での。
“普通の時間”だった。




