幕間 公爵邸使用人記録――「あのお方について」
これは、アルヴェイン公爵邸に仕える使用人の間で、共有されている“非公式記録”である。
文書として残すことは禁じられている。
だが、口伝だけでは不十分と判断され、限られた者の間でのみ、密かにまとめられている。
対象――
リリアーナ・アルヴェイン公爵令嬢。
結論から記す。
あのお方は――
“何もしていない”。
だが、それが最も危険である。
■一、基本認識
・常に穏やかである
・命令口調を用いない
・怒りを見せない
・他者を否定しない
→ 結果として、周囲は安心する
→ 同時に、“判断基準を失う”
■二、接触時の注意
・不用意に距離を詰めない
・過剰な敬語は不要(逆に困惑される)
・否定・拒絶の言葉は極力避ける
→ 理由不明
→ ただし、過去に“空気が変わった”事例あり
■三、最重要項目
・感情を揺らさないこと
これに尽きる。
具体例:
・「寂しそうですね」→ 不可
・「大丈夫ですか」→ 条件付き
・「何かお困りですか」→ 慎重に
→ すべて“トリガーの可能性”あり
■四、観測された現象
※公式には存在しないものとされる
・音の消失
・人の移動が減少
・視線の集中と回避の同時発生
・“いたはずのもの”の不在
→ 原因不明
→ ただし発生時、必ずお方が近くにいる
■五、黒について
詳細記載禁止。
ただし共通認識として:
・“来る”
・“応じる”
・“止まる”
すべて、お方の言葉による。
※理由不明
■六、最重要理解
我々は、守っているのではない。
“守られている”。
その対象が誰であるかは、言うまでもない。
■七、現場対応指針
・お方が笑っている時 → 安全
・お方が困っている時 → 注意
・お方が考え込んでいる時 → 危険
・お方が“何も感じていない時” → 最危険
■八、個人的所見(記録者)
私は、この屋敷に十五年仕えている。
多くの貴族を見てきた。
だが、あのお方ほど“判断できない存在”は初めてだ。
恐ろしいとは思わない。
むしろ、安心する。
だが同時に。
理解している。
この安心が、“条件付き”であることを。
そして、その条件を。
我々は、誰一人として把握していない。
■結語
リリアーナ様は、優しい。
これは疑いようのない事実である。
だが。
その優しさが、どこまで届くのか。
どこから先が“排除”になるのか。
それを知る者は、いない。
――だからこそ。
我々は、今日も変わらず務める。
何も起こさせないために。
何も起きていないように見せるために。
そして。
あのお方が、“普通でいられるように”。
それが、この屋敷に仕える者の、ただ一つの役目である。




