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GAME  作者: トレッドミル
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第四章

――二三棟二〇一号室――


 卯月は、ドラフト内で何か化合物を合成していた。ドラフトとは、有害な気体が発生するときや、揮発性の有害物質を取り扱うときに用いる排気装置のことである。大形の箱状になっていて、前面が上下にスライドするガラス窓になっている。卯月はそれを少し上げ、手だけをドラフト内に入れた状態で、操作を行っている。

「さっきから、何を合成してんの」

 皐月は、十分間ほど黙々と実験している卯月に興味のない素振りをしていたが、しびれを切らして問いかけた。

「2―クロロベンズアルデヒドとマロノニトリルを原料にして、ピペリジンを触媒に加えて、クネーフェナーゲル縮合を行っている、とでも言えば分かる?」

「分かるか!」皐月は思わず大声をあげてしまった。

「クロロベンジリデンマノニトリル」卯月は皐月の十分の一のボリュームで回答した。

「クロロベン……なんなのよそれ」

「催涙ガス」

「へー。でも、なんでそんなものの作り方知ってるの」

「二年生のときの授業で言ってた。後藤教授」

「へー、あの綿棒がね」

「綿棒?」

「あんた知らないの。細長いから綿棒。あんたくらいよ、その変な催涙ガスの名前覚えてて、綿棒を知らないのなんて」皐月は目を細めて、呆れている。

「そう。そうかもね」

「でもさ、催涙ガス使って、足止めになるものなの?」

「クロロベンジリデンマノニトリルは非致死剤だけど、一平方メートルに十グラム以上あれば致死効果がある」

「よく覚えてるのね」

「他に覚えることなんてないから」

 皐月は一瞬見せた憂鬱そうな卯月の後姿に、なぜか心が締めつけられた。

「あんた、なんでこのゲームに参加したの。あんたが命と引き換えにでも欲しいものってなに」

「……歴史よ」卯月は少し黙ったあと、答えた。

「歴史?」皐月は眉間にしわを寄せた。

「そう。私の知らない全ての歴史。歴史は、過去の人々の遺言の塊。それを未来に活かすのは、私たちの使命であり、義務でもある」

「へえ。なんか良く分かんないけど、あんた、意外に義理堅いのね」

「え?」卯月は目を丸くした。

「何よ?」

「い、いや。あなたのことだから、『そんなことに命賭けて戦ってるの?』って笑うのかと思ったから」

「べ、別に、あたしがなんと言おうと勝手でしょ」皐月の顔が少し赤みがかった。

「そうね。じゃあ……あなたは?」操作している手を止め、振りかえって皐月を見つめた。少し湿った瞳で、じっとりと見つめた。

「あたしは。あたしは、証明」

「証明」卯月の口調は疑問符がつくような口調ではなく、ただ単語を繰り返しただけだった。

「そう」

「何の証明?」

「自分に向けた証明」

 皐月の答えを聞くと、卯月は再びドラフトに向きなおし、実験を再開した。


――十六棟前――


 外に出ると、すでに暗闇に包まれていた。空には夏の大三角形が綺麗に描かれている。深い黒の上に瞬くドットは、吸いこまれないように必死に抵抗しているかのように輝いている。文月は空を見上げて遠くに思いを馳せていたせいか、ひぐらしが鳴いていることに気付くのにしばらく時間がかかった。

「まだ鳴いてんだな」

「ああ、ひぐらしのことね」葉月は耳を澄ませた。

「なに、文ちゃん。蝉好きだったっけ」

「蝉、というよりもひぐらしが、だな」

「へー、また、あんなすぐ死ぬものを」

「すぐ死ぬから好きなんだよ」

「なんで」

「おめえには一生分かんねーよ」

「えー。なんでよー」

 文月は、すがりつく長月を振り払い、足音がしなくなった後ろを振り返った。葉月は、ぼうっと大学を囲んでいる柵を見ていた。

「どうした」歩いていた足を止め、葉月を呼んだ。

「そういえば」

 ひぐらしが鳴きやんだ。

「どうしたんだって」文月は、葉月の方へ数歩歩み寄った。

「そういえば、あの鉄球の穴。柵に穴が」

「何言ってるんだ。ちょっと疲れたんじゃないか」文月は葉月の肩を軽く叩いた。

「あの穴よ! あそこから抜け出そう!」

 突然振りかえり、大声を上げたので、文月は肩にかけていた手をどけた。

「そうよ! 早く行きましょう!」

 葉月は、文月の手首をつかみ、早歩きで一六棟と二六棟の間の道路へ向かった。道路に出ると、午前中に自分たちがいた一一棟の方を向いた。

「あっちから、あの鉄球を放ったわけだから、当然こっちの柵に直撃してるわよね」

 今度は逆の方角を向いた。金網が見える。目を凝らすと、金網の向こう側にはグラウンドが見える。さらに近寄り、目を凝らす。金網には穴があいていた。

「やっぱり」思わず、表情が緩む。

 葉月は文月の手首をつかんだまま、金網に空いた穴を抜けて、グラウンドに入った。

「おい」

 文月はつかまれていた手を振り払った。

「グラウンドに入るときは、こうやるんだ。いいか、ここは神聖な場所なんだ」

 文月は、ゆっくりとお辞儀した。

「あなた、野球やってたの」文月に倣い、お辞儀した。

「そうだ。中学三年間」文月は頭を上げた。

「やっぱり。いいわね、打ちこめることがあるっていうのは」文月に倣い、頭を上げた。

「そんないいもんじゃない。その野球が理由でこの《ゲーム》に参加してるんだから」文月は頭を上げたにもかかわらず、視線は地面に向けられている。

「あなたは、何が欲しいの」葉月は急に核心をついた。

「俺は。俺は……強さだ」文月は振り絞るように声を出した。

「十分強そうに見えるけど」

葉月は文月の目を見つめた。が、やはりその視線は地面に突き刺さっていた。

「体なんて、鍛えりゃ誰でも強くなれる。俺が欲しいのは、ここの強さだ」

文月は自分の左胸に右の拳をあてた。

「何かあったの」

「俺は、いつも仲間内の練習のときは打撃守備完璧だった。自画自賛しているが、こればっかりは自信がある。打率だって五割は超えてたし、エラーなんて滅多にしなかった。その証拠に、一年生の頃からレギュラー入りだった」

「すごいじゃない」

「全然だ」首を横に振った。依然、視線は落ちたままであった。

「試合になると、それが全く駄目なんだ。五試合連続ノーヒット、エラーも連発。原因は分かってる」

「なに?」

「緊張だ。打ちたい、エラーしたくない。そう思えば思うほど、手が震えてバットに力が入らなくなる。ボールの来る方は分かってるのに、足がすくんで動けなくなる」

「誰だってそうよ」

「そう。俺も最初はそう思ってた。でも、駄目だった。そのあと、十五試合でたった一本のヒット。もちろん、レギュラー落ち。当然だよな。部活の仲間も監督も不思議がってたよ。なんで、練習であれだけ活躍してるやつが、試合になるとあんなに駄目になっちゃうのかって。練習では、みるみる上達していくのが分かった。特にバッティングは、部の中で一人抜きんでてた。なのに、なのに、試合になると、どうしても緊張するんだ。自信がついてたはずなのに、バッターボックスに入ると、とてつもない不安が襲うんだ。また打てないのか、って」

 文月の目は一点を見ているようだが、それは地面ではないように葉月には見えた。地面よりももっと奥に焦点が合っている。

「そうやって中学三年間、最後の試合を迎えたんだ。勝てば関東大会への出場権を得られる、すげえ大事な県大会の決勝戦だった。やっぱり、その試合も緊張が止まらなかった。最後の最後まで打てないのかと思うと、涙が出そうになった。三打席0安打でむかえた九回裏。得点は、二対三で一点ビハインド。しかし、ワンアウト満塁。一打同点どころか、逆転だって十分にある。その状況で回ってきた俺の打席。普通なら、異常な緊張に押しつぶされて気分が悪くなるくらいの心理状態だろう。でもな、このとき打席に向かう俺は全く緊張してなかった。驚くほど冷静だった。同級生からの歓声が心地よいBGMのようだった。なぜだか、全く分からなかった。けど、打席に立った後もいつもの震えが襲ってくることはなかった。まるで練習のときのような心地だった。俺は、ピッチャーを睨みつけて、こう呟いた。『三年間の集大成だ。みんなの想い、ぶつけてやるよ』ピッチャーがゆっくりと振りかぶった。俺は、構えた。ここだけ打てれば。そう思った。バットを握る手に力が入った」文月は口以外の部位は微塵も動かさず、吐き出すように語る。そして、まるで能面のように冷たい目をしたまま、続けた。

「でもピッチャーからボールが離れたその瞬間、やっぱりきたんだよ。『ここで打てなかったら、みんなの努力が水の泡』頭の中でその言葉がこだました。ボールはど真ん中だった。でも、一瞬判断が遅れた。俺はバットを振った。完全に真芯でとらえたのは、打ってすぐに分かった。打ったボールは、勢いよく一塁へ飛んでいった。当然、走者はリードを取ってたから塁から少し飛び出してる。嫌な予感がした。そのままボールは、一塁手のミットにおさまった。そして、彼は一塁をすぐに踏んだ。試合終了。チームメイトは慰めてくれたらしいが、全く覚えてない。消えてしまいたかった。もう本当に情けなかった。俺は、それ以降一度もバットを手にしたことはない。それから、今まで人前で何かするときとか、絶対にミスしちゃいけないときに緊張が余計ひどくなった。俺が、理系に進んで研究者になろうとしたのは、文系よりもそういう機会が少ないと思ったからだ。笑えるだろ」

 葉月は、肯定も否定もしなかった。グラウンドに湿った風が吹いた。不快な感情が増した。

「だから、俺は心の強さが欲しい」

「魔法じゃないんだから、そんなのこんなゲームに勝ったからって叶うわけないじゃない」

葉月は冷たく言い放った。

「知ってる。分かってる。だけど、もう、俺にはどうしようもないんだ」

 文月は視線を上げ、葉月にそれを向けた。

「俺は、優勝したらもらえると思うけどな」葉月の背後からいつもより低い長月の声がした。

「だって、あいつなんでもやるって言ってたじゃん。優勝したら、もらえるはずだ。じゃなきゃ、契約違反だ」

「でも、そんな抽象的なもの……」

「なんでもって言ってたんだ」長月は、葉月を凝視した。

「俺は精神的な強さが欲しい。だから、勝つんだ。だから、葉月が逃げるって言うのなら、俺は反対する。葉月、なんで逃げる」文月は葉月に訊いた。

「この《ゲーム》が無益だからよ」

「葉月は何が欲しいんだ」長月は冷徹な目線で葉月を刺した。

「……そんなのもういらないわ。だってわたくしが欲しいのは……生きる意味だもの」

「ふーん。なるほどね。生きてなきゃ叶わないよな、それは」長月は何度も首を縦に大げさに振り、納得して見せた。それは猿芝居だということが誰にでも分かるような納得の仕方だった。

「何よ。悲しい女だとでも思ったの。いいわよ、一人で勝手に抜け出すから」

 葉月は、グラウンドの奥へ歩き出した。

「生きる意味が欲しい、か。たぶん人間が一番欲しいものなんじゃないか」葉月の後ろを追う。さらにその後ろを文月が無言のまま、追う。

「何のために自分は生きてるのだろう。自分の代わりなんていくらでもいる。別に自分がいなくなっても、世界は変わらずにまわるだろう。でも、死にたくはない。そういうジレンマ、人間らしいなあ」

「じゃあ、あなたは何のために生きてるの」葉月は歩くスピードを上げた。

「自分のため」長月は即答した。そして、葉月の歩くスピードに合わせて、自分のスピードも上げた。

「俺が生きたいから。それが生きる理由。余計なこと考えるから苦しくなるんだ。自分は今生きていて幸せなのかとか、誰かが自分のことを必要としてるのかとか、ここでこの選択肢を選んだのは正しかったのかとか。でも、悩むのは当然だ。悩みがない人間なんていないからな。今に満足してる人間なんていないし。常に、あっちの選択肢を選んでたらもっといい人生だったのかな、なんて考えてんだ。人間の欲は底なしだからな。今の自分に満足してるなんて言うやつは、満足してないと思うのが怖いからそう思い込んでるだけ。人生なんて後悔と妥協の繰り返し。いいじゃんか、それで。別に、死にたくないし、生きたいから生きる。それだけでいいじゃん」

 葉月は、突然足を止めた。そして、静かに髪をなびかせて、振り返った。

「もっと早くあなたに出会ってたら、こんなのに参加しなかったかもね」葉月は笑った。

「なんだ、かわいいじゃん」長月も同じように優しく笑った。

「うるさい」葉月は頬を赤らめて、すぐにまわれ右をして、歩き出した。その後ろから二人はついていく。

 グラウンドの奥のフェンスが見える距離まで近づいたのはそれから、一分も経たなかった。

「そろそろね。早くここから抜け出して、警察に通報して終わらせる。こんな殺し合い」

しかし、衝撃的な光景がそこにあった。三人は愕然とした。穴は開いていなかった。鉄球もない。三人のうちでこの状況が理解できた者はいなかった。

「なんでよ……」葉月は、その場でしゃがみこんだ。

「鉄球はどこに行ったの。どういうことよ」葉月は頭を抱えて、グラウンドをぐるりと見渡した。探しているものは見つからなかった。

「いやだ! 抜け出すんだ! こんなところで死にたくない!」

 葉月からはすでに理性が抜け落ちていた。発狂して、立ち上がり、フェンスに向かっていった。

「おい! やめろ!」

文月は、葉月の腕をつかもうとした。しかし、細い腕は文月の手からすり抜け、フェンスにしがみついた。その瞬間、葉月の体はガタガタと大きく震え、まるで囚人が牢獄から抜け出そうとしているようにフェンスを揺らした。

「おい!」

 文月は、葉月の腕をつかもうと右手を伸ばした。その腕は、長月によって押さえられた。

「何すんだ!」鬼のような形相で叫ぶ。

「文ちゃんまで死ぬ気か」長月は妙に落ち着いた口ぶりで文月を制した。

「このまま見捨てんのかよ!」

「落ち着くんだ」

 文月は無視して、葉月の方を向いた。

 そのときには、もう激しい痙攣は治まっていた。そのままゆっくりと葉月は倒れこんだ。

「なんでだよ」

 文月は、力が緩んだ長月の手を解き、倒れた葉月の横に跪いた。頭を手のひらで包むように撫でた。そして、開いたままの瞼を閉じてやった。

「死にたくないって本気で思い過ぎたのか。生きる意味が欲しかった……」

 長月は、横たわった葉月に目を遣る。

「これが普通の人間の行動なのかもな」

「お前は、冷静だな」文月は冷たい視線をぶつけた。

「いや、そうでもない」

 再び、ひぐらしが鳴き出した。広大なグラウンドに一匹のひぐらしの鳴き声が響き渡る。自らの命の短さを嘆くように鳴く。人間の命の儚さを詠うように鳴く。

「あのルールは本物だったのか」

 長月は、ひぐらしの鳴き声に掻き消されるくらい小さな声で呟いた。


***


 一人の女性が、自分の信念を明かして、この《ゲーム》に参加したことを後悔して、生きることに執着し、その結果死んでいく一部始終を二人の男は画面上で黙って見ていた。映画館でシリアスな映画を鑑賞しているかのように。

 岩井は席を立って後ろを向き、ちょっと行ってくるわ、と隣の椅子で固まっている紺野の肩を軽く二回叩いた。紺野がうんと返答したときには、すでに岩井は部屋から出て行ってしまっていた。岩井の行動は紺野の想定の範囲内だった。

 この部屋には窓がない。本来ならば、一つ窓が存在しているはずなのだが、部屋を埋め尽くしている山積みになったパソコンの山と、それぞれの山に繋がっているコードで窓の役割は完全に果たされていない。さらに、扉は今岩井が出て行った扉しか存在しない。

 しかしながら、紺野はこの混沌とした部屋の中にあるものを全て把握している。それは当然と言えば当然だ。なぜならここは、紺野が所属する研究室の一室であるからだ。

 紺野は、扉をじっと凝視したままであった。外気に決して触れることのないこの閉鎖空間で、女性がゲームオーバーする姿を鑑賞したのだ。外に出たくもなるだろう。気持ちは痛いほどに分かる。自分も同じ状況だからだ。目線を逸らし、窓の方に焦点を合わせた。

 山の隙間から注ぎ込まれている光の筋を虚ろな眼で見つめていると、一年前の出来事が想起された。岩井がこの《ゲーム》を紺野に提案したときの記憶だ。その欠片をパズルのように再構成させていく。ピースは完璧に埋まりはしなかったが、何が描かれているかは分かるくらいにはなった。

 二人の意見は食い違っていた。紺野は端から《ゲーム》など別にやりたくなかったのだ。しかし、実際にゲームが行われている現実を冷静に捉えると、岩井の思う壺であったような気がしてきて、紺野は腹が立ってきた。そこで火照った頭から熱を奪うために軽く頭を横に顫動させた。

「何やってんだ」

 岩井が扉を開けたまま、怪訝そうに、しかし心配している様子で眉間に皺を寄せた。

「いや、なんか良く分かんなくなってきちゃって。こういうの理系の俺には難しくて」紺野は咄嗟に話を葉月の話に摩り替えた。

「文系の俺にだって難しいよ。大体、理系とか文系とか関係ないだろ、こういうのは」

いつになく真剣な表情だった。

「何のために生きるのか。何が幸せなのか」

 紺野は、顎に生えた無精ひげを触りながら考え込んだ。

「答えなんてないからな。あっても困るだろ。これが君の幸せです、この通りに動いてくださいって言われて、それ通り動く馬鹿はいねえだろ。でも、だからって考えないでいい問題でもないんだよな。難しいよ」岩井は、元の席にゆっくりと腰を下ろした。

「命と引き換えにでも生きる理由が欲しい。矛盾してるようだけど、矛盾してない」

 そう続けると鼻の頭にかいた汗を手の甲で拭った。

「彼女は結局何が欲しかったんだろう」紺野は余計に考え込んだ。

「だから、生きる理由だろ」

「そうなのかな」

「何が言いたいんだよ」

 岩井を誹謗したわけでもないのに彼の口調がきつくなったので、紺野は理不尽な不愉快を感じた。

「いや、なんか。長月と話し終わったときの彼女は、うまくは言えないんだけど、満ち足りてた感じがしたから」紺野は口元を尖らせて言った。

「それは、つまり生きる理由が欲しかったわけじゃなくて……」

「そう。そういうことを話せる人が欲しかっただけなんじゃないかなって」

「なるほどね」

 岩井は、紺野の言葉に相槌を打ちながら、机の上に開いたノートにシャープペンシルを走らせる。通常、人は書くスピードが上がるほど、反比例的に字の綺麗さは落ちるはずなのだが、彼の場合は通例とは異なる。どれだけ書く速度が上がろうが新聞にも載せられるのではないかと思うほど、非常に整った活字なのだ。

「ねえ。やっぱり、もうやめない」紺野が呟いた。

「二十四時間。約束したじゃんか」

 二人とも互いの目を見ようとしない。時が静止した。クーラーの空調の重低音のみがバックグラウンドミュージックのように流れている。

「分かったよ」

 圧迫感のある重い空気に押しつぶされそうになった紺野は、妥協した。

「ところで、学長はなんで岩井の提案を認めたの?」

「そりゃあ、説明したからだよ」

 岩井は、一通り文章を書き終え、シャープペンシルを開いたノートの上に放り投げた。

「学長も心理学専攻だったから、こういうのには興味あんだろうよ、きっと。この《ゲーム》の目的は、お前と俺じゃあ違うけどさ、どっちとも大切なんだよ」力説する目は、血走っているというよりも、眼球全体が赤くなっているほどだ。

「まあ、大切だと思うけど。わざわざ、一緒にやらなくても」

「お前はそうかもしんないけど、俺はお前がいないとできないんだ。最初に話した通りだ」

 はあ、と曖昧な返答をすると、紺野は椅子の背もたれに思い切りもたれかかり、天井を仰いだ。


***


――三二棟前――


 愛した女を殺された。愛した女を殺した男を殺した。

 それなのになぜか、充足感がない。弥生が殺されてからは、殺したやつの正体を突き止め、殺すことを目的に動いていた。目的は、自力で果たした。果たしてしまったが故に、怒りの矛先をどこに向ければいいのか分からなくなってしまったのだ。空っぽになった彼の心を満たすのは、やはり彼女だった。

「弥生……」

 睦月は徐に歩き出した。一歩一歩を引きずる様にして踏み出す。重いのは足だけではない。俯いたまま、行くあてもなく前に進む。視線を落したまま歩いていると、目の前に空き缶が現れた。

 ――コーヒー……弥生、好きだったな――

 好き『だった』、と声にはしていないものの、そのように思った自分に苛立ち、思い切り缶を蹴飛ばした。カランカランと、乾いた音が響いた。蹴飛ばした跡に目を遣ると、水溜りのようにコーヒーが溜まっていた。

 缶に穴でも開いていたのだろう。

 睦月は顔を上げた。頭の中に電流が走った。実際に、脳内ではシナプスを通じて電気的な信号によって情報を伝達しているのだから、単なる比喩ではない。

 すると、その電流を動力源にしたかのようにすぐに走りだした。向かった先は、一六棟の奥のグラウンドであった。

 走りながら、睦月は自問していた。

 ――もし、穴が開いていたら、どうする? お前はそこから逃げるのか? それでいいのか?――

 答えはしなかった。疑問だけが反響する。気分が悪くなってきたので、必死に他のことを考えようとした。

 弥生と如月のことが浮かび上がってきた。遠のきそうな意識の中力いっぱい走っていると、《ゲーム》が始まった直後の二人との会話が疲弊した脳内を駆け巡り始めた。


~~~


 学長のルール説明を終えて、一六棟三〇一号室に着くと、俺たち三人は入り口付近に散乱していた回転椅子にそれぞれ着席した。

「なんで、参加拒否しなかったんだよ」俺は半ば怒り気味に二人に言うとでもなく、漏らした。

「怒ってるの」弥生は無邪気に笑った。

「欲しいものがあるからに決まってるだろ」如月も笑顔だが、弥生のそれとは異質なように見えた。

「怒ってなんかないよ」俺は弥生に向かって言ったのだが、内容とは真逆で口調には苛立ちが隠し切れていなかった。

「それに、お前はなんでも持ってるだろ。命に代えてとか大げさな……」

「そんな万能の神みたいな言われ方すると、恐縮だな」如月は白い歯を見せた。

 容姿も偏差値七十はあるだろうし、頭のキレも抜群だし、そして、誰もが好意を抱く性格。少なくとも、俺は彼を万能の神として位置付けていた。

「でもな」白い歯が唇に隠され、同時に笑顔も消えた。「俺には、欠けてるものがある」

 俺は目線を左上に向け、腕を組んで必死に考えた。弥生も苦虫を噛み潰したような顔で考えている。しばらく時間が静止したようだった。二人は結局同じ結論に達した。

「分からない」

 声は打ち合わせでもしたかのように、綺麗に重なった。

「お前ら、双子かよ」如月は手を自分の膝に打ちつけて笑う。

 俺と弥生はキョトンとして、目を合わせた。

「あー、面白っ」

 そして、またすぐに笑顔は消えた。

「愛だよ」

「アイ?」俺は脳内で漢字に変換できなかった。

「愛だよ、ラブの」

「愛!」

 分かったかのような返答をしたのだが、十分に理解できていなかった。

「そう」

「なんで? 愛されてないの? 愛してないの?」弥生は疑問符を連ねた。

「どっちもだ」

 立ち上がり、入口の方へとふらふらと向かっていく。扉の前で止まった。

「老若男女問わずいろんな人を好きになり、いろんな人から好かれるんだよ、俺」

 なんだ自慢話か、とは俺は思わなかった。たぶん、弥生もそうは思わなかっただろう。事実だからだ。

「でも、っていうより、だからなのかな。一人の人間を真剣に愛したり、一人の人間から真剣に愛されたりってことがないんだよ、俺」

 俺たちがいるだろ、と即答することが正解だったのかもしれない。でも、俺にはそれができなかった。如月は肩を落とし、俯いていた。背中が異様に狭く、小さく見えた。如月の普段見せないその表情に、俺たちは言葉を失うだけだった。

「八方美人は本当の愛を知らないんだよ」

「なんだよそれ」俺は囁くような声をしぼり出した。

 弥生は肩を落とし、項垂れていた。前髪で顔が隠れて見えない。

「そういうことだ。この《ゲーム》に勝ったら、愛をもらうんだ。どうだ、イカれてるだろ、俺」如月は儚げに笑った。

 弥生が項垂れたまま、ごほっと咳きこんだ。その衝撃で地面にポタポタと液体が飛び散った。

「なに泣いてんだよ、弥生」俺は泣きそうになるのを堪えて笑った。

「怒ってるの」

「なんだ。俺にか」如月が力なく笑った。

「違う。自分に」鼻をすすり、再び咳きこんだ。

 弥生は腕で顔を擦り、涙を拭き取ろうとした。腕が涙で濡れていく。そして、辞書の中から言葉を選んで口にするようにゆっくりと単語を発した。

「わたしは。いやわたしたちは、如月に愛を教えてもらった……なのに……なのに、わたしはあなたに、うまくそのことを伝えられない。あなたがいなければ、わたしは睦月とこんな関係になることはなかった。なんて言えばいいのか、ごほっごほっ、分からない。言葉が見つからないの……言葉じゃとてもじゃないけど、伝えきれないの」

 泣きじゃくり、咳きこみながら、言葉を紡ぐ。それを見て俺は立ち上がり、如月の肩を掴んだ。如月は顔を上げた。

「感謝してるんだ」

 俺は目を細め、口を強く結びながら、如月を睨んだ。それは決して悪意のあるものではなく、泣くのを堪えているのを隠すためであった。

 如月の瞳に色が戻った。俺にはそれが分かった。

「なに、泣きそうになってんだよ」

「お前もだろ」

 俺は如月から手を離し、後ろを振り返った。そして、そっと目頭に人差し指を当てた。人差し指を退けると、赤く目が腫れあがった弥生と目があった。弥生の目が細くなった。それが愛おしくて、かわいくて、俺の口元が自然に緩んだ。

「ありがとうな」

 如月の声は震えていた。

 睦月の「おう」と弥生の「うん」が重なって、如月はぎこちなく微笑んだ。

実験器具が散乱する三〇一号室に涙を目に浮かべた男女が三人。それは普段の実験生活では見かけることのない、奇妙な光景であった。奇妙ではあるものの、暖かい空間に包まれていた。

「じゃあ、正式に始まる前にやめに行こうぜ、こんなの」睦月は両手を広げ、二人にアピールした。

 二人の表情は、似ていた。笑顔でそうだなと肯定してくれることを望んだが、真逆といっていい反応であった。

「たぶん、それは無理だ」如月は唇を噛む。

「なんで」

「学長が説明した後、契約は成立してるからな。彼はその前に何度かやめるチャンスを俺らに与えた。にもかかわらず、俺らはそれを貫いた。今言っても無理だろうな」

「そんな……。諦めるのは早いんじゃないのか、それは。学長室に行って交渉してみようぜ」

 俺は三〇一号室を飛び出した。

「それに……」如月は弥生に一瞬目を向けた。弥生は、口をもぞもぞと動かしていた。

「それになんだよ」

「いや……わかった。一応行ってみよう」

 如月は俺に続いて、部屋を出た。その後ろから弥生も重そうに足を運んだ。


 学長室は三五棟一〇一号室に構えている。扉は、他の部屋よりも若干の重厚感を帯びており、その上方には『学長室』と書かれた表札のようなものがあった。

「さてと、乗り込むか」

俺は後ろの二人に目もくれず、扉を豪快に開けはなった。

「失礼します!」

 扉を開けると、目の前に大きな木製の机が置いてあり、皮の椅子がその向こう側に鎮座していた。

学長はそこにはいなかった。

「どこいったんだ」俺は舌打ちをした。

「そりゃあ、今から殺し合いをするってんのに、その中に学長はいないだろうな」

 如月は学長室に入ると、周りを見渡した。壁際には本棚があり、今にも倒れてきそうなほど大量の本が貯蔵されている。

「早くしないと始まっちまうよ。あと二十分しかないじゃんか。とりあえず、学長がいそうなところは……」

「あのさ」俺の喋りを抑止するかのように、弥生が口を開いた。

「わたし、この《ゲーム》参加したいの。勝ちたいの」

「そうじゃなくて、今は学長を探さないと」俺は聞いていないふりをして続けた。

「わたし、欲しいの」声が大きくなる。

「睦月、聞いてやれよ」

「分かってるよ。分かってるけど。俺は、お前に、お前らに死んでほしくない」

「わたしは死ぬほど欲しいの」口調がさらに強くなっていく。

「俺らに、弥生を止める権利はないよ。誘ったのは俺たちだ」

『たち』というのにはいささか疑問を持ったが、たしかにあのときに自分が拒否していればこうならなかっただろうと思い、俺は拳を握りしめた。

「分かった。じゃあ、帰ろう。一六棟に」俺は何度か小さく頷いた。

 俺と如月には、弥生の欲しいものが分かっていた。それは、愛よりも現実的で、弥生がどれだけ欲しているものなのかは痛いほど知っているものだった。

 それは、体だ。


~~~


――グラウンド――


「とりあえず、ここから離れる。おい。いつまでそうしてるんだ」長月は断定的な口調で言い放った。

「葉月は」文月は必死に言葉を振り絞る。

「死んでる。見ればわかる」

「そんな言い方!」長月を血走った目で睨みつける。

「どんな言い方をしてもあいつは帰ってこない! いいか、そんな生半可な気持ちじゃ生き残れねえんだよ!」

 文月は、長月の今まで見たことのない表情に気圧され、葉月を支えていた腕の力が一気に抜けた。

「文ちゃん、行こう。殺しに」校舎の方を向いた。

「誰を」

「全員だ。他のチームと、この《ゲーム》を考えたやつらだ」

「『ら』?」文月は自分の耳を疑い、長月の言葉をもう一度脳内で再生した。頭に血が上っていた文月から、血の気が失せていった。

「そうだ」

「『ら』ってどういうことだよ。これを開催してんのは、学長なんじゃないのかよ」

 文月は葉月の亡骸を地面に倒し、立ち上がった。

「さあな」長月は校舎の方へ歩き出した。

「どういうことだよ」

文月は葉月に向かって合掌し、軽く頭を下げた後、長月の後を追った。

「まだ分からない。確証がないんだ」

「確証なんてなくたっていい。教えてくれよ」縋りつくように長月の肩をつかむ。

「しっ、静かに」

 長月は振り返り人差し指を口にあてた。

 足音がする。暗くて先が見えない。電灯を避けるかのように漆黒の人影が迫る。

「おい、どうすんだよ」

 文月は長月の腕をつかんだ。日も落ち気温が下がったにもかかわらず、つかんだ手はぬるま湯に浸した後のように濡れていた。

 長月は文月に腕をつかまれたまま、走った。グラウンドを出たその脇には灰色の古めかしい体育館がある。その陰に二人は身を潜めた。文月はいつまでも長月の腕をつかんでいる自分を気色悪く思い、勢いよく離した。

 足音が次第に大きくなってくる。文月は自分の心拍数が上がりすぎて、交感神経の異常な活発化によりおかしくなりそうだった。

「こんなとこでばれないか」文月は声を押し殺して言った。その言葉は徹頭徹尾細動している。

「静かに」長月はグラウンドの入口を見ようと、目を凝らす。

 足音が最大音量に達したとき、人影がグラウンドへと駆け抜けていった。それは、一瞬の出来事だった。待機していた時間の何分の一だろうか。

「今のは……」

「間違いない、彼だね」

「なんで、あんな勢いで」

「さあ。彼も気付いたのかな」長月は首を傾げ、自分の頬を撫でた。

 足音が遠くなるのを確認してから、長月は徐に立ち上がった。

「おい」

「行くよ」

「どこに」

「さしあたっては、学長室か。とりあえず、ここにいても埒が明かない」

 よし、と小さな掛け声をこぼし、二六棟の玄関口へ足を運んだ。文月は何も言えずについていくのがやっとであった。

 午後八時半。夜の帳が下りはじめた。


――三五棟一〇一号室――


 ただでさえ荘厳である一方、無機質な部屋である。さらに電気を点けていないのだから、牢獄にいるのではないのかと勘違いしてもおかしくはないだろう。そこに年ごろの女性が二人、それも相反する姿容を有する二人が、同じ罪を犯した囚人たちかのように窓際で肩を寄せ合っていた。

 窓の向こうには、左手の方から二つの男の影が近づいてきていた。直視は出来ない。窓のすぐ外側にはもう花は散ってしまったクチナシが茂っているからだ。二つの影は忍び足で、この学長室のすぐ隣の入口から三五棟に吸い込まれていった。

「分かった? 私の言った通りに動くの、あなたは」卯月が囁く。声というより息だ。

「あんたの言った通りって……あたし、ただ逃げるだけじゃない。あんたはどうするのよ」

「私はやることが残ってる。あなたは、逃げ切ることだけ考えて。ここがたぶん、最大の山場」

 卯月の額から汗が一滴、顎の方へと流れていった。

「この部屋を爆発させて、あんたはどうすんのよ。あんたも窓から逃げなさいよ」

 卯月は静かに首を横に振った。決して力強くはないが、意思を持って振っていた。

 皐月には理解はできなかったが、その頑なな態度に、納得せざるを得なかった。

「来る」

 卯月は窓を思い切り開け、皐月を外へ押し出すように背中を押した。皐月はその力に身を委ね、クチナシの中へ着地した。しっとりとした地面に足が食い込んだ。湿っぽい地面の匂いがした。皐月は反射的に窓の中を振り返った。

 窓を勢いよく閉じようとしていた卯月と目があった。彼女の口が動いたような気がした。

 しかし、皐月は幻覚を見たのだと判断した。なぜなら、卯月がそんな言葉を口走るはずがないからだ。

 ありがとう、なんて。

 卯月は窓の鍵を閉めると、学長の机の中へと身を隠した。一呼吸も置かないうちに、扉が開け放たれた。

「あんたの言った通りじゃない」皐月は背中を人差し指で這わされたような感覚が走った。

 部屋に入ってきたのは、角刈りの大男だけであった。

――二人の内、ここに入ってくるのは一人だけ――

 卯月の言葉がこだまする。

 卯月は窓越しに文月と目があった。文月が一歩、二歩と学長室の中に踏み入れた。

 このときを狙っていたかのように、卯月は机の中から手を出し、隠してあった三角フラスコを投げた。文月がそれを三角フラスコだと認識したときには、もう手遅れだった。

 フラスコが割れる音が聞こえた直後に低い爆音が鳴り響き、窓が悲鳴を上げるように軋んだ。爆風により扉は閉じ、閉じた扉に一秒程遅れて文月が背中からぶつかった。

 皐月は合成していたニトログリセリンが本当に爆薬になりえることに純粋に感心していた。その感心は胸の奥にしみわたる前に消え失せた。

 机の中に視線を移す。

「良かった」皐月は胸を撫で下ろした。

 机の下では卯月の影がもぞもぞと蠢いていた。皐月は窓を開けようと手を伸ばした。少しずつ、恐る恐る伸ばしていく。

 伸ばした手は窓に触れる前で止まった。

動き始めたのは卯月の影だけではなかったのだ。扉の前で座り込んでいた影が、冬眠から覚めた熊のようにのそのそと立ち上がった。

 それを知っていたのか、卯月は窓の外側にいる皐月に首を横に振って合図した。

 絶対に開けてはいけない、と。

 皐月は卯月の指令を拒否した。彼女と同じ首の動きをしながら。そして、手を窓に触れようとした。

 すると卯月は急に立ち上がり、机の下から体をさらけ出し、文月と対峙した。

「なんてもん作るんだ。化学系の人間ってのは大学生レベルでもこんなもん作れるんだな。感心したよ」

「感心?」

「そうだよ。物理なんて何にも役にたたねえから」文月は鼻の下を手の甲で擦る。

「そんなことどうでもいい」

「あんた、何が欲しくて参加したんだ? こんな意味のわからない《ゲーム》に」爆発による煤でなのか、ただ単に光が届かないからなのか、黒い塊と化した男が少女に語りかける。

「もういいの。私はもう欲しいものを得ることができたから」

 卯月は、右手に持っていたビニール袋を開き、空気中にばらまいた。白い粉がスノードームの雪のように舞った。ビニール袋には、赤い文字でアジ化ナトリウムと書かれていた。

 文月は何が起こったのか分からないまま、目を丸めて突っ立っていた。はっと目を見開いた。

「お前、まさかあの爆発は、爆風で扉を閉じさせるために……」声が出せなくなるのが体で感じられた。

「何やってんの!」皐月は凍りついていた手で、窓を叩いた。

「おいおい、無視はよくないな」そのとき背後から、黒く重い声がした。

 皐月は首だけを後ろに向けた。

 クチナシの向こう側に、闇の中で笑い顔がうっすらと浮かんでいた。気味が悪かったのはたしかだが、皐月には恐怖心はなかった。卯月から聞いていた通りだからだ。

――もう一人は、窓の外から来る――

「うるさい」皐月は右手に持っていたスプレー缶を長月の顔面目掛けて構えた。

「な……」

 皐月は長月が言葉を発するのを許さなかった。スプレー缶上部についている白い突起部を人差し指で押した。勢いよく飛び出した白い霧が長月の頭部を包む。

「がはっ」長月は咳きこみながら目を押さえて、その場でうずくまった。涙が滝のようにあふれ出た。拭えど拭えど止めどなく流れ続ける。

「クロロベンジリデンマノニトリル」皐月はつい何時間か前に卯月が自分に向けて言った口調で呟いた。

皐月は窓の中を一瞥した。

二つの影が、重なりあって倒れこんでいた。透明なはずの窓は巨大な壁に見え、その向こう側は異世界だった。

皐月は頬の内側を思い切り噛んだ。皮膚がちぎれる音がし、血が舌から喉に向かって流れこむ。

「ごめん」皐月は目を擦った。

長月が苦悶の雄たけびを上げている横を走り抜けた。

「ありがとう」の一言を残して。


***


「これで残り一チーム一人ずつか」

「うまいこと一人ずつになったもんだね」

 紺野は両手を噛み合わせて、伸びをした。そのままの体勢で欠伸を重ねる。

「卯月には期待してたんだけどな。あんな形でゲームオーバーするとは、予想できなかったな」

岩井は走らせていたペンを止めた。書くことを空でまとめているのだろうか、ペンをくるくると指で器用に回している。

「たしかに。こんな数時間で無感情に見えた彼女が、他人のために死ぬだなんて……」

 紺野の目は赤くなっていた。それは単に自然の法則に則っているだけなのかもしれない。一日中常時移り変わる二十四の画面を注視しているのだ。目に異常がない方が異常だ。

「無感情。そうなのか?」

「え?」赤い白目大きくなり、相対的に黒目が小さくなった。

「卯月は自分の表現の仕方が下手なだけだろ。まあ、そこがやつにとっては大問題なんだろうけど。感情はあったんじゃないか。ただ、それを伝える友達がいなかった。だから、欲しかったんだろ。死ぬほど」

「友達が欲しいか。なんだかかわいいね」紺野は左のもみあげを指で整えている。

「それが本人にとっては問題なんだよ。特に根は明るいのに表現力だけ乏しい人間は、辛いと思うぜ」岩井は手元のリモコンでクーラーの温度を一度上げた後、きっとなと付け足した。

 真夏の夜は、昼間の湿っぽい暑さとの差によるためか、油断をした服装のままではむしろ芯から冷える。そのため昔は、寝冷えがよくあったという。それがボタンひとつで室温を変えることができるようになり、人間の体に適した温度に調節できるようになったのは科学の勝利と言わざるを得ないだろう。

「それにしても、お前やっぱすげーよ。化合物までも忠実に再現できるんだな」岩井は黒革のデッキシューズを脱ぎ、椅子の上で胡坐をかいた。

「すごいのは彼女だよ。化合物の合成なんて出来るとは思わなかった。安心させてくれたよ。分子レベルでの再現がとれたし」紺野は即座に否定し、顔が紅潮した。

「いや、お前も十分すごい。すげーよ」手を叩き「ともあれ、終盤戦だな」と、自身に気合を入れるように声を張った。

「そうだね……。どう? 納得のいく結果は得られそう?」

「どうだろうね」靴下についた毛玉をつまみながら、生返事をした。

「何、それ」紺野は口をすぼめる。

「いやいやいや。まだなんとも言えないよって意味だって」毛玉をゴミ箱に投げ入れた。

「ふーん」紺野は冷めた目で岩井を見た。しかし、まだ毛玉に夢中な彼を見て、溜息をついた。

「さあ、誰が優勝しますかね」

 岩井は顔を上げ、自分の足を靴に戻そうとした。が、なかなか収まらなかった。岩井は夜になると足が浮腫むことを実感しながら、強引にねじ込んだ。

「で、優勝した人に本当にあげるの」

「何を」

「何をって。まさか! それはさすがにまずいんじゃないのか」

「大丈夫。俺の予想通りなら」

 紺野は、澄んだ瞳で見据えられた。中学生時代にも同じ目をしていた岩井を思い出した。

 クラス一のいじめられっ子がトイレで雑巾を投げられているところに殴りこんだときの目だ。そのときも彼はこう言って手を差し伸べたのだ。

「大丈夫」


***


――三五棟一〇一号室――


 低いうなり声を出し、伏せていた頭を首の力だけで持ちあげた。目をしばたたかせて、ゆっくりと瞼を開ける。

「あれ……」

 自分の思い描いていた光景とあまりにも違いすぎていたため、霜月は目を疑った。濃い闇に飲みこまれた部屋を見渡す。光といえば、窓の外から柔らかく入ってくる月光と、目の前のパソコンの画面だけだ。

「そっか」

 ――そんなに寝ちゃってたんだ――

 悪夢でも見ていたかのような気分になった。初対面の人間と殺し合いをしていたなんて、なにかの悪い冗談だろう。霜月はそう思い込もうとしたが、現実を否定できなかった。この現実を否定するために根拠を求めたが、皮肉なことに悪夢が現実であることを確証する証拠が湧いて出てくるだけであった。

 何も映っていない二つの画面、月明かりでうっすらと見えるどこかの部屋を映し出した一つの画面、後ろに横たわっている一体のロボット。

 これだけの証拠がそろっている中、控訴など出来るはずがない。しかし、そうなると足りないものがある。

「師走くん」霜月は名前を呼ぶと、立ち上がった。

「ようやくお目覚めかしら」

 霜月は後方からの声に体を反転させた。

暗闇でもよく映える黄色のノースリーブを着た自分と背丈の変わらない女性が体を少し右に傾けて立っていた。

「きみは」

 霜月はすぐに手をキーボードに伸ばした。その軌道上にはすでに皐月の手のひらがあり、それを遮っていた。

「動ける体じゃないと思うんだけど」

 霜月は、足から一気に力が抜けるのを感じた。倒れそうになり、地面に手を着こうとする。しかし、その手すら動かない。霜月は、マッチ棒が倒れるかのように体ごと地面に倒れた。

 声を出せないからか、霜月は喉の部分だけを動かして、何かを言おうとしている。

「あんたが何を言いたいか分かるわ。教えてあげる」

 皐月は倒れた霜月の横に座り込み、彼女の左腕を持ち、それを目の前に運んだ。

「ここ。塩化カリウムをここからぶち込んだってわけ」

 霜月の手首に残っている注射の痕を指さした。

 霜月は悟ったように表情を和らげた。にこりと笑った後、左胸を左手で握りながら叫んだ。嗚咽と絶叫の中、体を鞭のごとく床に打ちつけた。腰に巻いているベルトの金属音が鳴り響く。

「人体に最も注射してはいけないもの。塩化カリウム。打てば即心停止。これは、蘇生法で治るようなものじゃない」床に放り投げた注射器を見つめながら、卯月の言葉を繰り返した。

 霜月はのたうち回っている。最期の力なのか、必死に言葉を発しようとしている。

「はあ……苦し……だっれか……」

 荒々しい呼吸の合間に、何かの単語が混ざっているのを皐月は聞き逃さなかった。

「お母さん……」

 全身の毛穴という毛穴が開いていく。鳥肌が止まらない。口内から一気に水分が消えていく。

 もちろん、この金髪の少女の家庭事情など、皐月には知る由もない。どのような経緯で母親のことを死ぬ間際に思い出しているかなど、想像しても分かるはずがない。

 だが、死に際に母親のことを想う少女は本当に殺していい人間なのだろうか。

 皐月は法廷にいるような気分になった。

証人席に立っているのは、金髪のショートヘアの女性だ。その女性は泣きながら訴えるのだ。なんで娘が死ななきゃいけないんだと。被疑者席に座っているのは、自分ではない。学長だ。彼は何も言わずに深々と頭を下げるのだ。自分はそこにはいない。その世界に自分は存在しないのだ。

それ以上の想像をしないように、皐月は拳を隣の机に思い切りぶつけた。

霜月はすでに落ち着いていた。ヒステリックな叫び声も、断末魔の苦しみもそこにはもうなかった。呼吸する息遣いさえも。

「これでいいんだ」

 霜月の亡骸を横目で見ながら、皐月はパソコンの前に座った。もう迷いはなかった。


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