第三章
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如月はいつも俺の先を歩いていた。
最初に彼と出会ったのは、研究室に入ったときだった。つまり、今年の四月一日だ。
第一印象は、はっきり言って良くはなかった。彼は、土足で俺の領域に入り込んできた。初対面であることはお構いなく、挨拶を終えると質問の嵐だった。なんでこの研究室を選んだのか、将来の夢は何か、彼女はいるのか。正直、途中からはまともには答えていなかったと思う。
「そうなんだ。じゃあさ、出身高校は」如月はあからさまにうきうきしながら聞いてきた。
「たぶん、知らないよ」
「いいじゃん、いいじゃん教えてよ」
「春日部。春日部高校」
「あの埼玉のね! 知ってる知ってる。じゃあさ、あの子知ってる」
彼は、そこで弥生の名前を出した。一瞬言葉に詰まらせて「知ってるよ」と言った俺を見て、如月は澄んだ瞳で自分の予想を口にした。
「好きなんだ」
「な、なに言ってんだ」
「やっと、まともな反応してくれたよ」
如月は安堵の吐息を漏らした。今までの質問に対して全てまともに答えていなかったということを簡単に見透かされていたのだ。その上、俺が弥生のことを好きだということまで見抜かれた。
彼はいつも俺の先を歩いていたのだ。
それからというものの、如月と遊ぶとなると、毎回のように弥生がついてくるようになった。俺は単なる冷やかしだと思い、遊んではいたが弥生との距離を縮めようとはしなかった。彼の思う壺になるのがなんとなく気に食わなかったからだ。三人でカラオケに行ったり、彼の友達を交えて六人くらいでドライブに行ったりもした。
そんな生活が続いて、一か月のときが流れた。いつものように朝十時に研究室に到着すると、普段は十一時頃に来ている如月が先に実験していた。
「おはよう」
「おっ、きたきた。おはよう」俺を待っていたような言い草で、良からぬ予感がした。
「そうそう、今週の日曜って暇?」
やっぱりそれか。
「暇、だけど」
「よし。ならさ、あいつ誘って遊園地行こうぜ、遊園地」実験を止めて空いた手で俺の肩を叩いた。
「いいけど」
「けどってなんだよー」
この際だ。はっきり言っておこう。
「なんで、そこまでするんだ」
「そこまでって。どういうこと」悪意のないということが一目で分かる笑い方をするから、俺は余計に腹が立った。
「だから。なんで……」
「いいじゃん」俺の言葉を遮った。「楽しいんでしょ。なら、いいじゃん」
たしかにそうだった。反論は出来なかった。まぎれもなく、彼女といる時間は楽しい。
「はいはい。だから、いくよ。日曜。絶対空けとけよ」
如月は、俺を指さした。
その日曜日、結局三人で遊園地に行くことになった。弥生は、フリルがついた白一色のワンピースに包まれていて、ありきたりな例えかもしれないが、天使のようだった。
一通りアトラクションを楽しんで、テラスでチュロスを食べているときだった。如月の携帯が鳴りだした。彼はそれを取ると、席を外し少し離れた場所で話し、数分間話した後、席に戻ってくるなり荷物を持った。
「わりい、先輩からでちょっと実験に戻んなきゃいけなくなった。閉園までしっかり遊んでくれよな」
こちら二人の返答を待たずして、手を振り、去っていった。
残された俺らは目を合わせ、急に実験なんて大変だなどということを話した。しばらくして、弥生が観覧車に乗ろうと言いだした。俺はそっけなく返事をしたが、内心は当然うれしかった。やっぱり、彼女のことが好きなのだ。
「何気に二人だけって初めてかもね。高校時代も遊びに行くこともなかったよね」
そうだ。それが今二人だけで、しかも観覧車という閉鎖空間の中で向かい合っている。
「そうだな」
現実離れしたこの状況で何を話せばいいのか分からなくなった。普段通り話せばいいものの、俺の頭の中は気持ちいいほど真っ白になっていた。
「あのさ」
「ん?」
じっと見つめられると緊張が止まらなくなる。心臓が脈打っている音が聞こえる。自分の内側からの音なのにもかかわらず、聞こえてくる。手汗が湧き出てくるのをジーンズで拭くのだが、吸収するよりも倍以上に湧き出てくるために、意味がない。俺は唾を飲み込み、声を振り絞った。
「好きです。付き合ってください」
自分の言葉を疑った。緊張でおかしくなったのではないか。俺は慌てて訂正しようとした。
「はい」
今度は自分の耳を疑った。恐らく、自分の発した言葉からは夢もしくは幻覚なのではないかと思った。俺はジーンズ越しに太ももをつねった。涙が滲むほど痛かった。
翌日、如月を直接指導している先輩に「昨日はお疲れ様でした」と言葉を掛けると、先輩に「何も疲れてないぞ」と笑われた。如月の話は嘘だった。その後、如月を昼食に誘った。
「俺ら、付き合うことになった」
「やっとか。おめでとう。でもな、こういうことは飲みの席で言ってほしかったなー」
「お前にはいち早く伝えたかったから」
「なんで」
「感謝してんだよ」
如月は鼻の頭を掻いて、微笑んだ。
如月は、一度たりとも俺にとってマイナスになることはしていない。なのに、俺ときたら一方的に拒否しているだけだった。如月の純粋な善意を踏みにじっていたのだった。
今になってようやくわかった。
如月はいつも俺の先を歩いていた。気に食わないくらいに。でも、気に食わないわけではない。
ただ……それで、俺より先に死ぬのかよ。
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「ごめん」閉じ込めていた感情が溢れてきた。
「あいつはいつもそうだ」睦月は続けた。
「うん」弥生は、睦月の頭をゆっくりと撫でた。
「あのとき。あいつが時間稼ぐから先に行けって言ったとき。あいつ、笑ってやがったんだぜ。なんで……なんで、いつもあいつは」睦月は声が出ないくらいに嗚咽した。
「如月はそういう人なんだよ」
「あいつ分かってたんだよ。死ぬかもって」睦月は涙を自分の腕で拭おうとしたが、すでに次の涙が後を追ってきていた。
「うん」
「何のために。なんなんだよ、この《ゲーム》。ふざけんなよ。なんで参加しようなんて言ったんだよ。なんで、それを止めなかったんだ、俺は」拳を壁にぶつけた。
「そのことなんだけど……」弥生が考えながら徐に話そうとした。
「なんだ、あれ」睦月が急に目を瞠って呟いた。
弥生は自分の見解を続けようとしたが、睦月の目線の先を見て、やめた。
「なんだ、あれ」睦月は同じ言葉を繰り返した。
奥の方の部屋からもくもくと黒煙が吐き出されていた。
「ちょっと」
弥生は制止したが、睦月は煙の方に歩きだしていた。
――二四棟二〇五号室――
「これは」
惨劇を絵に描いたかのような光景だった。床は煤で覆われていて、一面漆黒の絨毯が敷かれているようだ。さらによく見ると、部屋の中は瓦礫がごろごろと転がっていて、足の踏み場もない。瓦礫は部屋一面にまんべんなく広がっている。実験台などがあったのだろうが、そのようなものは一切見られない。部屋の一部が爆発したというよりも、部屋自体が爆弾となって爆発したように思えるくらいだ。
扉は吹き飛んでいて、部屋の中は簡単に覗けた。睦月は消え去った扉から中を見渡した。
「なんだ、あれ」睦月は呟いた。
部屋の中央の絨毯が盛り上がっている。なにかが埋まっている。睦月は思わず、足を踏み入れた。なにか仕掛けがあるかもしれないと思ったのは、そのあとだった。しかし、もう止まらなかった。黒い膨らみまで脇目も振らず進んでいき、目の前でしゃがみこんだ。そして、煤を手で払い始めた。手で触れた感触は、金属のような感覚だった。何度か払っていくと、その姿が露わになった。
「これは」
「もう、なに入ってんの。危ないでしょ」
弥生が追いつき、顔を真っ赤にして怒った。
「ごめん。でも、これ見てくれよ」
「なに、これ」
おぞましいものを見るような目で凝視した。
白い巨体が横たわっていた。
「ロボット」
「まさか」弥生は、冗談だといわんばかりの表情だったが、次第に真面目な顔になっていった。
「見てみろよ、これ。よいしょっと」
睦月は、その白い巨体をひっくり返した。すると、逆側は白ではなく、赤色だということが分かった。しかもその赤が生臭い臭気を放ち、飛沫がかかったかのような塗られ方をしていることから、それが血だと判断するのは容易だった。
「うわっ」睦月はひっくり返した直後にその手を離した。
「なにこれ……動かない、よね?」弥生は体を引きながら訊いた。
「たぶんな」
確信はないが、恐らく動かないだろうと睦月は思った。全てが終わった後だということを部屋が物語っていたからだ。
弥生はロボットを跨ぎ、奥へと足を進めた。窓の方へ向かい、外の空気を吸おうとしたのだ。その途中、足に何かがぶつかった。足元に目線を移す。
「うっ」
弥生は急に部屋の隅の方に走り出し、床に向かって胃の中身をぶちまけた。
睦月からはその後ろ姿しか見えなかった。
「弥生、どうした」
瓦礫など気にせず駆け寄って、弥生の背中をさすった。
「大丈夫か」
「うっ、うん」弥生は泣き声で返事をした。
「急に、どうし……これは」睦月は自分の口を押さえた。
そこには頭部がぐしゃぐしゃに潰された死体が転がっていた。中身が出てきてしまっているのだろうか、傷口からは血に混じって灰色のような薄暗い色がマーブル模様に重なっていた。胴体部は、頭部とのギャップに驚くほど大きな傷がなかった。頭部に瓦礫が直撃したことが死因だというのは一目瞭然であった。着ている服は分からないが、身長が一七〇センチメートルは超えているだろうという推測とガタイの良さから判別するに、遺体が男性であるのはほぼ間違いないだろう。しかし、それ以上のことは想像の範疇を逸脱しえないものだった。
「死んでる、な」
「うっ」弥生は『うん』という二文字すら発することができていない。
「ひどい……だれがこんなことを」
こんな惨殺をやってのけるやつらと戦っているのだ。そう考えるだけで、睦月は全身鳥肌が立った。
少しの間、黙って弥生の背中をさすっていると、もう大丈夫とばかりに弥生は睦月の手首をつかんだ。
「とりあえず、ここを出よう」
今度は睦月が弥生の手を引き、二〇五号室を出ようとした。
足を廊下に踏み出そうとした。廊下に出ようとした右足は空中で止まった。止まらざるを得なかった。
「なんで……」
睦月の顔は絶望で満ちていた。生まれて初めて死を感じた。
「これって、さっきの」
そうだ。そこに横たわっているロボットが目の前に現れたのだ。後ろを振り向いたが、横たわっているままのそれを見て、目の前のロボットはそれとは違うということが理解できた。理解したと同時に、強い眩暈に襲われた。腰が抜けそうになる。
睦月は足に力を必死に込めて立ちなおし、ロボットを睨みつけた。
――三二棟一階一〇一号室――
「こやつらは……チーム春ではないか。なぜ、ここに」
防御用のロボットを動かして、様子を見にきたら思わぬ敵に出くわし、師走は純粋に驚いた。
「ちょうどいい。殺そうよ。もう早く終わらせよう、こんな《ゲーム》」霜月は、目を閉じていた。目尻に皺が寄るほど強く、目を閉じていた。
「しかし……まあ、そうじゃな……お主らが神無月殿を殺めたわけではないことは承知の上だが、許せ」画面の向こうには決して届かない言葉を発して、ロボットを動かした。
もちろん、ここで戦うのは得策ではなかった。というのも、当然のことながら、防御用のロボットを動かしているのだから、現在二人は何にも守られていない。今、攻め込まれたら、勝てる見込みはゼロだ。現場を見たらすぐに戻ってくる、というのが当初の案であった。提案したのは霜月だった。目的はいくつかあるが、動かなくなったロボットがそうなったのか、もし、ある程度修復可能のようならば持ち帰り修理に取り掛かろうというものだった。当然、製作者の神無月がいない今、修理など出来るかは分からないが、戦力がなければ戦えない。一縷の望みでも縋りつかなければ、このゲームでの生存率は上がることはないのだ。
「でも、やっぱ戦いたくないよね。どうしよっか」
霜月はアヒルのように唇を尖らせた。
「拙者もそう思うのだが……なんじゃ、これは」
師走は自分の目を疑うように目を擦り、画面に顔ごと近寄った。
黒と白のチェックのワンピースの女性が両手を横に広げ、こちらを向いている。その目には大きな決意が刻まれているように見えた。いや、決意というよりも確信と言った方が正しい。
――なんじゃ、この威圧感は――
相手にしているのは女性で、こちらはロボットを操作しているだけなのにもかかわらず、画面越しに自分自身が睨まれているような感覚を覚えた。睨んではいるものの、殺意は感じられない。全てを見透かしている、透明な視線だ。
師走は恐怖でキーボードを叩く指を動かせなくなった。
――二四棟二〇五号室――
「弥生」
睦月は、自分の前に突如立ち上がった彼女の名前を呼んだ。そして、ロボットに対して手を広げて自分を守っているような弥生の姿勢に戸惑い、焦りを感じた。
「わたし、分かった」弥生は依然、ロボットと向き合ったままで睦月の方を向こうとしない。
「何をだよ」
「全部」振り返り、今までにない笑顔を見せた。こんな表情は見たことがなかった。睦月は、この上ない焦燥感に駆られた。
「全部ってなんだよ」弥生の肩を鷲掴みした。
「全部」
弥生は右手に持ったバタフライナイフを睦月のジーンズのポケットに押し込んだ。如月から受け取ったものだ。
「これ。お前がもらったもんだろ」
返そうとジーンズのポケットに手を突っ込もうとしたが、その手を弥生が止めた。そして、首をゆっくり横に振り「まだ、《ゲーム》は続くから」と囁き、再びロボットと対峙した。
「何言ってんだ、おい」
睦月は手を伸ばした。しかし、その手は弥生に届くことはなかった。
ロボットは、弥生の頭を片手でつかみ、持ち上げた。弥生は無抵抗だった。
「何すんだ、この野郎」
睦月は、ロボットに飛びかかろうとした。すると、無抵抗にぶら下げていた弥生の右腕がそれを止めた。
「逃げて。今は逃げるの」
「お前を見捨ててなんて」
「いいの」弥生はかすかに笑った。
「よくねえよ! 一番愛してる人を残して逃げるわけねえだろ!」
「言葉にしてくれて、ありがとう。わたしも一番……」
睦月が弥生の言葉の続きを聞くことはなかった。
ロボットは振り上げた手を予想だにしない速度で振り下ろした。弥生の頭は床にたたきつけられ、一メートルほどの大きなバウンドをした。数回のバウンドを経て、完全に着床した。
ぐったりとした弥生を見つめ、睦月は声にならない声で発狂した。
――三二棟一〇一号室――
霜月は、キーボードを叩けなくなった。ついさっきまでは、動けなくなった師走からパソコンを奪い踊るように叩いていたにもかかわらず、ここにきて止まってしまった。
「し、霜月嬢」
師走は後ろから呼びかけた。反応はない。今度は近づき、肩に手を置いた。やはり反応はない。ゆっくりと顔を覗いた。霜月は、瞬きを一切しないまま一筋の涙を流していた。
「なんで」霜月の口が動き出した。
「なんで。もう、やだよ。ぼく、もうやめる。ぼくは命に代えても欲しいものはある。でも、だけど、他人を殺してまで欲しいものなんかない。こんなの望んでない」キーボードの上に突っ伏した。
師走は、なにも言葉を掛けず、霜月の背中にそっと手を置いた。霜月は、一瞬顔を上げた。そして再び突っ伏した。
――二四棟二〇五号室――
一分ほど叫び続けた。叫んでいるうちに、様子がおかしいことに睦月は気付いた。
ロボットが微塵も動かないのだ。
最後のチャンスかもしれない。睦月は弥生を背負って廊下に飛びだした。そして、一目散に廊下を走った。走りながら、愛する人が殺されたときでも、客観的に物事を判断できる自分を非情だと思った。
***
「どうなった」
岩井日向は扉を開き、スクリーンに映し出された、縦に四つ横に六つの列をなして並べられた二十四の画面を凝視している紺野輝幸の背中に呼び掛けた。
「弥生が死んだ」
「でも、なんか誰かに担がれてるみたいだけど」
「睦月に担がれてる。彼はまだ生きてるって思ってるけど、ほら」
紺野は、十二の心電図が並んでいるものの左から三番目を示した。
「これは死んでんな。これで残り八人か。彼女はもっといいとこまで行くと思ったけどな」
「なんか、でも、様子がおかしかった」
「というと」
「うーん。いや、気にしないで」
「なんだよそれ」岩井は眉間に皺を寄せた。
紺野は、わきに置いた缶コーヒーを手に取り、一口飲んだ。
「学長の様子はどうだった?」
「どうってことはない。この《ゲーム》自体にはそんな興味はないっぽいしな。学長室でなんかの書類を書いてたよ。まあ、これがうまくいきゃあ大学的にも大ニュースだしな。そしたら、紺野、お前は英雄だな」岩井は親指を上に向けて突き立てた。
「僕にとっても、この《ゲーム》自体はどうだっていいんだ。今のところ、大きな問題はなさそうだし。それと、別に英雄になんかなりたくない」紺野は細く長い息を吐いた。
「英雄になりたくないのか。変な奴だな。有名になれるんだぜ。うらやましいよ。お前が死んだときに多くの人が悲しむんだ。でさ、多くの人の心の中で生き残ることができるんだ。いいじゃねえか」
「そうかな。僕は、多くの人の心の一部で生き残るよりかは、一人の心の全部で生き残りたいから」
「ま、そういう生き方もあるよな。にしても、この《ゲーム》、すげえ勉強になる」
岩井は一時目を鋭くとがらせ、真剣な表情を見せた。だが、それはあくまで一時的なもので、すぐに崩れた。
「で、お前はどこが勝つと思う」
「はあ。わかんない」
「わかんないじゃ、賭けになんないだろ」
「賭けんの」紺野は目を真丸にした。
「わかったよ、もう。賭けなくてもいいよ。予想だよ、予想」
「うーん……秋かな」
「そりゃ今一番生存者が多いからな」岩井は手を叩いて笑った。
当然だろという岩井の仕草に、紺野は言わなければよかったと深く後悔した。
「じゃあ、岩井はどうなんだよ」紺野は赤みがかった頬を少し膨らませた。
「俺は、夏だな」
「なんで」
「なんとなくだ」
「なんだ、勘か」
「ばかだな、勘がどれほど大切か分かってないな。『理』ではカバーできない部分を『勘』は埋めてくれるんだよ」ちっちっと言いながら、指を横に振った。「それに、勘って言ってもある程度の根拠はある」
「何?」
「卯月だね。彼女は魅せてくれるよ」
「それも勘?」
「勘だ」岩井は頷いた。
***
――二一棟二〇一号室――
二〇一号室に入ってから、睦月は弥生をどこに寝かせようかと頭を巡らせた。相当な距離を全力疾走したので、頭に酸素が回らない。けれど、必死に頭を働かせた。実験台の上で寝かせるのもなんなので、一度椅子に座らせ、実験器具が入っていたと思われる段ボールを解体し、広げた。
「待ってろよ。今すぐ楽な姿勢にしてやる。もう少しだ。少し待ってくれ」
声の震えを必死に押し殺した。しかし、押し殺そうと意識するあまりに余計に声が震えてしまっている。自分の顔を叩く。そして、段ボールの上の埃を手で払い、弥生をその上に寝かせた。
「おい、弥生。しっかりしろ」
頬を撫でる。が、全く反応がない。手を弥生の口にかざす。手には僅かな風さえも感じなかった。呼吸はもうしていなかった。
「冗談だろ、おい。なんか言えよ。言わなきゃわかんねえだろ」
もう声というより顔自体が震えている。今度は押し殺そうと意識すらしていない。
「目、覚ませよ」
睦月は両手で弥生の頭を包んだ。そして、その小ささに戸惑った。
戸惑いながら、睦月は弥生の頭を自分の胸に押し当てた。
「ごめん」
睦月は唇を噛みしめた。そして、彼女の頭を強く抱きしめた。壊れてしまうかもしれないと思うくらいに強く抱きしめた。
「ごめん。ごめん」
額から流れ落ちた汗なのか、目から流れ落ちた涙なのか、弥生の顔に液体が伝った。
――二三棟二〇一号室――
卯月は、ビニール袋に様々な薬品を詰め込んでいた。皐月はその隣で卯月の言うとおりに、薬品の名前をその袋にマジックで記入していった。
「こんな量本当に使うの」皐月は袋の山を見て、疑わしい目をした。
「使うかは分からない。あったら役に立つかもしれないからってだけ」
答えを聞くと、皐月は黙って仕事に戻った。
二人の間にほとんど会話はなく、たまに皐月が質問し、簡単に卯月が答える、というループの繰り返しだった。
「これは赤字でいい?」受け取ったビニール袋の口を結びながら、卯月に質問した。
「そう。劇物は赤字。それ以外は黒。それは特に使えそう。アジ化ナトリウム」
「げ。あのミリグラム単位で吸ったら死ぬってやつじゃん」
皐月は手のひらで持っていたビニール袋を指でつまむようにして持ち替えた。
皐月が赤のペンを机の上から取りビニール袋に書こうとしたそのとき、急に廊下の方から激しい足音が聞こえてきた。
「こっちに向かってる」
卯月は黙って頷いた。
足音はスピードを落とすことなく、近づいてくる。もうすぐそこまで来ている。皐月は心臓の高鳴りが聞こえた。呼吸も上がってきている。思わず、口を開いた。
「どうする」
卯月は黙って首を横に振った。
部屋の窓を見た。すると、足音が最大になるとともに人影が左から右に物凄い速さで駆け抜けて行くのが見えた。
「なに、今の」
卯月は黙って首を傾げた。
――三二棟一〇一号室――
師走は霜月の背中をさする手を止め、思考を巡らせていた。
――この《ゲーム》とやらは、いったい何が目的なのだ。勝者に欲しいものを与えるのが目的なのか。恐らく、否。思うに、殺し合いをさせること自体に何か意図があるのだろう。しかし、生徒同士を殺させて何が楽しい。そもそも、目的は単なる観賞なのであろうか。自らの享楽のために行っておるのか。解せぬ。そういえば、学長殿はどこにおる。外で監視でもしておるのか。いったい、なんなのじゃこのゲームは。殺さない限り、己は生き残れない。生き残るために他者を殺める。そして実際に、非日常的なこのゲームに皆は学長の思うままに殺し合っておる――
師走は、何か違和感を抱いた。自分の思考の内に、だ。自分の思考に違和感を抱くなんて疲れているのかと思い、師走は霜月の隣の椅子に座った。座ると同時に、普段の研究室の光景が目に浮かんだ。論文を読んでいる自分の横では直接指導をしてもらっている修士二年の先輩がシミュレーションを行っている。走査型ナノピペットプローブ顕微鏡の開発を研究テーマとしている方だ。そして、その奥では自分の同期が昼飯を食べている。いつもの光景なのに、頭がしくしくと痛む。自分の頭の痛みはお構いなしに、同期は昼飯を依然として食べている。
――昼飯……そうか。我々は日常的に殺しを行っておるではないか。自らの生のために。豚や牛を殺して食す。誰もが行う行為である。相手が人でないから意識していないだけで、我々は生きるために殺しておる。同じではないか、この状況と。自分が生き残るためには殺さなければならない。近頃は、豚肉や鶏肉も既に殺されバラバラにされ調理される寸前の形でスーパーの棚に並べられておるから気付かないだけなのじゃ。誰も殺されている姿を想像して食事はしない。もっとも大切な部分を隠しておる。己らの都合のいいように。普段から殺しを行っていたのだ。だが、だが、それは決して今他人を殺していい理由にはならないはずだ。拙者はいかようにすればよいのだ――
師走は迷走していた。自分の生きてきた人生を根底から否定されているような気分に押し潰されそうになり、強い眩暈に襲われた。頭がいつもより重く感じる。重力をこんなに意識したのは初めてだった。
苦しさのあまり、師走は席を立った。そして扉を開き、左手にある玄関口に向かい外に出た。綺麗な夕焼けだった。日はもう落ちかけていた。目を閉じて深く息を吸う。空気を吸っているはずなのに、重い。吸っている途中に咽てしまい、ごほごほと咳きこんだ。目を開ける。目を閉じる前よりも心なしか、日が落ちている気がした。もちろん、そんな数十秒で日が落ちることはないということは分かっている。首から下げた懐中時計を手に取り、見る。
――もう、六時か。そろそろ、霜月嬢のもとに戻るとするか――
七時間が経過したことよりも、残り十七時間しかないということの方が、師走にとって気がかりであった。
――拙者は、果たして手に入れることができるのだろうか――
師走はゆっくりと目を瞑った。
~~~
小学校に入学したときだった。人見知りが人一倍激しかった僕は、入学式が終わり自分の教室に戻ってから割り振られた席でじっとしていた。周りはすでにグループがいくつかできていて楽しそうに会話していた。特に羨む気持ちはなかった。もちろん、全くなかったわけではない。ただ、焦りや不安などはなかったのだ。ひたすら周りの音をシャットダウンして早く先生が来ないかと念じていた。
「私、吉田早苗。よろしくね」
急に隣の席に座っていたポニーテールの女の子が話しかけてきた。
小学生の時点でほとんど完成しているような整った顔だった。小動物のような目は、そのかわいさを助長させていた。
「よろしく」僕は最低限の四文字で返した。
無愛想な返答に対して、彼女は笑顔を返してくれた。
翌日からというものの、彼女のおはようの挨拶から始まり、じゃあねの挨拶で終わる一日の繰り返しだった。彼女は誰に対しても明るく接していた。太陽のような笑顔とは、ああいうのを言うのではないだろうか。一方僕はその真逆であった。だからといって、教室でいつも一人だったというわけではない。話しかけられたら答えるし、遊びに誘われたらそれを受けた。しかし、自分から誘うようなことは一度もなかった。それに遊びに誘われると言っても、サッカーや野球の人数合わせであることは見え透いていた。要するに、まともに友達と呼べる人はいなかったのだ。何か授業でグループを作るように言われたときに、僕は毎回のように残った。そんなとき、いつも彼女が呼びかけてくれた。その度、周囲は首を傾げた。なぜ、あんなに明るい子があんな暗い子を自分のグループに誘うのか、と。それは周囲に限らず、僕にとっても疑問であった。幸い、というのか分からないが、彼女とは小学校生活六年間同じクラスだった。一学年四クラスあり、二年に一回クラス替えがあるにも関わらず、同じクラスであり続けたのは、何かの縁を一方的に感じてしまうほどであった。
小学校を卒業すると、僕は地元の公立中学校に進学し、彼女は私立の中学校に進学した。僕の中学生活は、暗黒そのものであった。部活にも所属せず、帰ってくるなり、テレビゲームやネットゲーム、PCゲームに明け暮れる日々であった。当然、友達など一人もできなかった。それどころか、小学生時代には受けなかった、いじめを受け始めた。「ネクラ」や「キモイ」などと罵声を浴び、校舎裏に呼び出され暴力をふるわれたりもした。最終的には、僕が何を話しかけても誰も応えてくれなくなった。『無視』だ。生きている意味など見出せなくなっていた。その上、中学二年生のときに僕を産んでくれた母が死んだ。ガンだった。父は絶望で痩せ細り、ひたすら仕事に明け暮れた。幸いギャンブルや酒に溺れたりということはなかったのだが、父と顔を合わせる機会は極端に減った。一人っ子だった僕は、誰とも会話しなくなった。自分には生きる価値などあるのだろうか。何もかもに無気力になり、学校に行かなくなった。完全に人と会わなくなった。僕は余計に苦しくなった。限界だったのだ。苦しさの余り、ある夜ネットゲーム上のキャラクターでコメントを打った。
「苦しい」
自分の操作している勇者が呟いた。すると、さっきまで一緒に戦っていた剣士や魔法使いが自分から遠ざかっていき、マップ上から消えた。
これで終わりか。
僕は、机の上に置いておいた出刃包丁を右手にとり、左手首に当てた。
――母さん、今行くよ。ごめん、父さん――
目を瞑り、包丁を握る手に力を入れた。
ポン。
パソコンから音がした。目をあける。すると、そこにはもう一人の勇者が立っていた。
「僕も」
この一言は僕にとって、聖書にあるどんな言葉よりも救いの言葉だった。僕は、すぐに出刃包丁を机の上に戻し、コメントを返した。
「久しぶりに人と話した。救われたよ」
「僕も救われたよ」
「生きるのに疲れてて」
「僕もそうだよ。何もかもがいやになって」
「どうかしたの」
「自分のやりたいことを誰も理解してくれないんだ。親も先生も。こうした方がいい、ああした方がいいって言うんだけど、僕がやりたいのはそんなんじゃないんだ。でも、僕を思ってなのかもしれないけど、やっぱり彼らは否定するんだ」
「そうなんだ」
「君はどう思う。僕はどうしたらいいかな」
ついさっきまで死のうとしていた男に人生相談とは、なんて不運な勇者なのだと思いながらも、僕は久しぶりの人との会話に心躍り、即答した。
「そんなの決まってるよ。自分のやりたいようにやればいい。だって、自分の人生なんだから」
どの口が言うと自分で笑ってしまうような台詞だった。しかし、勇者からの返答は予想外だった。
「ありがとう。勇気出た」
「そう。良かった」
「君は、勇者ってよりも、侍みたいだね」
会話はそれだけだった。その後、ネットゲーム上で彼に会うことはなかった。
翌日、僕は久々に登校した。すると、廊下を歩くだけで異様な目線を集めた。それは、単に不登校の人間がいきなり登校したから、という理由だけではない。
僕は、袴をはいて登校したのだ。僕は『侍』になりきったのだ。教室につくと、やはり忌避の目で見られた。それでもよかった。僕を見てくれている。僕を僕として認識している。それが純粋にうれしかった。
「おい、お前、気でも狂ったのか」
いじめっこがからかい半分で訊いてきた。
「気が狂ってなきゃこんな格好しないでしょ」
僕がそう答えると、教室中が爆笑の渦に巻き込まれた。
「お前、意外に面白えな」
その日以降、教師には毎日注意されたが、袴をはいて登校した。僕は一転、頭のおかしな人気者になった。
僕は勇者に感謝した。
学校にも通うようになり、僕の学力もそこそこというところまで伸び、公立高校に進学できた。さすがに高校生活では、袴ははかなかった。もうはかなくても、普通に会話することができるようになったのだ。その後テニス部に入り、充実した高校生活を送っていた。
高校二年生の冬になると、大学受験に向けて受験勉強を始めた。ただ、勉強だけに集中するのが苦手だったため、ラジオを聞きながら勉強するのが僕の習慣の一つだった。その日もいつも通り、深夜ラジオを聞きながら勉強していた。
「では次は、『トレンドとれんの!』のコーナーです。では、美緒ちゃんコーナーの説明よろしくー」
「はーい、近藤美緒です。この『トレンドとれんの!』というコーナーなのですが、何をするのかというと、最近流行りのものや人を紹介して、それについて私と石田さんが掘り下げまくっていこう、というコーナーです」深夜のテンションでのコーナー紹介はいつものことだ。
「掘っちゃうぜー」
「さて、今日なのですが、ここ最近巷で大旋風を引き起こしているアイドル、吉田早苗さんに来ていただきましたー」
「吉田早苗だって」僕は飛びあがった。持っていたシャープペンシルは空を舞った。
「さあさあ、こちらへ」
「こんばんは。吉田早苗です」
間違いない。彼女だ。忘れるわけがない。六年間挨拶され続けたのだから。
「さあ、簡単に経歴を紹介させていただきます」
近藤美緒の言葉は頭に入ってこなかった。
――アイドルか。彼女らしい――
無意識に微笑んでいた自分を気持ち悪く思った。
「最近、テレビでも拝見することがよくありまして、この前なんかゴールデンタイムにも出てましたよね。いやー、すごいですよ」
「いやいや、まだまだですよ」
「ご謙遜をー。でも、実は早苗ちゃん、大病を患っているという話を伺ったんですが」
呼吸が止まった。
「大病と言うよりは、少し珍しい病気ってだけですけどね」
「でも、なんか脳内に腫瘍ができていて、いつ破裂するか分からないみたいな、そういう病気でしたよね」
後ろの方で、近藤美緒がわざとらしく息を飲む音がした。
「正確には、腫瘍ができ続けるって病気なんですけど、だいたいそんな感じですね」
なんでそんなに明るいんだ。彼女の底抜けの笑顔を思い返す。
「いつそれが破裂するか分からないってことですよね。いつ死ぬか分からないなんて怖くないですか」
「それは、みなさんも同じじゃないんですか」
吉田早苗は笑いながら言ったが、その言葉は真理を矢のごとく射抜いていた。そして、彼女は続けた。
「自分のやりたいようにやればいい。だって、自分の人生なんだから」
「はあ」石田は呆気にとられていた。
「侍の勇者さんからの言葉なんです」
「きみだったのか」
僕はイヤホンを外し、着替えもせずスウェット姿で家を飛び出した。向かった先は、ラジオを収録しているスタジオだった。電車で十分かかる距離を自転車で十五分かけて辿り着いた。僕は息を切らして、出演者を出待ちしている群衆に紛れた。ちょうどそのときだった。吉田早苗が放送局から出てきた。出口前にはタクシーが待機していた。出口からタクシーまでの距離は数メートルだった。吉田早苗はゆっくりとタクシーに向かっていく。ファンからの熱い声援が飛び交う。僕は、叫ぼうとした。しかし、何と声をかければいいのだろうと束の間、考えた。この一瞬の躊躇いが一生の後悔を生んだ。声を上げようとしたときにはすでにタクシーの中に彼女はいた。
僕はすぐに自転車に乗った。彼女の家ならばまだ覚えていた。全力でこいだ。信号を幾度も無視した。
彼女の家の前に着いたのは十分後くらいだった。
もう家に着いたのだろうか。
インターフォンを押そうとした。そこでまた躊躇った。こんな夜遅くに悪いのではないか。指が止まる。すると、左の方からエンジン音がした。ヘッドライトが目に突き刺さる。手を目の上に翳す。目を凝らすと、それは先ほどのタクシーだった。家の前に停まると、運転手にお礼を述べて彼女がおりてきた。その成長した姿を見て、小学生のときの可愛らしさに加え、大人の色気を兼ね備えかけている、まさにダイヤモンドの原石だと感じた。タクシーは颯爽と去っていった。彼女はそれを見送ると、家に向かおうとした。そして、僕と目があった。それと同時に彼女の目が丸くなった。
「えっ、もしかして」僕の名前を呼んだ。
「そう」
「びっくりしたー」驚きながら笑っている、不思議な表情だった。
「一つ、ちゃんと伝えたくて」僕は姿勢を正した。
「えっ、何?」
「ありがとう」僕は体が折りたたまれるほど深くお辞儀をした。五秒ほど停止して、顔をあげた。
彼女は顔を真っ赤にして笑っていた。僕が驚いていると、彼女はごめんごめんといって、姿勢を正した。
「いや、こちらこそ。ありがとう」彼女も僕に負けない角度でお辞儀した。
僕は余計に混乱した。彼女には救われているだけなのに。
その表情を見て、彼女は再び口を開いた。
「侍の勇者さんでしょ」
「なんで」浮かんだ言葉が脳を介さず、そのまま口から出てきた。
「なんとなく」今度は小さく微笑んだ。
「本当にあの一言には救われたんだよ。『自分のやりたいようにやればいい。だって、自分の人生なんだから』この病気のこともあって、なかなかこの仕事許してくれなかったけど押し通しちゃった」彼女は自分の頭に指を当て、また微笑んだ。
――でも、僕もそれ以上に感謝してるんだ。自殺しようとしてた僕を君は救ってくれた。今生きているのは紛れもなく君のおかげだ。本当にありがとう――
言葉は脳内で出来あがっていた。あとは、それを言葉にするだけだった。
しかし、次に僕の口から出てきた言葉は、それとは全く違った。
「おい! どうした!」
僕は目の前で急に倒れた少女を抱きかかえた。
「おい!」
「君は侍だよ……」彼女は目をゆっくりと閉じた。
数分前に押すのを躊躇っていたインターフォンをすぐさま押した。何度も何度も押した。しばらくすると、寝ぼけ眼で彼女の母親が出てきた。僕が事情を説明する前に、母親は叫び出し、それにつられて父親が出てきた。父親は冷静に僕の話を聞くと、すぐに救急車を呼んだ。僕は搬送先の病院を聞き、自転車で向かった。
五時間に及ぶ手術の末、彼女は死んだ。彼女の母親は、僕を責めたてた。当然だと思う。僕が親なら、そうしているはずだ。全てを受け入れ、受け止めた。父親の方は、僕を責め続ける母親を制してくれた。強い人だ。そう思った。
その翌日からだ。拙者がこのような話し方をするようになったのは。そして、このような格好をするようになったのは。彼女はもっと前から拙者が勇者だということを気付いていたのだ。拙者がもっと早く気付いておれば。タクシーに乗る前に話しかけていれば。より伝えられたかもしれぬ。いつも遅いのだよ、拙者は。
無念じゃ。本当に大切なものを守れないのは。
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師走は、閉じていた目をゆっくりと開けた。瞼は重く、固い意志がなければ開くことはできなかった。持っていたままの懐中時計を見た。さほど時間は経っていなかった。
生暖かい風が頬を撫でた。
「早苗……」
師走はうわごとのように呟くと、ゆっくりと振り返った。懐中時計が手から滑り落ちた。驚愕のあまり、全身の筋肉が硬直した。
戻ろうとした三二棟の入口に人が立っていた。こちらを見ている。そして、その手にはナイフを持っている。
間違いない。さっき見たばかりの男なのだから。間違いない。
睦月だ。
――一六棟一〇二号室――
葉月はキャスター付きの椅子に足を組んで座っていた。外では文月と長月が如月の遺体を一六棟の裏側に運んでいる。じきに戻ってくるだろう。ふと、如月の言葉が蘇る。彼もこのゲームが単なる学長の趣味とは思えないと考えていた。もっと彼の見解を知りたかった。でも、それはもう叶わないことだと分かり、少し陰鬱な気持ちになった。おかしな話だ。勝利が近づいたというのに悲しんでいる。
「終わった」
仕事を終えた二人が帰ってきた。
「そう。ありがとう」
「どうした。顔色が悪いぞ」文月が、葉月の顔を見るなり問いかけた。
「そうかしら。目の前で人が死んだのだから当然かもね」
「まあ、そうか。不躾な質問をして悪いな」文月は軽く頭を下げた。
長月は一言も発さずに顎に手をあて、何か物思いに耽りながら葉月が座っている椅子の三つ奥の椅子に座った。
「それにしても、なんなのかしら」
「何が」
如月と同じ質問をしたので、一瞬葉月の心臓は短く鼓動した。
「このゲームの意味」葉月は同じように答えた。
「たしかに。俺も考えてた。けど、全くもって意図が見いだせない。まず思いたのは、大学内の人材の選定。でもそれはおかしな話だ。最後のルール、二十四時間たって二チーム以上残っていたら全員殺すんだろ。それじゃあ良い人材を選びたいからってのは理由にならない。だからって、殺し合いさせるのをただ見たいだけだったら、別に大学でやることはない。どっか遠くの無人島かなんかで無制限に殺し合いをさせればいいだけだ。それに、どうして命と引き換えにでも欲しいものがあるやつらを参加条件にしたんだ。別にそんなことしなくても、ランダムに人数を集めて殺し合わせればいいのに。考えれば考えるほど分からない」文月は葉月と長月の間の椅子に座り、目線を床に落とした。
「そう。わたくしも同じことを考えていたわ。でもね、このゲームには一つ大きなルールがあるのよ」
「なんだ。このキャンパスから出れないとかか」
「違うわ」
「殺さないと生き残れない」無言を貫いていた長月が突然口を開いた。
「そう。自分が生き残るために、他人を殺せるか。試されてるのよ、わたくしたちは」
「なるほど……でも、何のために」
「それが分からないって話をしてるんじゃないの」
「文ちゃん、それは良くない質問だよ」
二人があまりにくすくすと笑うので、文月は穴があったら入りたいくらいの気持ちでいっぱいになった。
「長月は、何か思い当たる節でもあるの」葉月は訊いた。
「……いや。ない」長月は唸りながら答えた。
「何よ、もったいぶらないで話してよ」葉月は体を前に傾けて、文月越しに長月を覗きこんだ。
「うーん」
「確証がないときには断言しないのか」
「文ちゃん。良く分かってるじゃん」
「だから、その呼び方は……」文月は続けるのを諦めた。
部屋内は橙色で満たされている。夕日はもうほとんど沈みかけていた。長月は左手首につけたロレックスの腕時計を一瞥した。午後六時半。ゲーム開始から七時間半が経過した。
「さてと、いきますか」長月は重そうに腰を上げた。
「どこに」
「殺しに」長月は窓の外を向いている。
「生き残るためにね」葉月は訂正した。
「正当化すんなよ」
長月は意地の悪い笑顔を浮かべた。
――三二棟前――
夕日がナイフに反射して少し眩しいが、そのナイフを所持しているのが誰なのかを判断するのは容易なことだった。
「睦月殿」
「良くご存じで」
目が血で滾っている。師走は思わず後ずさりした。目の前に立っている男は確実に自分を殺しに来る、逃げなければならないと分かっているものの、足が固まって動かない。蛇に睨まれた蛙の気持ちが痛いほどによく分かった。真の恐怖は、叫び声さえも奪う。口の中に唾がたまっていくのが感じられる。けれど、それを吐き出したり飲みこんだりさえもできない為、ただ溜まっていくのを鎮座して待つことしかできない。このまま息ができなくなり、死ぬのではないかと思った。もはや、どうせ死ぬのだからそうやって死ぬのも受け入れられる、そんなことさえ脳裏をかすめた。睨みあい、というより一方的な睨みは数十秒ほど続いていたが、突如男は二歩ほど前に踏み出してきた。
「お前、機械科だよな」
師走は、黙って肯定した。
「お前が、弥生を殺したんだよな」
師走は黙った。霜月の泣き顔が浮かんできた。すぐに師走は肯定した。
「大切な人を殺されたんだ。お前に。だから、俺はお前を殺す権利がある。そうだよな」
質問でも脅迫でもなかった。どちらかというと拷問に近い。
「拙者が死んだら、霜月嬢一人か」
師走は呟き、自分の不甲斐なさに呆れた。
――いつも、そうなのだ。気付くのが遅い。遅すぎるのだ。あのときから、自分は何も変わっていない――
早苗の死に顔と、霜月の泣き顔が重なり合う。当然、別人なのだから一致するはずがない。しかし、師走の脳内では寸分の狂いなく完全に一致した。
「でも、今はあのときとは違う」
師走は声を張り上げた。目を広げ、両手を空に掲げてから、発狂した。その叫び声にはなぜか笑い声が混ざっていた。
睦月は、急に叫び始めた師走を冷えきった目で睨みつけ、バタフライナイフを振り上げて飛びかかった。師走は脇差を腰から引き抜き、それを受け止めた。高い金属音が鳴り響き、二人は競り合った。
「あのときとは違うのじゃ」もう一度叫んだ。
「それは俺に対する言い訳か。そうだとしたら、意味がないからもう叫ぶな。一番好きだった人を殺された気持ち、お前に分かるか」
師走の脳裏に倒れた吉田早苗の姿が過った。脇差に力を入れ、睦月を弾いた。睦月は数歩後ろに下がった。
――次に競り合ったら、確実に負ける――
師走がそう判断した矢先だった。睦月は怯むことなく、師走の懐に飛び込んできた。
再び、高い金属音が響く。競り合いながら、睦月は叫んだ。
「お前がどんな言い訳をしようと、弥生の命を奪っていい理由になんてならないんだよ」
師走の判断は正しかった。
バタフライナイフは脇差を振り払い、師走の左胸を貫いた。睦月は感触を確かめるように、さらにそれを捻じ込む。
「がはっ」師走は吐血した。
――死ぬんだな、俺――
意識が遠のいていく。
――早苗、ごめん。無理だった。この《ゲーム》に勝って、君の命を取り戻したかった。いくらなんでも与えるって言っても、死者を生き返らせるとか、無理だったってことかな。でも、もし勝ち残ったら、本当に君は生き返ったのかな。それで僕は満足したのかな。バカだな。死んだ人は帰ってこない。こんなことも分かんなかったのか。それでも、それでも、命に代えてでも、君が生き返ってほしかった――
脳の深い部分から声が聞こえる。走馬燈のようなものだろうか。遠のく意識の中で誰かの声が聞こえた。これは。
――これは早苗の声だ――
――……くん――
――なんかあんまり良く聞こえないな――
――……いちくん――
――何言ってんだよ、早苗――
――大地くん――
バタフライナイフを握る手に血がふりかかった。師走は立て続けに四度にわたり吐血した。やがて師走が吐血しなくなり、ぐったりしても、睦月は体勢を変えなかった。
じっと胸を貫いたまま数分間じっとした後、ゆっくりと手を離した。師走はそのまま前に倒れた。
「弥生……」
夕日はすっかり落ちていて、電灯が白く朧な光で睦月を照らしていた。決して陽だまりのような暖かいものではなかった。




