第54話「受け継ぐ手」
それから、いくつもの季節が、過ぎていった。
ミルドの村は、すっかり、辺境の医療の中心地になった。村には、薬草学を学ぶ若者が、絶えず訪れる。かつて、僕が一人で守っていた調合小屋は、今では、大勢の手が行き交う、立派な工房だ。
弟子のルカは、見違えるほど、立派な薬師に育った。
魔力がほとんどない、と笑われ、王都を追われてきた青年。けれど、薬草学に、魔力は要らない。要るのは、手間と、知識と、相手を想う心だ。ルカは、その三つを、誰よりも、たっぷりと積んだ。今では、難しい症状の診立ても、四層の薬の調合も、一人で、こなせるようになっている。
そのルカが、ある日、僕の前に、まっすぐに立った。
「先生。僕、決めました。北の、薬師のいない村へ、行こうと思います。あそこには、薬を待っている人が、たくさんいる」
その目は、かつて、うつむいてばかりいた青年とは、別人のように、澄んでいた。
「向こうで、薬を作り、薬草学を教えます。先生が、僕にしてくれたように」
僕は、胸が、いっぱいになった。
受け継いだものを、より豊かにして、また次へ。ハンナ婆さんから、僕へ。僕から、ルカへ。そして今、ルカが、その手を、まだ見ぬ誰かへと、差し伸べようとしている。知識は、こうして、人から人へ、土地から土地へ、終わりなく、巡っていく。
「いい薬師に、なったな」
僕がそう言うと、ルカは、照れたように、笑った。あの、ハンナ婆さんが、僕に「いい弟子だ」と言ってくれたときの、あの気持ちが、今、痛いほど、わかった。
ルカは、旅立っていった。背に、薬籠と、たくさんの薬草の種を負って。その背中は、もう、誰にも笑われない、一人前の薬師の背中だった。
ハンナ婆さんは、その様子を、家の前の椅子から、目を細めて見ていた。すっかり腰は曲がったが、まだまだ、達者だ。
「あんたも、立派な、師匠になったもんだね」
「ハンナさんの、おかげです」
「いいや」
婆さんは、いつものように、首を横に振った。
「あんたが、育てたのさ。あたしの知識は、あんたの代で終わるはずだった。それが、今じゃ、辺境じゅうに、根を張ってる。……あたしは、本当に、いいものを、見せてもらったよ」
その日の夕暮れ、僕は、いつものように、薬草園に立った。
畑の月見草が、夜のはじまりに合わせて、白い花を、ひらいていく。追放されてきた春の日、王都から、たった一鉢、運んできた花。それが今では、見渡すかぎりの畑を、埋め尽くしている。毎晩、星明かりの下で、静かに咲き続けている。
魔法は、使えないままだ。きっと、この先も、ずっと。
けれど、手間暇かけた薬で、村は、よみがえった。寂れた辺境は、人の集う場所になり、消えかけた学問は、たくさんの若い手に、受け継がれた。派手な魔法の、一つも使わずに。
最弱と笑われた僕に、できたこと。それは、ただ、薬草と、向き合い続けたことだけだ。一枚の葉を、丁寧に挽き、一滴の汁を、慎重に確かめ、目の前の一人を、手間を惜しまず、手当てする。その、地道な積み重ねが、いつしか、村を、辺境を、変えていた。
誰にも邪魔されず、好きな薬草を、研究して暮らしたい。あの、ささやかな願いは、今も、叶い続けている。明日も、明後日も、僕は、この畑で、新しい薬草と、向き合うだろう。知りたいことは、まだ、山ほどある。
月見草の甘い香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
風が薬草園を渡っていく。土の匂いがした。それは、追放されてきたあの日と、何も変わらない、けれどあの日よりずっと、豊かで温かい匂いだった。
僕は乳鉢を手に取った。さあ、今日も薬を作ろう。誰かの痛みが和らぐように。
(了)




