1 思慮深き人も、何も予見できず
雪が降っている。小さな神殿の周囲は開けている。さらに背後には森があった。そこから木立が広がり、神殿を半ば囲う形となっていた。本来なら緑の野原がこの石造りの神殿の周りに広がっているのだが、今はあたり一面白一色だ。
この神殿は村はずれの小さな丘の上にある。この丘からは向こうの村の家々を眺めることができた。大した距離ではないのだ。事実、村人はことあるごとにここへきて女神に祈りをささげる。神殿から少し離れたところに、ここの司祭の家がある。小さな家で、煙突が見えた。
ガザラクは雪に足跡を付けながら、このなだらかな丘を登る。浅く積もった雪は、踏めば下の緑の草が見えて、足跡がよく目立つ。
振り返れば先ほど立ち寄った村が近くに見える。
少しして足を止め、神殿と家の二つを見比べる。さて、どちらに目当ての人間がいるだろう。太陽は高く登っている。この時間なら、きっと彼は神殿の静かな雰囲気を謙虚な心で楽しんでいるだろうと想像がついた。
神殿の扉を開けると、中に一人の人間がこちらに背を背けたまま立っていた。奥に、神殿がどこもそうであるように、水を張った大鉢が置いてある。その真上は天井が開いていて、もし太陽が天頂に登れば、光が大鉢の中へ差し込むように設計されている。基本的には、どの神殿もそのように設計されている。
人影はその大鉢の隣に立ち、片手をその縁に置いていた。視線は神殿の奥の壁、そこに開けられたガラスの入った大窓を見ていた。同じ大きさの大きな窓が、上と下に三つずつ並べられている。近くの木々の葉と、遠くの山が見えた。――田舎の小神殿にしては凝ったつくりだ、とガザラクが思う
ガザラクが中央の通路を通ってその人影に近づく。人影はその時になって初めて、背後を見た。
幼いきれいな顔立ちをしていた。しかし顔には一切生気がなく、大きな目の下には大きな影ができている。男特有の愛らしさと幼さは、かつての雰囲気だけをかすかに留めて居る。
黒いフード付きのローブを着ている。その色合いと、服に施された黄金の装飾から、彼がかなり高位な聖職者であるとわかる。
ガザラクは彼に一礼する。彼はガザラクの様子をじっと見つめ、何も言わずに頷いた。
ガザラクは上体を起こして何と言おうか迷った。ここへ来るまでに何度もセリフを考えたのだが、いざ本人を目の前にすると、言葉がうまく出てこない。
彼はじっとガザラクを見る。フードの影が彼の顔にかかっていた。
「……最高神祇官様が、ついに聖女召喚の儀式を行う手筈を整えました。あとは例の遺跡で祭儀場を見つけるだけです」
「……そうか。ご苦労」
「王の苛烈な政治は留まるところを知りません。すでに地方では神殿の領地が次々と召し上げられています」
「ここの村も、かつてはこの神殿の領地だった」
「聞き及んでいます」
イルディスはその話を知っている。この村は百年前は確かに神殿の領土だった。しかし紆余曲折あって、神殿はこのあたりの土地を手放した。詳しい事情をイルディスは知らないし興味もないが、どうせ貴族か王との政治の駆け引きの上での話だろう。今各地で神殿領が削られているのとそれとでは、話の趣旨が違う。賢き目の前の司祭が、それを知らぬとは思えないが――。
イルディスは言った。
「しかしそれは百年も前のことです」
それ以上は言わなかった。相手の様子を見る。彼は表情を全く変えずにイルディスを見続けている。
「アルベラーデは王とそっくりだ。策が好きすぎる」
アルベラーデは最高神祇官だ。彼は彼女との政争の末にこの場所にいる。
「はい……先生」
そう呼ぶのは、彼がイルディスの師であり、引き立て役だったからだ。イルディスは自分が才能に溢れていると自覚している。しかし、今の神殿での地位は、自分一人の才能だけによるものではない。目の前の彼が、自分のためにどれだけ骨を折ったか深く理解していた。打算もあったろう。それでも、イルディスは彼を尊敬している。
「先生」と、イルディスは呼びかけた。「先生のおっしゃる通り、アルベラーデの計画は順調に進んでいます。しかし、多くの神官が不満、疑いを持ってもいます。聖女を召喚したからと言って、王がその言葉に従うとは限りません。また、魔術の復活が懸念されます」
先生は目を閉じた。
「聖女は王への牽制にはなるだろう。だが、果たして……彼女たちがそれをうまく扱えるとは思えない……」
先生はにやりとする。
「さりとて、王が我ら相手に妥協するつもりがあるとも思えない……王は諸侯と神殿とを同時に敵に回してどうして勝つつもりでいるのだろうか」
「王は諸侯に細切れの権利を送り、その忠誠心をつなぎとめています」
「ああ、なんて複雑な利益だろう」
「ともかく! 先生、大事なのは魔術の復活です。いくら王と対決するといっても、何も禁忌を犯す必要はないのです!」
「もちろん、お前はわたしと同意見だ。だって、わたしがお前に知恵を授けたのだからね」
「はい」
イルディスは頷いた。
「聖女は女神の寵愛者だ。彼女が現世に来れば、それは必ず神の奇跡を伴うということだ。それは再び魔術の時代が来ることに他ならない」
「はい……禁忌です。暗黒時代が再び訪れてしまいます」
「先制、もはやこれを止める手立てはないのでしょうか」
「わたしには思いつかない」
イルディスは深いため息を吐いた。
「王が例の遺跡へ、ヘーフェン公爵領へ使節を派遣しました。大使は例の、ダレナーハイドの一人娘です」
「へえ?」
先生は興味を持ったようだった。
「遺跡の権利を取り上げるようです」
「それは公爵領の一部を召し上げるということと同義だ。さて、そんなことができるのかな?」
「神殿内部ではこれに大きな反発があります。強硬派はますます勢いを増すでしょう……」
くすりと先生は笑う。
「王が遺跡を持てば、王は地下に隠された祭儀場をうまく使おうとするだろう。神殿が遺跡を持てば、魔術の時代が訪れる。うまくいかないなあ」
ははは、と先生はかすれた声で笑う。イルディスは視線を深く地面に、神殿の石の床に落とさずに入られなかった。




