1話 えっ! わたしめっちゃかわいい!?
1
「私」は微睡みの縁を揺蕩っていた。意識は浮き沈みを繰り返し、その度に頬を風が撫でる感覚がする。「私」の体は強い浮遊感に包まれて、ゆらりゆらりと、ただ揺れている。さっと冷たい風が頬に吹き付ける感じがした。「私」はまた意識が浮上する感覚を覚えた。そして、重たいまぶたを意識するともなく持ち上げようとする。
視界がぱっと晴れていく。景色はあいまいで真っ白く、「私」のものらしからぬ長いまつ毛が、何条も視界を黒く遮っている。
「私」はぼんやりとその状態のままでいた。身体がだるい。身体のどこも自分の力で動かしたくないと何となく思った。それでも、この感覚が心地よい。
――どこからか水の揺らぐ音がする。水が風に揺さぶられて、陸地へ小さく押し寄せては帰る優しい音……。
「私」は今どこにいるの? どうして、これほど気持ちが良いの?
2
「アッ」と、遠くから声を上げた者がいた。「ここにいらしたのですかね!」
「私」はじっと、眼を軽く開いたまま、あたりの景色をぼんやりと眺めていた。声の主が誰か、興味も湧かなかった。それでも「私」にはその声がひどく懐かしく感じられた。遠くから、風と水の音に混じって、土を跳ねるように踏みしめてくる足音が聞こえてくる。
「――!」
その声は、今度は近くから聞こえた。「私」はそれを聞き取れなかった。景色はほんの少し明瞭になっていて、すぐ近くの美しい池と、それを囲む同じように美しい草花が見えた。
「――さま! アルゲンティアさま!」
幼い、優しい少年の声だった。また、その人が声をかけながら近づいてくる。
「ああ、アルゲさま! 大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
言って、彼は「私」の近くへ膝を下ろし、「私」を見下ろした。
アルゲは、少年の手が、ゆっくりと自分の肩に触れたのがわかった。
「アルゲ様……。わたしは、たくさんあなた様を探しましたよ」
アルゲは仰向けになって、ゆっくりと眼を開いて言った。青空が澄んでいて、白い雲がくつも飛んでいる。周囲の木々の枝がそこへ伸びて空の景色を遮ろうとするのが美しかった。アルゲはおもむろに上体を起こそうとする。身体を軽く横にそらして、腕を地面に立てると、隣に膝をついていた少年がアルゲを抱えるようにする。
少年が心配するので、アルゲは軽く頷いた。乱れた髪が顔にかかった。
「大丈夫」と言って、アルゲは少年の顔を見た。――ああ、なんて懐かしい感じがするんだろう!
ティコは心配気な顔でこちらを見ながら、顔をのぞき込むようにする。伺うように言う。
「あの……。本当に……お怪我はありませんか? その、少し」
アルゲはティコを遮った。
「少しいつもと変わって見える?」
あ、いや、とティコは否定したが、相変わらずこちらの様子を伺うようだった。心配されているのだ、とわかる。
アルゲはたった今、生まれ変わったのだ。なぜかそのことがはっきりと分かった。アルゲがこの池のほとりで眼を覚ました時、アルゲの体には過去のアルゲの意識と、前世の「私」の意識の二つが入り交じったのだった。それがどうしてなのか今のアルゲにはわからない。だが、体の中にいるもう一人の自分についてははっきりとわかる。でもそのせいか、傍らに佇む少年のことがぼんやりと遠くの存在に感じてしまっている。もしかしたら、前世の「私」のせいで、記憶が混乱しているのかもしれない。
アルゲは立ちあがった。自分は池のほとりで少しの間眠り込んでいたようだった。池の周囲には草花が豊かに生えていて、色とりどりで美しかった。緑は濃く、花々はあざやかだ。さらにその周囲は深い木立で、森のようだった。アルゲはこの森がどれほど深いのか、よく覚えていない。だが木立がずっと奥まで続いているにもかかわらず、森は暗い感じはしない。それどころは森の奥まで太陽の光が行き届いているように見えて、明るい感じがした。
ティコが気をつかいながら、アルゲの腰近くに手をまわして介添えしようとする。ティコがそれに緊張しているのが分かった。
アルゲはその手に自分の手をそっと添えた。もう大丈夫、の意だった。それを汲み取ったティコは隣に立って、アルゲがすっかり立ち上がるのを見守った。
アルゲは自分の身体に着いた土を落とそうと視線を下に落とした。その時、自分の着ている黒い美しいドレスが目に着いた。あまりの美しさに、アルゲははっとした。これが自分なのか……。
アルゲは俄然、自分に興味が出てきた。内心はしゃいで、自分の背後をのぞき込んだり、腰をかがめてドレスの裾をみたりした。挙句には、背後の長い髪を一掴みして胸の前へもってきた。髪の色は薄い金髪で、すごく美しかった。そして、ドレスの胸元に覗く肌の白さとあでやかさに驚く。その様子を見て、ティコが伺うように何かを言ったが、アルゲは無視して水辺へよって水面を覗き込んだ。
そこには美しい少女がいた。目はくっきりと大きく、まつ毛は豊かで長い。まるで人形のような顔立ちの少女だった。(……これが、わたし?)まさしく、アルゲに違いなかった。
「アルゲ様? あの、本当になにか……」
アルゲはぱっと晴れやかな気分になった気がして、微笑みながらティコを見た。ティコはその様子に呆気に取られたようだった。アルゲが両膝を地面に突いたまま、ティコににじり寄ると、ティコは一歩後に下がった。それでもアルゲは彼に近づいて、満面の笑みでその手を取った。
「これが、わたしなのね?」
「えっ?」
ティコは引きつった顔をしている。どんな表情をすればいいのかわからないようだ。
「さっき水面に映った美しい女が、わたしなのね?」
「えっ、えっ」とティコが言う。彼は、自分の手を握ったアルゲの手を、緊張で固く握り返していた。その手とアルゲの顔を、必死に視線を行ったり来りさせながら、顔を真っ赤にしながら答えった。「はい、その通りです。あ、アルゲ様はこの世で最も美しい……お人です」
「まあっ! 信じられない!」
アルゲは立ち上がった。こんな美しい少女が自分だなんて、まったく信じられなかった。実は、アルゲは自分の姿を自分のものだと知識ではわかる。だが心が全くそれに追いつかないのだ。
アルゲはティコのことを知っている。彼がずっと自分の傍に今まで付いていてくれたことを覚えていた。アルゲが立ち上がれば、ティコはアルゲの胸元くらいまでしか背がなかった
。
アルゲは嬉しさのあまりティコの手を取って、さっ、行きましょうと言った。ティコは相変わらず顔を真っ赤にして、見ているこちらが恥ずかしいほど必死に頷いた。
「はいっ! ええ、と……」
アルゲは歩き出した。適当に森を、一歩一歩力強く歩く。ティコは何が何だかわからないといった風に、アルゲに引きずられるようにして歩いた。
「あっ、そっちじゃありません! 向こうです!」
ティコが言うと、アルゲがそっちに向かう。
「あ、今度はこっちです!」
そう言われたら、またアルゲはそちらへ向かう。アルゲの口角は自然と高く上がっていた。水面に映った人形のような、小さく美しい顔……。花のような美しさ、雲のような純白さ……。その目はやはり人形のように大きく、睨めば鷲のように威厳に満ちるに違いないだろう。アルゲは自分が微笑めば、山さえ割れるに違いないとなぜか思った。
アルゲが立てば、ティコの背はアルゲの胸元くらいしかない。だから、調子づいて進むアルゲの後ろを、ティコが手を引かれて必死についてくる形になる。だからティコの道案内はいつも一拍子遅れるのだった。もちろん、ティコが必死にその役をこなそうとしているのは見てとれる。
アルゲは懐かしいティコの様子に微笑みながら、森の中を進んでいく。――そう、懐かしい。実際はアルゲはティコと長く別れてなどいない。アルゲは彼から少しの間離れて、森で寝ていただけだ。それなのに彼が懐かしく感じるのは、「私」のせいだろう。
森は大した広さではなかった。木立の木々は大きく太い。根は地によく張り、地面を隆起させていた。それでも、森には細道がしっかりと整備されていた。ここは自然の森ではない。城の広大な敷地の中の一角、よく手入れされた庭先の一部なのだ。アルゲはそれを知識として知っている。思い出せる。
森を出れば相変わらず照れた顔をしたティコが隣へ立った。心なしか、こちらを見上げる目は潤んでいるようにも見える。その様子がおかしくてからかいそうになったが、アルゲはやめる。
「馬車はもう用意されています。今はきっと、家財道具すら積み込み終えたはずでしょう」
つい、どこへ行くの、とアルゲは聞きそうになった。既にアルゲは自分の状況をあらかた思い出している。自分はこれから王都へ向かう手筈になっているのだ。歓迎されない客として――。
「ご心配無用です!」
小さなティコは叫ぶように言った。
「たくさんの家臣が、姫様に付き従いますから……」
「ありがとう、ティコ」
言いながら、アルゲはティコを見た。
ティコはさっと、繋いでいた手を離した。ティコはわざとらしく視線を反らして居心地悪そうにしている。その様子を見てから、アルゲは空っぽになった手をまじまじと見て、言った。
「そういえば……わたしは何を抜け出したのだっけ?」
「出立の前に、公爵様へご挨拶に参られる途中でいらっしゃいました」
「ああ、そうそう」
軽く言ってから、城へ続く道を歩く。森を出たときから、小さな丘の上、すぐそこに大きな城が見えていた。あれこそ、我が家の居城だ。自分はあの城の姫なのだ。
城に続く庭には大きな花壇がいくつもあって、色とりどりの美しい花がひしめき合っていた。背の高い花、小さい花、どれも美しかった。その下を飾る草も手入れされていて、見ていて心地が良い。
ここはすでに城壁の内側だ。
城内の通路は赤い絨毯が敷かれていた。アルゲが歩けば城の者たちは廊下の左右へ避ける。
城の中の一角、大きな扉の前へ立った。アルゲがノックすると中から声がした。入ると、部屋の奥の方におかれたテーブルの傍で母親が座っていた。
アルゲが母親の方へ近づくと、ティコは部屋の扉を閉めて、その近くで静かに立つ。
それを一瞥して、アルゲは母親の間近へ寄った。
美しい女だった。その相貌に、アルゲは先ほど水面に映った自分の顔の面影を見出した。公爵 ドロテア・フォン・ダレナーハイドは非常に美しい女だが、娘アルゲンティアのそれには及ばない。アルゲの美しさはそれほどまでに人々から隔絶していた。
「ああ、やっときたのね」
そう言ったドロテアは、手を伸ばして、アルゲにもっと近くへ来るように促した。
ドロテアは若い。アルゲよりは年を取っているが、見た目は二十代の後半くらいに見える。それも、見た目だけのことだ。実際のところ、彼女の年齢はすでに三十五になる。
この世界では、人はある程度の年齢に差し掛かると、見た目が老化しなくなる。女も男もだ。女の場合はそれが二十代後半。男の場合はそれが十代の前半。男の場合はさらに「私」の知る日本と違う。男は中性的な、心なしか少女に似た見た目を全ての人がとる。背は小さく、女性より高くなることはない。身体は華奢で、力仕事には向かない。この世界は男は女性に比べて守られるべき存在とされるが、地位が低い。
「お母様、わたし、さっきは取り乱してしまったの」
「ええ、知ってるわ。それも当然ね」
言って、ドロテアはアルゲの手を取り、眼をつむった。
「わたしを恨むなとは言わないよ」
「まさか!」
アルゲが叫ぶと、ドロテアはそっと目を開けた。
「そう……」
「どうしてわたしがお母さまを恨むのですか?」
「わたしは、あなたを……敵地に送るのです。でも、どうか……わたしがそれを望んでいるとは思わないでおくれ」
「ええ、もちろん」
言いながら、アルゲは母親の手をしっかりとつかんだ。
王国と、その臣下であるダレナーハイド家との戦いが終わったのは去年の冬だ。ダレナーハイド家は王国東部に広大な領地をもっている。詳しく見れば、ダレナーハイド公爵位を含む四つの公爵位と、その領域のすべてを保持していた。それら公爵位の領内にあるいくつもの伯爵位を保持し、直轄領としていた。王国の範囲は、ダレナーハイド家の保有するそれと比べれば広大だ。だが、直轄領だけみれば、王家よりも当家の方が断然広い。とはいえ、王家にはそれを支える諸侯がある。初めから、力は王家の方に分があった。もっとも、諸侯のすべてが王家を支持するわけではない。アルゲのダレナーハイド家すら、諸侯の一員である。
ダレナーハイド家は昔から王国の東方に広がる他国を征服して領地を広げていた。そこには主に獣人たちの部族や国があって、それらは未開の地と同一視されていた。しかし王国は、これ以上のダレナーハイド家の拡大を望まなかった。王国は三年前、戦争禁止令を発し、国王の許可なく戦争をすることを禁じた。これに反発した当家と、それを支持するいくつかの諸侯と、王家とそれを支持する諸侯との間で、王国が法律を定めてからすぐに戦争が起きたのである。
戦争はほぼ互角に進んだ。王国一の公爵家はそれほどまでに強い。だが、味方する諸侯は大した力を持っていなかった。そして去年の冬、和平が結ばれた。そこで結ばれた条件は、ダレナーハイド家の一人娘であるアルゲンティアを官職を授けた上で王宮に入れるというものであった。これが人質であることは疑いようがなかった。
母親はか細い声で言った。普段は力強い母親が、今は心なしか弱って見える。
「でも大丈夫だよ。あいつらがあなたに何を言っても、あなたを傷つけやできないよ」
「わかっています」
言って、アルゲは頷いた。
「何度も人をやって、様子を見るよ」
「ああ、お母さま! 心配ご無用です」
「そうやって強がるのはおよしなさい。あなたは本当に、危険を引き寄せる」
ドロテアはそう言って、アルゲの顔をまじまじと見た。アルゲは照れて、さっと顔をそむけた。
「また、ますます美しくなったね。わたしにはわかる。あなたの美しさは盛りを迎えたよ。あなたはこれを一生背負っていくんだわ。美しい子、あなたは世界で一番美しいわ!」
アルゲは気恥ずかしくなって、眼を母親から背けたまま首を縮こめた。
「恥ずかしいわ」
「でも、気をつけなさい! 悪いものがたくさん寄ってくるのよ。あなたは用心しないとだめだわ。あなたが眼をじっと見つめて、落ちない人間はいないんだよ。あなたはどんな人間も虜にできる。それはあなたの武器だから、よくつかいなさい。そして何度も何度も用心なさい」
「わかりました」
アルゲが言うと、ドロテアは彼女の手を持ったまま立ち上がった。
母親はアルゲの姿を上から下までまじまじと見つめて、抱きしめた。
「頑張る……。お母さま」
「頑張って……」
母親はアルゲを離し、潤んだ目で見つめた。最後に両肩に自分の手を添え、優しく押した。
「さ、あなたはもう元服を迎えたんだから、いちいち玄関まで見送ったりはしないわよ」
「ええ、そんなもの必要ないわ」
言ってから、アルゲは母親を見つめる。部屋を出ようとした。最後にアルゲは母親を一瞥する。




