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第二章 文系脳

第二章!

楽しんで!

 「意味不明。なんで全部英語と数式なのよ……」


 深夜一時四十五分。俺――じゃなくて、高瀬の残したパイプ椅子の上で、私はノートPCの画面を睨みつけながら頭を抱えていた。

 デスクの横には、大学の購買で買ってきたブラックコーヒーの空き缶が三本、転がっている。


 文学部で近代文学の、それも明治期の文体を研究している私にとって、高瀬が残したシステムは呪文の羅列にしか見えなかった。

 画面を流れる『気流ベクトル』だの『飽和水蒸気量』だのといった専門用語は、私の脳細胞を右から左へとすり抜けていく。高瀬がいれば「お前の脳はシナプスが断線してるんじゃないか」と、眼鏡のブリッジを押し上げながら鼻で笑ったに違いない。


「でもね、言葉テキストが読めるなら、データの癖(文体)だって読めるはずだよ」


 私は研究ノートの殴り書きを、まるで難解な古典の注釈を読み解くように一文字ずつ解釈していった。

 高瀬がやろうとしていたのは、怪異のデータ化だ。なら、私にできるのは、そのデータの中に隠された「高瀬の意図」を直感で繋ぎ合わせること。

 高度なプログラムを書き換えることはできなくても、センサーのログを時間軸ごとに並べ替え、視覚的なグラフの『歪み』を私の感覚センサーと同期させることはできた。


 ――午前二時三分。 不意に、部屋の空気が張り詰めた。


 窓を閉め切り、エアコンの除湿モードを最大にしているはずの室内。なのに、じわ、と肌に湿気がまとわりついてくる。昼間に感じた、あの床下から這い上がってくる冷気とは違う。

 もっと生温かくて、息苦しい、何かが凝縮されたような不快な気配。


 ノートPCの画面に目を落とす。湿度計は四五%から、一分ごとに一%ずつ、生き物のように数値を上げ始めていた。


 午前二時三分五十五秒。

 五十六、五十七、五十八、五十九。


 ――二時四分。


 ピピッ、と短い警告音が部屋の四隅の機材から一斉に鳴り響いた。

 同時に、私の眼鏡のレンズが真っ白に曇る。

 高瀬の記録にあった通りの現象が、今、私の身の回りで完全に再現されていた。六畳一間のボロアパートの空気が、まるで沸き立つサウナのように様変わりする。部屋中の壁紙からじわりと水滴が噴き出し、書類が湿気を含んでしんなりと波打ち始めた。


「……っ」


 普通なら、ここで恐怖に負けて部屋を飛び出していた。けれど、私の指はキーボードの上に固定されていた。曇った眼鏡を片手で乱暴に外し、裸眼で青白い液晶画面を凝視する。


 画面の中央、ベッドの真上の虚空。

 そこに、赤外線サーモグラフィが捉えた『真っ赤に燃え上がるような熱源』が出現していた。

 七年前に殺された佐藤さんの、人生最後の十分間の過呼吸データ。吸う動作を持たず、ただ肺から漏れ出続ける、あの凄惨な息遣いの波形が、モニターの上に不気味なサインカーブを描いていく。


「これが、高瀬の見ていた景色……」


 ゾクゾクとする鳥肌が腕を駆け上がる。

 だけど、私の直感は、その王道の怪異データではなく、画面のさらに奥――あの高瀬が最後に吸い込まれて消えたとされる『二重壁の隙間』のログへと向けられていた。


 昼間、パチパチと明滅していた微弱なエラーノイズ。

 二時四分になった瞬間、そのノイズの波形が、これまで見たこともないような奇妙な規則性を帯びて動き始めたのだ。


 佐藤さんの過呼吸データは、激しく、不規則に乱れている。

 しかし、壁の奥の奈落から発信されているその微弱なデータは、まるで一定のテンポを刻むメトロノームのように、あまりにも綺麗に整いすぎていた。

 それはまるで、暗闇の奥底から必死に、限られた酸素を惜しむようにして刻まれる、規則正しい【生存の脈動】のようだった。


「これ、ただのノイズじゃない……?」


 私は高瀬のノートを引っ繰り返した。

 彼なら、この規則的なデータをどう解釈しただろう。理系脳の彼なら、きっと『周波数』や『パルス信号』として分析したはずだ。

 でも、文系の私の脳は、別の答えを弾き出した。

 規則的なオンとオフの繰り返し。


 短い点。長い線。その組み合わせ。


「嘘……トントン、ツーツー、トントン……?」


 私の指先が、凍りついたように止まった。


 それは、モールス符号だった。


 文学部の講義で、初期の近代通信の歴史を学んだときに見たことがある。

 壁の奥の暗黒、警察がどれだけ探しても死体すら見つからなかった、あのアパートの構造の裏側から――何者かが、このノートPCの環境センサーの数値を意図的にハッキングして、文字の信号を送ってきているのだ。

 私は震える手でルーズリーフを開き、画面に映るパルスの明滅を文字に書き起こしていった。


 長点、長点、短点、長点、長点。

 長点、長点、短点、長点、長点。


「コ……コ……?」


 一文字ずつ、アルファベットが繋がっていく。

 佐藤さんの幽霊が、死に際の苦しみの中でモールス信号を打つなんてあり得ない。七年前の被害者は、ただの一般的な会社員だ。

 なら、今、この部屋のデータの隙間を縫って、私にメッセージを送り届けることができる人間なんて、世界に一人しかいない。


「高瀬……あんた、生きているのね?」


 涙で視界が歪みそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。

 画面のパルスは、二時十四分、湿度九九%の臨界点が終わりを迎えるのと同時に、じわじわと弱まっていく。

 部屋を埋め尽くしていた霧のような湿気が、嘘のように引いていく中、私がルーズリーフに書き留めた最後の文字列が、一つの不気味な文章を形作った。


『ココカラニゲロ ヤツハマダ ウエニイル』


 最後の信号が途絶えた瞬間、私の部屋の天井裏から、パキ、と古い木材が軋むような、生々しい音が響き渡った。

 

 高瀬は、あの闇の奥のどこかで、まだ生きている。何かを吸い、命を繋ぎながら。

 そして――彼を奪った『奴』もまた、今この瞬間、私の頭上で息を潜めている。

ご覧いただきありがとうございました。

高瀬は生きているのかそれとも、、、

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